プロローグ
「ゆりー、起きてるのー?」
二階に向け、佐伯さくら(さえきさくら)は声をあげるが、反応がない。
目覚まし時計は、五分程前に鳴っていたはずだ。目覚ましを止めた気配もあった。きっと二度寝をしたのだろう。
昨夜は、遅くまで起きている気配もあった。
階段を上がっていく。一段上がるたびに、階がきしむ音を発する。手すりもぐらついていた。まだ新築から数年だ。古びるには早い気がする。
「ゆり、入るわよ」
部屋のドアを開けると、娘の佐伯ゆり(さえきゆり)は、姿勢良く眠っていた。
机を見ると、教科書とノートが置かれている。夜遅くまで勉強をしていたようだ。
高校生にもなれば、もう少し不良じみた振る舞いを見せてもいいようなものだが、ゆりは良い子過ぎる。あまり手がかからないのは良いのだが、これでは大人になってからが心配でもある。父親である夫が他界してから、その傾向は強くなった。それだけに、時々寝坊するのは、微笑ましく可愛いものである。
さくらは、ゆりの布団を剥ぎ取った。するとゆりは、呻きながら身体を縮めた。
「起きなさい。学校でしょう?」
「はい」
まさに寝起きと言った様子で、声に張りがない。
「起きないと不細工になるわよ」
「いやだぁ」
ゆりが上体を起こす。本当に不細工になるわけもないが、こういう根拠のない母の言葉を、ゆりは頭から信じるところがある。
「いつ、どこで、誰に、見られているかわからないんだから、カーテンを開ける前に着替えるのよ? わかった?」
「ふぁい」
「復唱」
「カーテンを開ける前に、着替えます」
「よろしい」
今時、小学生でも、もう少し強い警戒心を持っている。親にとって良い子である分、抜けたところもある。それは可愛気であるが、しかし、気をつけるべきだった。娘のゆりは、年頃の女の子なのだ。
階下に戻ると、鏡を見て身だしなみを確認した。鏡の端の方が少し濁っているので、そこを避けるようにして、全身を確認する。
時計を見ると、家を出る時間だった。仕事に行かなくてはいけない。
鞄を手に、玄関へ小走りする。下駄箱を開き、パンプスを取り出そうとすると、仕切り板が落ちた。
「あーあ」
「壊れちゃったの?」
階下に降りてきたゆりが言う。
「うん。どこもかしこも古いのかもね。たった三年で。造ったの誰よ、んもうっ」
仕切り板を直そうと試みたが、また落ちた。
「あたしが直しておくよ」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、お願いね。これと、階段、手すり、脱衣所の戸。ああもう、全部?」
「無理だよ。そこだけ」
ゆりが仕切り板を指差す。さくらはふくれっ面を返した。
「ねえ、知ってた? この仕切り板、裏側に生き物の足跡があるの」
「あ、ほんとだ」
ゆりが近づいてきて、その足跡に目を向けた。
「おかしいね」
「うん、おかしい」
「何の足跡だと思う?」
「犬?」
「あたしは、兎だと思うな」
「えー、こんなところに?」
微笑んで、ゆりの頭を撫でた。
「じゃあ、ちゃんと戸締まりをして出ること。いいわね?」
「うん。行ってらっしゃい」
パンプスを履き、外へ出る。朝が早いということもあって、日は昇りきっていないが、雲ひとつない空で、洗濯物がよく乾きそうな日だ。
「行ってきまーす」
ゆりに手を振りながら、扉を閉めた。ゆりは、笑顔で手を振り返してくれた。
この娘を守らなくては。例え一人でも。
今日も一日、頑張ろう。