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幸に忠を。  作者: 夏雪あい
開幕
1/17

プロローグ

「ゆりー、起きてるのー?」

 二階に向け、佐伯さくら(さえきさくら)は声をあげるが、反応がない。

 目覚まし時計は、五分程前に鳴っていたはずだ。目覚ましを止めた気配もあった。きっと二度寝をしたのだろう。

 昨夜は、遅くまで起きている気配もあった。

 階段を上がっていく。一段上がるたびに、きざはしがきしむ音を発する。手すりもぐらついていた。まだ新築から数年だ。古びるには早い気がする。

「ゆり、入るわよ」

 部屋のドアを開けると、娘の佐伯ゆり(さえきゆり)は、姿勢良く眠っていた。

 机を見ると、教科書とノートが置かれている。夜遅くまで勉強をしていたようだ。

 高校生にもなれば、もう少し不良じみた振る舞いを見せてもいいようなものだが、ゆりは良い子過ぎる。あまり手がかからないのは良いのだが、これでは大人になってからが心配でもある。父親である夫が他界してから、その傾向は強くなった。それだけに、時々寝坊するのは、微笑ましく可愛いものである。

 さくらは、ゆりの布団を剥ぎ取った。するとゆりは、呻きながら身体を縮めた。

「起きなさい。学校でしょう?」

「はい」

 まさに寝起きと言った様子で、声に張りがない。

「起きないと不細工になるわよ」

「いやだぁ」

 ゆりが上体を起こす。本当に不細工になるわけもないが、こういう根拠のない母の言葉を、ゆりは頭から信じるところがある。

「いつ、どこで、誰に、見られているかわからないんだから、カーテンを開ける前に着替えるのよ? わかった?」

「ふぁい」

「復唱」

「カーテンを開ける前に、着替えます」

「よろしい」

 今時、小学生でも、もう少し強い警戒心を持っている。親にとって良い子である分、抜けたところもある。それは可愛気であるが、しかし、気をつけるべきだった。娘のゆりは、年頃の女の子なのだ。

 階下に戻ると、鏡を見て身だしなみを確認した。鏡の端の方が少し濁っているので、そこを避けるようにして、全身を確認する。

 時計を見ると、家を出る時間だった。仕事に行かなくてはいけない。

 鞄を手に、玄関へ小走りする。下駄箱を開き、パンプスを取り出そうとすると、仕切り板が落ちた。

「あーあ」

「壊れちゃったの?」

 階下に降りてきたゆりが言う。

「うん。どこもかしこも古いのかもね。たった三年で。造ったの誰よ、んもうっ」

 仕切り板を直そうと試みたが、また落ちた。

「あたしが直しておくよ」

「そう?」

「うん」

「じゃあ、お願いね。これと、階段、手すり、脱衣所の戸。ああもう、全部?」

「無理だよ。そこだけ」

 ゆりが仕切り板を指差す。さくらはふくれっ面を返した。

「ねえ、知ってた? この仕切り板、裏側に生き物の足跡があるの」

「あ、ほんとだ」

 ゆりが近づいてきて、その足跡に目を向けた。

「おかしいね」

「うん、おかしい」

「何の足跡だと思う?」

「犬?」

「あたしは、兎だと思うな」

「えー、こんなところに?」

 微笑んで、ゆりの頭を撫でた。

「じゃあ、ちゃんと戸締まりをして出ること。いいわね?」

「うん。行ってらっしゃい」

 パンプスを履き、外へ出る。朝が早いということもあって、日は昇りきっていないが、雲ひとつない空で、洗濯物がよく乾きそうな日だ。

「行ってきまーす」

 ゆりに手を振りながら、扉を閉めた。ゆりは、笑顔で手を振り返してくれた。

 この娘を守らなくては。例え一人でも。

 今日も一日、頑張ろう。



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