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ミツバの帰還  作者: 燈真
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前編1 もう、書かないの?

 消えろ。私の手放した過去の希望。

 消えろ。かつて私から生まれてしまった世界の欠片。

 お願いだから、私の目の前から消えてくれ。

 私の未来に、あんたはいない。


 最近肌の調子が下がり気味だ。風呂上がりに化粧水と乳液を塗り込まれた顔が、鏡の向こうでわずかに歪む。

 この半年で、ストレスは格段に減った、と思う。仕事はいつも通り、良くも悪くもなくの現状維持。勤務上がりに同僚とご飯に行く回数が少し上がったので、むしろ気安さの意味では上昇傾向と言っても良い。齢三十の壁が見えた辺りからお腹周りが気になっていたので、浮いてしまった時間に、思い切ってフィットネスクラブに行くことにした。これまでの自分がどれだけ運動していなかったか、体力の落ちぶりに唖然としてしまったものである。昼も夜もデスクワークだったのは、やはりそれなりに各方面に負担がかかっていたらしい。自炊する余裕も復活したおかげで、健康管理にも多少気を回せるようになった。手慰みにスマホに入れたパズルアプリで遊び、ストレッチをして、ベッドの中で帰りがけに書店で見つけた好きなシリーズの続刊を読む。駅前の図書館で本を借りることもあった。持つべきものは面白そうな小説を薦めてくれる同僚だ。そうしてキリの良いところで、明日の予定をうっすら思い出しながら、消灯。このどこにも、切羽詰まるような不安など感じない。初めのうちは「こんなにゆったりと時間を使って良いのだろうか」なんて訳のわからない心配をしていたけれど、今となっては馬鹿馬鹿しいの一言に尽きた。慣れてしまえばこんなに心地良い時間はない。

 それなのに、この肌の不調はどうしたものか。「年齢? ……いやいや」

 身体的にはむしろ健康体になっているのだから、肌だってそれに比例して良いはずだ。健康になるほど、不安要素が消えるほど、悪くなるなんてそんなこと。

 だとすれば。

「確実に、“アレ”のせいね……」

 ドライヤーで髪を乾かしワンルームの部屋に戻ると、壁に面して置かれたデスクの横に現れた少年が、ゆるりとこちらを向く。少し大人びた面差しでおかえり、とばかりに微笑まれて、思わず乾いたばかりの髪を搔き乱したくなった。

「いつまで、いるのよ」

 追い出せるものなら、五日前にそうしている。できないのは、“それ”が実体を持たないもので、更に言うなら自分にしか見えていないものだからだ。

 柔らかく波打つ勿忘草色の髪。綿雲色のマントの下には、常磐色を基調としたブレザー型の制服のような衣装をまとっている。目の色と同じ淡い金色のブローチが、胸の上でマントを留めていた。

 その少年を、自分は良く知っている。いや、自分以上に知っている人はいない。

「さっさと消えなさいよね」

 なぜなら、彼を生み出したのは“ミツバ”と名乗っていた頃の自分なのだから。


 “ミツバ”は高校生の頃からのペンネームだった。文芸部の会報誌に小説と呼べるか怪しいものを掲載したのがきっかけで使い始めた。由来は確か、『四つ葉なんて特別なものにならなくても』云々。素直に“ヨツバ”にしていれば人生変わっていたかもしれないのに、とは言わないが捻くれたものである。それから社会人になっても使い続けていたから、なんだかんだ愛着はあったのだろう。投稿サイトに投稿したこともあった。オリジナルの同人誌を作成して、SNSで知り合った仲間とイベントで売ったこともあった。あれはあれで、多分充実していたのだと思う。もはやただ懐かしいだけの、若さゆえの愚かしさすら感じる記憶である。


 その、愚かしさの欠片が目の前に現れる理由は、一体何なのか。

「そうやって居座ったって、私は書かないわよ」

 何度言い聞かせても、彼は困ったように笑って首を振る。

「何よその、不可抗力ですみたいな顔。そういう笑い方するからレッダあたりにどつかれ」

 思わず彼の仲間の名前を出してしまい、盛大に舌打ちをした。

「ったく、あんたの顔見ていると余計なことまで思い出す」

 顔の横で追い払うように手を振ると、彼は小首を傾げながらそっと手を伸ばし、一点を指した。その先を目で追うなり、頭がカッと熱くなった。

「やめて」

 低い声音で吐き捨てる。

「書かないって言ってるでしょ。消えなさい」

 肩を竦めた彼の身体が、ゆっくりと足元から色を薄めていく。デスクの上のパソコンを指した指先だけが、最後まで残っていた。


「お祓いでもしてもらおうかな……」

「え、お祓い?」

 ついポツリと零した言葉を、向かいでお弁当をつついていた後輩が耳聡く拾う。

「何ですか先輩、不吉なことでもありましたか?」

「あー、うん、ちょっとね」

 まさか『ここ数日創作キャラが自室に現れてね』なんて言えない。社内ではただの読書好きインドア派で通している。

「何ですか何ですか、そう中途半端にぼかされると余計気になるじゃないですかぁ」

「え、何、何の話?」

 折悪く同僚と先輩まで気づいて寄ってきて、後輩がまた丁寧に教えている。逆にぼかし続けると面倒なので、「最近夢見が悪くて」と適当にごまかしながら説明すると、その場でスマホを使いだし、会社から電車で五駅ほど行ったところに女性に人気の神社があると教えてくれた。

「確かにあんた、最近小さいミスしでかすもんね。さっさと祓ってもらって安眠しな」

「ありがと、行ってみる」

 早く家から離れたくて早めに出勤した分、フレックスで退勤も少し早くできる。帰宅とは逆方向の電車に乗り、立ち寄ってみることにした。

 ……のだが。参拝して一応簡単なお祓いをしてもらい、散策しがてらあちこち写真を撮ってから帰ってくると、彼は相変わらず部屋の定位置に現れて、ひらひらと手を振っていた。

「……まぁ、わかっていたわよ。亡霊の類いじゃないってことぐらい……」

 ベッドの上に身を投げ出し、布団に向かってため息を吐き出す。安眠が遠のいたことを先輩たちに詫びてから勢いをつけて起き上がり、買ってきた夕飯の弁当を温めて箸を取った。彼は大人しいもので、どこからか取り出した本を読んだり、指で宙に文字を書いたり。目を逸らした隙に一瞬放たれた光にはギョッとしたが、見れば手の上で小さな光の精霊を踊らせていた。勘弁してほしい。

 半年以上前なら、こんなにオイシイ出来事ってなかったんだけどなぁ。何となくスマホを取って、SNSのページを開こうと伸ばした指を、途中で止めた。

《もう、書かないんですか》

 サークルの仲間の言葉が蘇る。

《『はるか天空の孤城』、途中で止めちゃうんですか》

 五日前に現れた彼を彼だと認識できたのは、彼女が描いてくれたイラストにそっくりだったからだ。それだけではない。先程の光の妖精も、彼女がかつて彼と共に描いてくれたものにそっくりだった。

 ごめんなさいとしか言えず、フォロワー全体に向けて一言詫びと別れの言葉を呟いて、そのアカウントごと消してしまった。それから半年、当然ながら彼女とは連絡を取っていない。

「……本当に、嫌なことを思い出させてくれるわね、あんたは」

 妖精に髪を弄られながらこちらを向いたその間抜け顔に、無性に箸を突き刺したくなった。


『はるか天空の孤城』の執筆は、焦りをどうにかしたかったから始めたに過ぎない。イベントを終えて次に何か、と考えに考えて、閃いた小さなアイデアに飛びついた。設定と登場人物と、起承転結だけをざっくり決めて半ば見切り発車で書き始めた作品だった。それほどまでに、焦っていた。

《選考通過しました!》

《出版決まりました!》

《週間で十位以内に入りました!》

《連載始めました、週二で更新します!》

 自分の左右を華麗に駆け抜けていく人たち。パソコンに向かっても指が虚しく滑るだけの自分が、とても惨めに思えた。

《周りを気にしても良い作品はできない。自分らしく目標に向かって努力することが大事》

 拡散で回ってくる誰とも知らない人の言葉が余計に自分を打ちのめした。努力が足りない。腰が重い。自分に甘い。目標がない。

 まだやれると無理して書いた『はるか天空の孤城』は、最初こそ気合いが入ったがすぐに失速し、結局十話にも満たずに止まってしまった。

 両手がキーボードから離れて落ちた。

 もう、耐えられない。

 書けない。

 私には、書き続ける才能が、ない。

 緞帳を落とすようにパソコンの電源を落とし、夜逃げのように謝罪を放って、以来創作界は検索すらしていない。唯一残したアカウントを、当時の仲間は誰も知らない。

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