ニール=ヘンルセン雑貨店
墓地にはさあさあと絹糸の雨が降っている。
細かい雨は只でさえ霧で煙がちな黒い森を余計に暗くさせる。
森に湧く霧は、どこか緑がかっているのだ。
土の湿った匂い。
「ちくしょう」
春といえどもこんな雨の日はまだ肌寒い。
男は自分を包み込んだこの森全体に悪態をついて、辛気臭い墓の見回りを始める。
彼はこの小さな墓地の墓守なのだ。
とうに正午も近いというのに、ぼんやりと薄暗い墓地の中、墓標たちの顔を懐中電灯の光で照らしてゆく。
子供の頃から十年もこの仕事を続けていれば、死霊や化物に怯える事はまずなくなる。そんなものは子供だましの嘘だ。
そうすると今度は闇が怖ろしくなってくる。
黒い闇に湧いた濃霧に取り込まれると、生き物の世界へ戻れなくなるような錯覚に囚われるのだ。
まだ日中だから、それほど暗くはない。だがやはり森の木々の奥に蠢く黒い影は彼を脅かし、片時も消えようとはしないのである。
「お日様が見てエなあ」
誰に言うでもなく、彼はそう呟いて懐中電灯を動かした。
途端に、目の前が光った。
「!?」
一瞬森の精霊が願いを聞届け雲を晴らしてくれたのかと思った。
そんなはずはなかった。
美しいブロンドの娘が、墓の前に立っていたのだった。長い金髪に光があたって、お日様のように思えただけだ。
「あ……す、すまねエ」
墓参りか。
男は懐中電灯を急いで娘から外した。娘はにこり、と男に微笑んで、横に立っている少年の手を引いた。
少年は男に向き直るでもなく、傘をさしたまま女に引かれて歩いていった。
「……美人だったなァ……」
森の妖精だといわれても、信じたかも知れない。そんな些細なことで男はいつもの覇気を取り戻す。二人が立ち去ってから、墓に向かって話しかけた。
「おー、あんな美人に手ェ合わせて貰える幸せモンは、どこのどいつかな~」
丸い光が墓標に刻まれた字を探り当てる。
「……なんだ、トリチェリーの爺さんじゃねえか」
真っ白い墓石の傍らには、控えめな水色の花束が添えられていた。
序文
ニール=ヘンルセンその人と、彼の営んでいた奇妙な店の話をする際、私は如何しても口端が緩むのを禁じ得ない。
私だけではあるまい。彼に関する資料を目にした者の或いは憮然とし、或いは笑い出し、或いは頭を抱えこんでしまう。
読者諸兄もご存じの通り、ニール=ヘンルセンに関する資料は、ひどく寓話めいている。
故に一部の堅固な史学者達は、彼の存在を架空の物として考え、彼の名を刻んだ先代の歴史家達に痛烈な批判を浴びせかけたりする。
無理もない。彼の存在に肯定的な私でさえ、それらの史書に目を通していると、三流の空想小説でも読んでいるのではないかという錯覚すら覚えるのだ。
しかし、彼の名前が屡々この国の信頼おける歴史書に見え隠れする、というのは紛れもない事実であり、それを全て「取るに足らぬ虚構」として片付けてしまうのは粗暴に過ぎる。
確かにある種の小説家達が謳うように、彼が能弁な言質でもって直接我国の歴史に変革をもたらした訳ではあるまい。
彼に其程の政治的才量があったかについてはいささか疑問である。
だが、彼の言葉と存在が我国の歴史的偉人であるところのホワイト・H・トリチェリーをして、かの有名な『蒸留器からの解放理論』を書かせたのは、確かな事実であろう。
さて長く堅苦しい口上をここまで続け、いよいよ彼のひきおこしたちょっとした騒動について語る段となった訳だが、この冒頭に私は以下の一文を挙げようと思う。彼は好んで彼の愛すべき店の入り口に、その謳い文句を掲げたようだ。
ならば、彼について長々と記すこの小説の冒頭にもやはりその一文を記すのが、先人である彼に対して好き勝手に語る事となる我々の、最大の礼であろう。
「よろず承ります ニール=ヘンルセン」
白ペンキで書かれたひどい癖字を眺めて、彼女は暫しの逡巡の後、やっとこさ覚悟を決めたらしい。薄い唇をきりりと噛み締めて、古ぼけた木戸を押し開く。ヒキガエルの悲鳴を潰して風化させたような呻き声をあげ、木戸は内側へと彼女を誘った。
明るい外の光量に馴れていた眸が、薄暗い店内を隈無く見渡すべくいっぱいに開かれる。
「いらっしゃい」
言葉をかけられて初めて、彼女はやっと眼前の人物に気付いた様子だった。人物のかけている小さな眼鏡が差し込んできた外部の陽光を反射して、きらりと輝いた。
「えっと……あなたが、その、この店の」
「いかにも」
大分目が馴れてきた。
改めて見回してみると、店内はコミカルな置物や珍妙なオブジェで、人の歩く隙もない程に埋め尽くされていた。よく踏まずに入ってこれたものだ。
十二畳ほどの店内は何百、何千もの品に(それらのほとんどは、用途を考えつくのが難しいようなガラクタばかりであったが)侵食されて、四畳半程に狭まってしまっている。
その中央に鎮座ましました一番大きな人形が、自らを指して店主と名乗った。……勿論、時折瞼を物憂げに瞬かせる仕草などから、紛う事無き人間であると判るのだが。
木製のカウンターに身を半ば沈めたその姿は、店内の雑多な様子と妙に噛み合ってしまって、動きの一切を目立たなくさせている。
(私よりよっぽど人形みたいじゃないか……。)
と、彼女は思った。
「如何用かな?」
人形のような店主は、緩慢このうえもなくカウンターの後ろの椅子から降り立った。
先程大きな人形、と述べたが、それはあくまで人形としてであって、人間としてはやや小柄な部類に入るだろう。
店主の背は長身な彼女の肩程までしかない。
小さな体に相応の、年端もいかぬ少年のような面立ちに、やはり小さな丸眼鏡がちょこんと乗っている姿は見ようによっては可愛らしいと言えなくもない。が、いかんせん呆けたような表情は実に無愛想で可愛げがない。
板についた仏頂面は、商人よりもむしろ研究熱心な学者か頑固な家具職人といったところだ。
たとえ地震カミナリ火事オヤジがこぞって襲って来ようが、その憮然とした表情は動ずることがないのではないだろうか。
格好もまた珍妙である。猫背にすりきれたどてらを羽織り、耳あてなどをはめている。
彼の体格に対し、どてらの方がやや大きいのか。袖は下ろした両手の先からだらりと派手に垂れていた。
(夏も盛りだというのに、暑くないのかな?)
疑問を口にする前に、店主が口を開いた。
「御客人。文字はいつ魂を持つ?」
「は?」
禅問答のような一言に、彼女はこの店の扉を潜ったそもそもの目的すら忘れて立ち竦んだ。呆気に取られて、眼を大きく見開いてしまう。
翠の硝子玉のような眸は、焦点を失ってしまっている。
「文字はいつ魂を持つと思うかね?」
同じ問いを繰り返されて、彼女はやっと我に返った。
急いで向けられた質問の回答を探す。
(……魂を持つ、というのは、意味を持つということかな?)
「ええと、それは……書かれた時じゃないんですか?」
「近いが、違うな」
我を得たりとばかりに、店主の口元がにゅうと上方に曲げられる。
「文字が魂を持つ事はないのだ。文字はあくまで手段であり、方法だ。文字を綴れば言葉が生まれる。文字は言葉となって初めて魂を宿す」
意地悪な問いだったな、とどうでもよさそうに詫びて、ソレを見た。
「では、物はいつ魂を宿すね?」
(それどころではないのに……。)
いらいらしながらも、彼女は答える。
「作られた時、ですか?」
「うむ、正解は『使われる時』だよ御客人。使われなければ、物は魂を持つ事など出来ぬ。本来の意図に用いられる一瞬、彼等は生命の輝きに溢れる。彼等の創造者であり仲介者たる雑貨屋店主である私は、この可愛い商品達を最大限に輝かせる相手を選別せねばならぬのだ」
子供のような嬉面を作り、店主は続ける。
「愛をもって」
矢鱈に嬉しそうに言う店主とは裏腹に、彼女は今にも泣きそうな顔をしている。
それでも、
(選別の余地があるほど繁盛している店とは思えないけれど……。)
などと内心冷静に批判しているところを見ると、少々の余裕はあるのか。
「……さあ、挨拶も終わったことだし話を聞こう。何をお求めか、御客人」
どうやら、先程までの長い問答は、挨拶代わりであったらしい。
ともかく、やっと発言権を与えられた彼女は、おもむろに狭い店内を店主の元へと走り寄って、だらんと下げたままの袖に縋り付いた。
「お願いです! 何も聞かずに……」
「な、何だね突然?」
「だっ……」
咳き込むように言い淀んでから、もう一度。噛みつく程の勢いで、彼女は叫んだ。
「だ、脱獄道具を一式下さい!」
店主……ヘンルセンは、瞬間、瓢箪虫を噛み潰したような顔をした。
ここで、魔法人形という概念に触れておきたい。
残念ながら、現代では人形に命を与える、という大がかりな魔法は失われてしまった。その末端は、数百年後の現代でも利用されてはいるが。
本書をお読み戴いている貴方も、航空機の自動操縦装置や、自動家内清掃システムに利用されているトリチェリー法などは聞いたことがあるだろう。
ここにペンがあるとしよう。
ペンは普通自分から動いたりはしない。それは、ペンの内に考えたり動いたりする事を拒否する強い抑制力が働いているからである。
万物は本来思考力と行動力を持っている。物品が自ら考え行動しようとしないのは、自らの中に強い抑制力を発生させ、動く事や考える事を禁じているからだ。
これを魔法と呼ばれる特定の方式によって取り払ってやる、というのがトリチェリー法の簡単な概念である。
本来失語症や硬直症候群の病人に自発心を取り戻させるため研究されていたこの魔法は、今や無機物にも試験的に応用されつつある。
この魔法の歴史を遡ると、一人の偉大なる魔術師に回帰する。……尤も、本人は魔術師という呼称を厭がって、自ら錬金術師と名乗っていたそうだ。彼の目的はあくまで宇宙の真理を解き明かす事にあった。さしもの彼も何も無い所から金を生み出す事は出来なかった様だが。
トリチェリー法の先駆者であり、この名称の由来ともなっている彼は、また、魔法人形製作の分野でも第一人者であったらしい。……というよりも、そもそもトリチェリー法そのものが魔法人形の為に作られたと言ってよい。
亡き妹そっくりの魂を持つ魔法人形を彼が作ったという逸話は、人造生命の歴史を語るうえで欠かされることがない。
ただし、その人形は製造されたばかりの時点では生命を宿すに至らなかったのだが。
鼓動もあるし息もするが、所詮物体の域を出ない人形。
半ば諦め気分で、彼は以前より完成させていたトリチェリー法を(無論、この呼称は彼の名前を取って名付けられたものであるから、彼自身そう呼んではいなかっただろうが)その人形へと応用してみた。
すると、先程までただの物体であったその人形に意識が芽生えた。自らの意志で行動し、喜怒哀楽を備えた生命が産まれたのだ。
彼はそれを魔法人形と定義づけ、正に生まれたての赤子同然のそれに色々な知識を与えた。
以後、彼の技術を受け継いで、数多くの魔法人形が造られる事となる。
綺麗な翠の瞳のそれに、彼は妹の名を付けた。
アサキ。
アサキ=ヤートリューア。
ヤートリューアという氏は、「只一つの魂」という造語である。
史上初の魔法人形は、そんな名で呼ばれた。
「脱獄とは……違法ではないのかな?」
袖に縋り付いたままのアサキをふりはらおうともせずに、ヘンルセンは寝呆けた声を出した。表情は元の無愛想なそれに戻っていた。
「無論違法です!」
なおも掴んだ袖を離すまいと、引き寄せながらアサキが叫ぶ。
小柄な青年(外見はほとんど少年なのだが。)に長身の女性がしがみついている様は悲壮を通り越して、滑稽ですらある。
しかし、アサキの心中は、悲壮どころの騒ぎではなかったのだ。
「ですがこのままでは……あ、兄が殺されてしまうんです!」
「お引き取り願おう」
涙目で訴えるアサキに下されたのは、容赦ない一言だった。
「気の毒だが、当店は世間に波風を起こすような出来事に一切関与はできない。ましてや犯罪者の脱獄に荷担するなど」
「兄は犯罪者じゃありません! 何も悪くないんです!」
激情に任せてアサキはヘンルセンをがくがくと揺さぶった。その力は、女性のものにしてはいささか強すぎる。再三の衝撃に店主は目を白黒させる。
「うぐぅ。お、落ち着……」
「世間様に迷惑なんてかけてやしないのに! 悪魔と取り引きなんかしてないのに!」
「……悪魔?」
胸ぐらを掴んだ手が離れて、やっとこさ息を整えたヘンルセンが聞き返す。
「魔女……もとい、魔男狩りか?」
「変な呼び方しないで下さい。……魔術師狩りですよ」
魔術師狩りの噂はヘンルセンも聞いた事があった。自らも魔術に傾倒した領主が、政敵から呪詛をかけられるのを畏れて領内の悪魔と通じた恐れのある者共を刑に処しているんだとか。
(……気をつけねばと、思った所だったが。)
悪魔などという迷信、彼の目から見ると馬鹿らしいとしか言いようがないが、日夜店にこもって商品の創作に没頭している自分も、周囲の住民から審問官に怪しいと密告されるやも知れぬ。
いくら悪魔など居ないと主張したところで、掴まれば終わりだ。拷問にかけられたうえ、絞首刑か火あぶりか。
そうなっては拙い。拷問を永久に受けるのはまっぴら御免だから逃げるしかないし、牢を破って逃げ出したら騒ぎになる。
牢獄行き、そのうえ脱獄ともなれば干渉判定B級以上だ。間違いなく、奴等に居所を察知されてしまうだろう。
(危険は冒すべきではないな。)
結論は出された。言いにくい言葉を言わんが為、ヘンルセンの翠の瞳が、やはり翠のアサキの瞳を凝視する。
「悪いが、どのような事情があろうとも、脱獄の力添えをする訳にはいかぬ。諦めて……」
「そ……!」
哀れな少女が悲鳴をあげるその前に、ヘンルセンはその瞳の異変に思い当たり、言葉を切っていた。
「ん?……なんと、よく見ればお主魔法人形ではないか!」
「え!?」
驚怖に打ち震えるアサキ。
「兄君とやらは御客人、其方を造ったせいで密告されたのだな?」
弁解しても無駄と悟ったか、取り残された魔法人形は視線を足下へと落とした。落としたまま訊ねた。
「……どうして判ったんです?」
「仮にも雑貨屋の店主たる者が、瞳と水晶の輝きを見紛う筈がない。……それに其方は瞬きをしていないだろう。この店に入ってから、一度も」
「ああ……忘れてた」
絶望とも落胆とも思える呻きが漏れる。
(貴様の瞳は特殊な水晶で出来ているから、本来なら瞬きなんぞする必要はない。しかしながら魔法人形だという事が外に知れたら些か五月蠅いでな。一応瞬きはしておきなさい。)
獄中に居る錬金術師のかつての言葉が、アサキの脳裏にフラッシュバックする。
(恐らく、魔法人形だと知れたら貴様は壊されてしまうであろう。儂も処刑されるだろうて。まったく、貴様にも儂にも生きにくい時代だ。)
そう言って、あの時あの人は笑ったけれど。そうか。私は壊されるのか。
「其方が魔法人形となると、話は別だな」
ぎこちない笑みを浮かべて、ヘンルセンがアサキの全身を眺めた。
その手には、今まで壁に立てかけられていた銀色に光るツルハシがあった。
柄を掴んだ勢いで、だぶだぶとしたどてらの袖がぎゅっと絞られる。
「渡すんですか、私を、異端審問官に」
声帯から滴り落ちるような声しか出なかった。
アサキの呻き声を聞いて、ヘンルセンは再び、あの瓢箪虫を噛み潰したような顔をした。
そして、一瞬の後。
「あっはははははは!!」
いかにも可笑しそうに、笑い出した。
「はははははっ、お主、中々面白い冗談を言うではないか」
「なッ……何が可笑しいんですかッ?」
てっきりツルハシで脳髄を割られると思っていたアサキは、いやに陽気になったヘンルセンの様子に周章狼狽する。
「いや笑わせて貰った。受け取れ」
ゆっくり抗議をする暇もなく、ツルハシを投げつけられた。唐突であったので取り損ねるかと思ったけれども、なんとか受け取った。
「……何です、これは」
「脱獄道具」
突然絶たれかけていた一筋の光芒を百台のカンテラで無理矢理水増しされた気分に捕らわれて、アサキは絶句した。ヘンルセンは続ける。
「これほど秀逸な魔法人形をその価値も知らぬ馬鹿者共に差し出すなどという、雑貨屋店主にあるまじき行いは出来ぬよ」
誉められた事にやっと気付いて頬を染めた彼女に、ヘンルセンはまた何かを放った。
大ぶりのノコギリであった。
「名前は何という」
「え……の、ノコギリでしょう?」
「其方の名前だ」
「アサキです。アサキ=ヤートリューア」
青年は少し嗤った。
「『只一つの魂』か。粋な名前をつけたものだな、トリチェリー御大も」
童顔に似合わぬ、大人びた微笑だとアサキは思った。
(……そういえば。)
彼女の創造者の名を、彼はどこで知ったのだろう?
……いや。それ以前に。
彼はアサキを見て、魔法人形か、と言った。
アサキの創造者は、自らの身を守るため、彼女の存在を頑なに隠した。
つまり、『魔法人形』という呼称は、未だ投獄された錬金術師の胸内にあるのみなのである。
(じゃあ、この人はどこで『魔法人形』を知ったのだろう?)
人工生命体については長らく錬金術師達の間で議論され続けていた。しかし、そこでの名前は『人造人間』とか、『ホムンクルス』とかいったものである。『魔法人形』などという文学的な呼称は通常錬金術師連中の好むようなものではない。
(何なのだろう? この人は)
この、寂しげな笑みを浮かべた人形のような青年は。
アサキの思考を察したか、ヘンルセンはすかさず先程までの微笑を消した。
「私は、ニール=ヘンルセンという。店主と呼んでくれたまえ、名前で呼ばれるのは好きではない」
アサキは肯いた。
ホワイト・H・トリチェリーがその半生を過ごした三柱暦600年代前半は『悲嘆の時代』と呼ばれる程、錬金術や魔術への風当たりが強い時代であった。
魔術師達を庇護することに意欲的で自らも錬金の法を行ったと伝えられる前法王、フテロリアス十世が597年に逝去すると、代わって法王の座に就いたのはフテロリアス十世の属していた前カスパール派と敵対関係にあるガチシス旧派のルヴィトクス一世であった。
彼は前カスパール派の勢力を弱める為、丁度首都で起こった伝染病をお題目にして、国中に魔術・妖術の類を禁止する法を発布した。
これよりかの悪名高い『魔術師狩り』が始まったのだ。
国中の罪無き魔術師が狩り出され、名ばかりの詮議を済ますと火にくべられた。彼等の財産は担当した教区の教会のものとなったので、坊主達は己の財産を増やさんがため、積極的に異端審問官を派遣した。
後期になると借財に悩む領主達までが自発的に魔術師狩りを行い始める。富める市民達はしばしば異端の神を崇めたとして刑場へと向かわされた。
理由なき大量殺戮は、魔術師や錬金術師達に団結の必要性を学ばせた。こうして650年代には我が国初の同業組合、『薔薇と六芒十字団』が結成され、以後新法王の即位も伴って、魔術師狩りは急速に終息へと向かうことになる。
トリチェリーは暇だった。
監獄の外では雨が降っているのだろう。箒で乱暴に砂を払う時のような、さあさあという音が続いている。意識してみれば、空気自体も何だかじっとりとしているように思える。
こんな夜は、額の刻印がじわじわと痛む。随分前、鉄を鋳型に流し込み研究に必要な焼印を作っている際、誤って己に施してしまったものだった。
9リットル余りの水を腹一杯飲まされるという拷問も、尖った鉄を爪の下にさしいれて爪を剥がされるという拷問も、鋭い針で全身を刺されるという拷問も、彼の身には未だ届いて来なかった。
手始めは尋問のみで、激しい拷問などは処してはならぬという掟があるらしい。結果彼は一昼夜臭い藁の上で寝る程度の責め苦で済んでいたのだ。
もしや連中、『魔術師』である私の仕返しを内心恐れているのか。
(どうでもよい。)
「薬屋の親父だの、肉屋の若造だの、魔術などから遠い者共はとっくに火で炙られたというに、一番秘術と肉薄しておる儂はこうして五体満足で居る。皮肉なものよの」
誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に呟く。そうでもしなければ、神経が参ってしまうような気がしての所作だ。
(……もっとも、参ったところで今と大した違いなどないのだろうがな。)
薬屋の親父も、肉屋の若造も彼の飲み友達だった。故に疑われ、投獄され、死んでいった。
トリチェリーは寂しいのだ。
彼は一所にじっと住まう事ができない。別れが辛くなるので、出来るだけ友人も作らないようにしている。
けれども、それでも出来てしまった友人達は、他のどんな物よりも大切にするべきものだとまた心得ている。
だから余計に辛い。
(嗚呼、今頃アサキは泣いているだろうか。)
不意に妹であり、創造物である少女の姿が瞼の奥を掠め過ぎた。
(儂が掴まったのは自分の所為だと泣いているだろうか。)
そればかりのせいでもないのだがな。きっとあの子には儂の異常は終いまで判らないだろう。
(……人形は老いないからな。)
人間は、老いるものだ。
ならば、老いることが止まってしまったらそれは人間ではないのか?
少し嗤う。
もしここに第三者がいたならば、その人物が先程のヘンルセンの笑みを見ていたならば、眼前の錬金術師のそれとよく似ていたと証言してくれることだろう。
トリチェリーは、白髪ひとつない黒色の髪を持っている。眼鏡の奥、三白眼の上部に位置する小さな瞳は小粒の黒曜石のように理知に溢れた鋭利な光を時折放つ。体も丈夫で人並みの力もある。何の問題もない二十代後半の若者の姿であった。
だが、彼は少なくとも二百をとうに越えている。
老いない体。それが、彼に課せられた試練。
平均寿命の格段に短いこの時代、普通ならばとうに四回は死んでいる年齢だ。万一生き延びていたとしても、立つ事もままならぬ程の老人になっていていい歳である。
なのに老いる事ができない。
これは水を飲まされるよりも、鉄箸を爪の間に入れられるよりも、鋭い針で全身を刺されるよりも非道い拷問ではないか。
父親も母親も妹も従兄弟も叔父も伯母も血縁は皆死んでしまったというのに。
……そう、妻すらも。
親しい者が出来たとしても、あるいは病で、あるいは諍いで、あるいは事故であっという間にその生を終えてしまう。心に残るのは離別の悲しみだけ。
悲しみから己の心を守る為に、自然人と関わるのを避けるようになり、気付くと独りになっていた。ひどく長い時間を独りで生きてきた。
そんな生が、拷問以外の何だ?
孤独な錬金術師は、苦悩に彩られた溜息をひとつ、ついた。
何も考えずに、今日はこのまま眠ってしまおうと思った。
「……明日になれば、拷問台の上だて」
時折、彼は墓守になった夢を見る。神が意図的に穢れた彼の魂を受け付けないのだと錯覚する。
夢の中で人々がばたばたと死んでゆく。自分は一つの石の上に腰を下ろして、死体を次々と墓標の下に放りこむのだ。すると、真っ白だった墓石の上に死人の名前が浮かび上がってくる。
ふと思い立って自分が座っている石を覗き込む。見ては駄目だと自分の中の誰かが叫ぶのだが、覗き込まずにはいられなくなる。
そこには、自分の名前が書いてあった。
ああ、やっと死ねると思う。石を除けて、墓穴の中に飛び込んで。
目が覚める。
目を開けると、きまってああ、また目覚めたのか、と落胆するのだ。
その夜も同じ夢を見た。
見渡す限り墓石が続いている。人がばたばたと死んでゆく。彼等は揃って蝋のように青白い。肌もまた蝋のようにつるつるとして固いのだ。
最後の一人が死んだ。さあ、次は自分の番だ。尻の下の白い墓石を覗き込んで……。
……そこには、何も書かれてはいなかった。石を除けても、穴なんてどこにもない。
そんな。そんな。儂はどうすればいいんだ。
たった一人きりで、一人でこんな寂しい所で。
……兄さん。
暖かい声が背後で鳴った。振り向くと、妹が居た。
アサキ。
兄さん、一緒にいきましょうよ。
妹はぎゅっと儂の手を掴んだ。妹の手を先で引いているのは、見たこともない眼鏡の少年だ。
儂は導かれるままに、墓標の畑を抜けて。
……目を。
目を覚ました。
闇の中で、こちらを見守る二つの瞳。そこにあるはずのない顔、アサキが居た。
「ああ、やっと気付いて下さいましたね!」
「ど、どうしたのだ!?貴様何故こんな所に……」
言いかけて、トリチェリーはアサキの手にしたノコギリを見る。彼女の足下には、数本の切断された鉄格子が転がっていた。
「これ、鉄がまるでプディングみたいに切れるんですよ!」
「そんなもの、一体何処で手に入れたのだ?」
「店主が譲って下さったんです」
何処の店主かについてアサキは明言せず、トリチェリーの足枷をいとも簡単に切り裂いた。途中冷たい刃先が骨ばった足に少し触れたけれども、傷ひとつつかなかった。
まるで鉄のみを切断するよう予め云い含められているようだ。
「……眼鏡の少年か?」
少々憔悴した主人の言葉に、例の如く瞬きを忘れて、彼女は眼をいっぱいに開いた。
「お知り合いですか!」
「いや。夢で見た」
トリチェリーの呆然とした様子に、寝惚けているとでも思ったのか、アサキは口元に微笑を浮かべたが、直ぐに自らの置かれた状況に気付いてそれを打ち消した。
「ぐずぐずしてる暇はありません。逃げましょう」
「儂は……」
「いいから!」
手を引かれて格子を潜る。見ると、看守の死角になった場所の壁に大穴が空いていた。
「これも?」
「ええ!」
彼女が担いだ麻の道具袋の中に、大きな鉄色のツルハシが見て取れた。
「……あ! そうだった!」
突如彼女は道具袋に片手を突っ込んで、ふさふさとした耳あてを一つ取り出した。
「これをはめて下さい、との事です」
「この暑いのにか」
「もう……いいから!」
怪訝そうに眉を顰める主の両耳にアサキはそれを強引に被せた。
その当時「耳あて」などという防寒具が日常的に使われていたのかどうかは疑問だが、真夏だというに耳あてをはめたまま必死で走る二人の影は、やはり端から見れば滑稽以外の何ものでもなかったに違いない。
昨夜降り続いていた雨はもう止んでいた。所々に出来た水溜まりや泥濘を派手に踏みながら、清々しい朝の光の中を走る。
……アサキは考え事をしていた。
あの後、ヘンルセンは戸棚の隅から本を取りだして、何か熱心に読んでいた。かと思いきや、道具と自作の汚い地図をアサキに渡し、ツルハシで壁を崩す場所やら逃走経路やらをつぶさに説明した。
牢獄へ向かい、彼の言う通りに行動した所、道中警備の兵士達には一度も出会わなかった。
(あらかじめ、兵士の配置場所や、城の間取りを知っているとしか思えない……。)
だが、そんな事、一介の雑貨屋が知っているような事だろうか。出入りの商人ならまだしも、彼の店はこの城とは全く無関係のように見えた。
ならば、彼は……何故知っていた?
それに、このツルハシやノコギリ。そして、彼の店におしあいへしあいしていた数多の商品達。ヘンルセンは「遠くの国の物だ」としか言及しなかったが、遠くの国ではこんな便利なものが溢れているのだろうか?
段々と増大していく疑問符の群を抱えながら、門を曲がった瞬間。
何か固いものに勢いよくぶつかった。
頭を抱えながら起きあがると、眼下には突然のタックルに目を回す一人の看守の姿があった。
「あ!」
急いでヘンルセンの描いた下手な地図に目を落とし、路地を一本間違えていた事に気付く。
「貴様!」
我を取り戻した看守がアサキにつっかかる。壁に貼りついてやり過ごしてから逆方向に走り出したが、タイミングの悪い事に、前方からも見回り中であろう兵士がやってくる。
「脱獄だ!」
遠くで叫び声がする。
アサキは咄嗟に目を瞑った。逃げ出してしまいたいと思ったのだ。
目の前の現実から。
獄中にて死んだ罪人を弔う為か。牢獄の裏手には、簡素な教会がある。
空を貫かんばかりに聳え立つ尖塔に腰掛けたまま、彼は待つ。
鐘突き台の鐘は古ぼけていて、緑青なんぞがうっすら浮いてはいたものの、一応機能を果たす事は確認済みだ。
ぱらぱらと塗装の剥がれ落ちる柱に凭れて眼下を見下ろしながら、ヘンルセンはひとりごちた。
「これ以上私が手出しをしなくてよいのなら、干渉判定D級で済むのだが」
それでも自分が見つけられる事に変わりはない。若しや奴等から上手く逃げられたとしても、ここにはもう居られないだろう。
「結構、気に入っていたんだが」
しかしながら、ホワイト=H=トリチェリーに、あの偉大なる先人に会えるという誘惑には勝てなかった。彼の魔法人形を間近で見られただけでも、本来ならば僥倖というものなのだが。そこまでに留めておけられる程、彼の知への好奇心は低くはなかった。
その魔法人形は素晴らしかった。
物質的な作りは未熟かつ稚拙ではあったが、施されていた魔法は言語に絶する。あれほど見事な生命の誘致を、ヘンルセンは初めて見た。
人形は彼程鮮明に泣き、笑い、喜び、破壊……死への恐怖すら端正な顔に浮かべたのだ。
(感情の起伏なぞ、鬱陶しい以上の何物でもないと思っていたのだがな。)
くるくると変わる表情は、実に愛おしいものだった。
(……よりによって人間以外のものにそれを教わるとは……。)
思わず苦笑した。
目下、稀代の錬金術師とその魔法人形の元に、兵士が集まりつつあった。尖塔の下、蔦の這った白の壁を背に、兵士達から創造主を庇うようにしてアサキは立っている。
潮時だな、と、彼は思う。
「結局、干渉判定超A級になってしまったか」
ひとつ首を振ってから、耳あてに手をやり遮音レベルを調整する。
「まあいい、どうせ見付かるなら派手にやってやるさ」
装置をセットして、鐘に直結する金属の棒を、力一杯押しやった。
がらあん。がらあん。がらああん。がらあん。
突然の騒音に、兵士の一人が尖塔へ目を向けた。その眉はきつく歪められている。
群集からざわざわと明らかに戸惑っているらしい声が漏れる。
「何だこれは!」
吐き捨てるように誰かが呟いた。
「誰か止めさせろ!」
懇願に近い叫びも聞こえた。
「や……やめてくれ!」
その場の人間の誰もが、言い様の無い不快感を感じている。
緩慢な調子で打ち鳴らされる鐘の音は、不規則なリズムと文字通り割れ鐘のような音調で人々の耳を劈いた。聴く者の脳味噌を素手で掴み、握り潰すように思考を掻き乱す。
だが、アサキには彼等の異常は理解できない。
魔法人形には脳味噌も臓腑も無いからだ。
がああぁぁん……。
「うぐぅっ」
より強く、より大きく鳴らされた最後のその音に、兵士の五六人程がしゃがみこんだ。
辛うじて立っている者達も揃ってひどく呆けた顔をしている。眼窩に座った瞳は暗い虚ろとなり、目の前の罪人に注意を払おうとすらしない。
「な……」
事態を掴む事が出来ずアサキはやはり唖然とした。傍らのトリチェリーに目を遣ると、彼等程ではないがどこか焦点の定まらぬ顔で空間を凝視している。
「マスター?ちょ、ちょっと、どうし……」
「何をしている!」
厳しい声が頭上から降ってきた。見上げると、鐘突き台の吹き抜けにヘンルセンが立っている。
「え、な、何って……」
「馬鹿者がッ!」
呆れたように肩をそびやかせ、ヘンルセンは木製の奇妙なサンダルを軽く鳴らした。そのまま勢いよく、だだだっと走る。
「あっ、危な……!」
小柄な肢体が宙に浮いた。
しかしそれも一刹那だけの事で、彼の身体はすぐさま消極的な放物線を描き始める。跳び降りたのだ。
地上30メートル程もある尖塔の鐘突き台から。
「わああああっ!」
アサキは一瞬後の惨事を思い浮かべ目を覆った。
だが、落下物が地表に衝突するどおんという音も、肉の四散するびちゃりという音も、いつまで経っても聞こえては来ない。
ただ、ざざざあっと、土砂の巻き上がる音だけがした。
恐る恐る目を開けると、目の前に件の店主が居て、ポカリと頭を殴られた。
「何を遊んでいる。早く逃げぬかと言っておるのだ!」
「あ、あれ? い、いま、飛び降……」
「私の靴にはそういう仕掛けがあるのだ、そんな事どうだっていい!その役立たずを担げ」
アサキがトリチェリーを片腕で担ぎ上げるが早いか、店主は彼女の腕を掴む。
「いいか、離れるなよ」
途端に奇妙な浮遊感が彼女を包んだ。限りなく感触の無い、だが柔らかな布団に全身を包まれた気分だった。
アサキは思わずバランスを崩して倒れ、その体を何かに支えられたことに気付いた。
眼下には地面がある。だが、地面と体表面との間に見えないクッションでも存在しているかのようだ。
(……浮いている。)
「これは……」
寝そべった形のまま附に落ちぬ顔をしていると、掴んだ腕を引き上げられ、アサキは再び不可視のクッションの上に立ちあがる事ができた。
隣を見ると、ヘンルセンが睨んでいる。彼も矢張り……丁度、ヒト一人分程……浮いている。
「貴様は逃げたいのか? それとも、捕まりたいのか?」
「逃げたい、逃げたいです!」
「ならば遊んでいる場合ではなかろうが」
真剣な横顔に、つうと脂汗が伝うのを、アサキは見逃さない。
店主が放棄したにも関わらず、脳髄に響く割れ鐘の音色はなおも続いていた。鐘はひとりでに動き続ける。彼の処した魔法だろうか。
兵士達は揃って泥水のような瞳をしていた。口から泡を吹き、倒れている者も居る。どちらにしても、アサキ達を追ってこれるような状態の者はこの場には居ない。
……では、ヘンルセンは何に脅えている?
「行くぞ!」
サンダルが、カラン、と鳴った。
と、突然、彼女は誰かにすごい力で突き飛ばされた。
……違う。突き飛ばされたのではない。加速の反動だ。
彼女達は今、不可視のクッションに乗ったまま、高速で前方へと移動しているのだ。
景色が尾を引いて流れていく。街を過ぎる。森を抜ける。湖を越える。どうみても、単に真っ直ぐ進んでいるとしか思えないのに、人や建物にぶつかる気配が一向に無いのは、やはり店主の施した魔法の所為なのだろうか。
「くっ、矢張り三人では遅いか……」
ヘンルセンはひとりごちるが、アサキにしてみれば遅いどころではない。移動手段として、徒歩と馬位しか知らぬ者にとっては、前代未聞の超高速である。
「あの、これは、ま、魔法ですか?」
「魔法では無い。先程も言ったろう。これは私の靴に施してある仕掛けだ。ハンジュウリョクフドウソウチ。解らぬだろう」
少し震えた、低い声が返ってくる。無意識のうちに音程を落として、感情を読み取られぬようにしている様だ。
この人は畏れている。アサキは確心する。だが、
(一体何を……?)
追われる心当たりでもあるのだろうか。
そこでふと気付く。
(そういえば……そもそも……この人は?)
脱獄に手を貸してくれるというので従ってきたが、得体の知れない道具は使うわ訳の解らぬ発言はするわで不審な行動だらけのこの人物、心から信じてよいと決まっている訳ではない。
第一、トリチェリーを牢獄から逃がす事が、彼にとって何の得になるというのだろう?
アサキがはじめ彼に縋ったのは、ただ、そこに雑貨屋があると村の人に聞いたからである。まさかここまで脱獄の片棒を担いでくれようとは思いもしなかったし、最初からそれを望んでいた訳でもない。
単に、内緒で脱獄の道具でも売って貰えば良いと思っていたのだ。
そういえば彼女は、名前こそ知っているものの、彼の居た雑貨屋がいつからあったのか、彼が何者でこれから自分達を何処へ連れて行こうとしているのかすら知らぬ。
(ひょっとしたら……)
魔法人形は、ふと、一つの妄想を抱く。
(このヘンルセンとか言う人は、本物の天使様なのでは無いだろうか?)
全てを知り尽くした末でのようなことば。知識。そして、何より先程から目にする奇跡の数々。
神に仕える者の所作ならば、それらは、納得が行く。
(兄さんを冤罪から救う為に、天使様がいらして下さったのでは)
否。それでは、彼が追手を気にしているのは何故だ?正しいものならば、畏れる必要はあるまいに。
第一、よれよれのどてらといい、曇った丸眼鏡といい、ヘンルセンの姿は天使などという崇高なものからは著しくかけ離れている。
(ならば……本物の、悪魔?)
トリチェリーを共に地獄へと連れ帰ろうとしている。故に、追手、天使の降臨を畏れているのだろうか。
どちらも酷く非現実的な妄想だとアサキ自身思う。だが、それがあながち間違って居ない様に思えるほど、現状自体が非現実的に過ぎるのだ。
(信じていいのか、信じてはならないのか……)
判断がつかない。それは、アサキの判断能力を越えた設問なのである。
「ぐっ。あ……儂は、……」
惚けた声がした。背の辺りで、びくりと動く感覚がある。
アサキは急いでトリチェリーを見えないクッションの上に下ろした。
トリチェリーは頭を何度か横に振り、自らの置かれている状況に驚愕し、ヘンルセンの顔をじっと眺めた。
ヘンルセンは冷や汗を増やしながら、進行方向を睨んだままだ。
「大丈夫ですか」
練金術師はうむ、とひとつ肯いてみせる。だがその目はまだ少々胡乱で、現状も把握しきれていない様子である。
「鐘の音を聴いて居るうちに、頭に霞でもかかったような気になって……」
「そういう鳴らしかたをしたからな。耳あてを付けていなければ、まあ半日は人事不省だったろう」
少年が前を向いたまま応える。
続け、共振作用を利用して脳味噌に揺さ振りをかけたのだ、と呟いた。
殆どうわごとのような口振りで、全く説明になっていないとアサキは思ったが、主はその言葉で何かを悟ったようだった。
何だか難しい魔法の話なんだろう。
「成程、其方が店主か」
「如何にも」
「儂は、夢で、其方を見た」
真剣なトリチェリーの言葉を、気のせいだろうとヘンルセンは軽く流した。特に気を害すこともなく、そうかも知れぬ、とトリチェリーも笑った。
「夢の啓示を信じる程宗教家では無いからな。……だがしかし、それにしても」
其方には不可解な点が多すぎる。
アサキが口に出しあぐねていた言葉を、いともあっさりと彼は叩き付けた。さすがマスターは度胸があるなあなどと、彼女は変な所に感心している。
「何故縁も所縁も無い儂を救おうとするのか。第一其方の持ちうる技術、それは若しや万物の根元に通ずる代物では無いのか。其方は世界の真理に辿り着いて居るのか。ならば其方は……」
「縁も所縁もあながち無い訳ではない」
言葉尻を掬われ、当惑と沈黙とが錬金術師の上に訪れる。
「それは……どういう……」
「十五の時貴方の著書を読んだ。感動で身が打ち震えたとも。以来貴方は私の師匠だった」
ヘンルセンはそこで初めて、気拙そうに振り向いた。
「私にとって貴方は偉大なる先達であり、云わば恩人だ」
トリチェリーは変な顔をした。
「儂の著書を?」
「……まあ、単なる貴方の学説の信奉者だと思ってくれれば良い。尤も追われる身にとって順境を無条件に信じ込むことは容易くないだろうがな。ともかくそういう訳だからそこの魔法人形」
唐突に名を呼ばれ、アサキはぐっと詰まる。
「化け物でも見るような目で睨むのは止めてくれ」
指摘されて初めて魔法人形は、自分が猜疑心に塗れた酷く不躾な視線を眼前の店主の背中へ向けていた事に気付く。救済の手を求めたは己だというに、何と不人情な。作られたばかりの人形はその誠実さゆえ、羞恥のあまり頬が紅潮するのを抑えることができなかった。
「すみません……」
「さあ、着いた」
無粋な声と共に透明なクッションが唐突に消え、二人は並んでずざあっと地べたに折り重なった。ヘンルセンはカランと下駄を鳴らし馴れた調子で器用に着地する。
眼前には何時の間にか、一面が緑に覆われた長閑な田園地帯が広がっていた。
なだらかに続く小高い丘の向こうには小規模な町と城壁とが見てとれる。先程までの緊迫した状況が夢ででもあったかのような、牧歌的な光景。
空では小鳥がちいちいと涼やかな鳴き声をあげていた。
アサキはただただ現状に吃驚してきょろきょろと辺りを見回している。
トリチェリーも暫くは不可解そうに周囲を眺め回していたが、ふと気付きヘンルセンに目を向けた。
「……ここは」
老いぬ体を周囲の者に悟られぬ為、トリチェリーは一箇所に定住せぬことを常としている。今彼等が立っているのは多少変ってはいるが、確かに見覚えのある光景。数十年程前に訪れた田舎町であった。
「手を出せ」
ヘンルセンは錬金術師の手首を掴み、引き出してから銅の小さなしるしを握らせた。
花弁の厚い薔薇の後ろに、六芒星の形に重なり合っている十字架が彫られている。かなり精巧な代物であった。
「よいか、この徽章を持ってこの先の鍛冶屋を訪ねろ。そうして入団を希望すればいい」
……狩られぬ為には、組織に属してしまうのが一番良いのだ。
「出来たばかりの未だ力を持たぬ結社だが、そう時の経たぬうちに少なくとも謂れのない魔術師狩りの手くらいは撥ね退けられる権力を得る筈だ」
「ふっ」
冤罪の錬金術師は僅かな嘲笑を口元に浮べる。
「単なる儂の信奉者にしては、未来を見据えた神の如き口を利くのだな。……何処へ行こうと同じだ、儂に安住の地など……」
「アンドレエと云う男が居る。結社の重鎮だ」
ヘンルセンは幾度も背後を振り返りながら、鋭い声でトリチェリーの語尾を遮る。
「不死についての研究も行っている。彼ならば、貴方についても巧く取り計らって呉れるだろう」
「なっ……」
目を丸くした錬金術師をヘンルセンは急き立てるようにした。
「走れ! 時間がない!」
「そんな……なぜ……」
何十年もの間、必死で隠してきた我が呪われた秘跡すら、とっくに承知しているというのか。
(この男はまるで、知識の神だ)
錬金術には神や精霊への交信が欠かせない。そうして、それを正しく行う為には、真贋を見抜くまなざしと慎重な態度が必要であるとされている。
故に錬金術師は容易く神魔を語らぬ。
けれどもその鉄則を揺るがせてしまうほどに、トリチェリーは動揺していた。不老への蟠りを一目で射抜かれたような気分になったのだ。
「マスター」
湧きあがる不信と動揺で固まった彼を救ったのは己の創造物であった。
アサキは砂で汚れた彼の袖を引き、真摯な眼差しで説いた。
「店主さんの言う通りにしましょう。私達に方法は無いのですから」
疑念に凝り固まった先程までの自分を主人の表情に見たのだろう。無垢な魔法人形の瞳に迷いは無かったし、何より、彼女の言う事は正しかった。
叛逆者に選択肢なぞ、そう残っていないのだ。
「よし」
トリチェリーは、確りとヘンルセンの手を握った。
書物で繫がれた師弟の視線が初めて合った。
「世話になった、有難う」
店主は、丸眼鏡の中の瞳を感慨深げに歪めた。子供のように大きな瞳だが、老人のように倦み疲れてもいた。
「貴方に巡り逢えた事は、私の人生で一番の僥倖だ」
ヘンルセンはそう言って軽く礼をした。
さあ、早く。
促されてトリチェリーはアサキの手を取り遥か城壁へ向かう。
身一つであるが、彼等のことはアンドレエが引き受けてくれるだろう。貴重な研究対象を彼がみすみす見逃す訳はない。
臓腑に溜まった緊張の息を、ヘンルセンは大きく吐き出した。
一番懸念していた、奴によってあの二人を殺されるという事態は何とか避けられた。さあ、自分も逃げなければ。
辿って来た道へ振り返った店主は、一刹那が後、色を失うこととなる。
そこには、もう一人のヘンルセンが立っていた。
ニール=ヘンルセンがかつて属していたという、「ヘンルセン商会」について、現存する資料は未だ発見されていない。
唯一、ホワイト・H・トリチェリーの著書の一部に記述が見られるが、かの御大は「酷く遠いところにある」と曖昧に暈した表現を敢えて用いている。
故に、ヘンルセンの持っていたという不可思議な商品の数々から我々は想像を膨らませるしかないのだ。
研究家達の間では、海を隔てた他国にある大企業ではないかとの見方が一般的なようである。
その他には、例えば『薔薇と六芒十字団』のような秘密結社ではないか(この説ならば確かにその存在が秘密とされていることに対しては説明がつくだろう。)、当時隆盛を極めていた法王に対抗する為、国王が内々につくりあげた組織ではないか……等々、諸説紛々あるが、私は敢えてそれらのどれでもない、いささか子供染みた考えをここに掲げよう。
その商会は時間を越えた所にあるのでは、と。
読者諸兄は私があまりにもSFに毒されていると哂うだろうか。けれども、そう考えれば全ての疑問が綺麗に片付くではないか。
ヘンルセンが何故知り得る筈もない領主の居城の間取りを知り得たのか。それに、彼の持っていたとされる鉄だけを斬るノコギリや尖塔から飛び降りて怪我を負う事の無い履物。
居城の間取りなどは、後世の研究家達が記した歴史書を読めば容易に解る。少し位大きな都市の領主ともなれば、自らの城の状況について様々な形で痕跡を残している。兵士長に日誌を書かせている城も多数ある。そういった文献が残されていたならば、兵士の行動などもある程度予測はついたことだろう。
また、前述のトリチェリー法を利用した、切断物を判断できる刃物などは現在百貨店の店先で普通に売られている。反重力を利用して落下時の衝撃を和らげる非常用の救命具も同様である。
通説では隠喩として様々に理屈付けられているそれらが、当時実際にかの店主の掌にあったと私は敢えて言いたいのである。
そう考えれば、幾つもの不整合がたちどころに、一本の大きな脈流へと統合されるのだ。
ニール=ヘンルセンというこの謎の男は、何らかの方法により我々の知らぬ未来より現れた逃亡者である。故にあれ程他人への関与を厭い、事を荒立てるのを嫌ったのではないだろうか。
私が歴史研究家なら、とてもこんな夢のようなことは書けなかったに違いない。
……けれども、幸運なことに私は一介の三文文士で、がゆえに少々の夢想を語っても赦される立場なのだ。
そして、蛇足ついでに述べるとすれば、ここで現れる商会の使者はただの雇人ではなく、ヘンルセンにかなりの影響力と拘束力を持った人物であったのではないか。
ファミリーネームがついている所から、おそらく「ヘンルセン商会」は元々ニール・ヘンルセンの血族が興したものであろう。
ここで、ニール・ヘンルセンは商会からの使者に、商会へ戻るよう強く促されているのだ。一介の雇い人が仮にも一族の末席を汚すニールに口出しを出来ただろうか?……否。
故に、ここに突然現れた謎の商会の使者という男は、ニールの血族、それも商会において相当な権力を持つ兄弟か家族に相違ないと私は考えるのだ。
「美しいな。実に、美しい友情だ」
二人目のヘンルセンはにっこりと優しく微笑んで、青褪めた店主の肩を叩いた。
彼はヘンルセンにそっくりだった。かけている丸眼鏡の形すら良く似ている。店主のものとは違って真新しくあるが、どてらを羽織った姿も同じ。何より顔が瓜二つだ。
唯一相違点をあげるとすれば、後から現れたヘンルセンは、遮光性の高そうな黒のサンバイザーを嵌めていた。
「あまりに美しいので、思わず出て来れなかったよ。君達の友情に水を刺すのは気が引けたが」
店主は咄嗟に丘の方角を見た。
一度は逃げきった筈の錬金術師が、這い蹲っている。横には心細そうな顔つきの魔法人形が主を抱き起こしていた。
気付けば、小鳥は囀るのを止めていた。
「何をする」
蒼白の唇が、わなわなと歪む。対して、二人目の彼は心底愉快そうに笑いながらもう一人の肩へ置いた手に力を入れた。
「私の立場としては、このままホワイト・H・トリチェリーを逃すことはできないんだよ。それはとうに解っているだろう」
店主は明らかな憎悪を顕在した自分自身へと向けた。もう一人は深い深い溜息を押し出して、厳しい面持ちの店主へいかにもな諦めの態度を見せつける。
「相変わらずだな……乱暴はしないよ、ニール。少しは血を分けた実の兄を信頼して欲しいものだ」
「何が兄だ」店主は彼の言葉を吐き棄てる。
「貴様より信頼出来ぬ相手はそう居らぬわ。さっさと失せるがいい!私は商会へは帰らない」
「勘違いをしては困る」
ヘンルセンの兄を名乗る男は、どこか陰鬱な色をその口端に乗せた。
「お前は罪人になったのだぞ。時間を越える者の常として、過去への干渉がB級を超えた時点で罪人とされ、商会の定めた監視人の管理下に入るという法律は知っているだろう。お前にもう決定権は無いのだ」
「ふん、それも貴様の作った法だ」
罪人と呼ばれても、ヘンルセンはあくまで毅然としていた。彼にとってその呼称は不名誉になど値しない。かえって彼の言葉に諾々と従うことの方が、ヘンルセンにとっての不正義であるのだ。
「そもそも干渉レベルの判定とて、貴様のマニュアルに添ったものなのだからな。憎い弟を罠に嵌めて嬉しいか?」
本来は大きな眼が、丸眼鏡の奥で不快そうに絞られる。
「アサキに私の店を薦めたのは、貴様だろう」
「何のことだか」
みせかけの兄はそっぽを向いた。ヘンルセンは構わず続ける。
「こんな偶然が非人為的に訪れる筈はないのだ」
レーヴは弟の言葉など耳に入らぬかのように、掠れたグリーンスリーブスを唇で奏でている。
「私がホワイト・H・トリチェリーに心酔している事を知っていて、この時代に逃げて来ていることを知っていて、主人が魔術師狩りで引張られた事に動揺するいたいけなアサキにそ知らぬ顔で忠告を加えたのだな。私に泣付くようにと。私の店に行けば主人を救う手段を教えて貰えると」
そこで初めて、ニール・ヘンルセンは自嘲的な微笑をその強張った顔に表した。歪んだ微笑は、泣いているのと同義だった。
「私が断れぬ事を見越して」
「何を言っているのか、解らないな全く」
けれど冷酷な兄は弟の指摘を受けてしてやったりとばかり、言葉尻が哄っている。何より確かな肯定の証であった。
「きっとここで私が店へ戻る事を拒否すれば、トリチェリーを牢獄へ戻すと言うのだろう。或は脱獄先で頓死ということにでもするのか?……知識へ仕える者の端くれとして、赦すべきではないだろうな、それは」
店主は言葉を切り、大きくゆっくりと息を吸った。
そして、鉄よりも重く草よりも苦い嘆息を、静かに吐き出したのである。
決断はその一呼吸の間に行われたようだった。
「条件は何だ」
兄よりも僅か低い、ヘンルセンの視線が兄を捉えた。……何もかもを捨て去った、淋しいけれどもそれだけに強靭な意志がそこには籠もっていた。
「ホワイト・H・トリチェリーを見逃す代償は何だ?」
「……お前にとって、然程の苦痛を強いるつもりはない」
順調に進み始めた商談に、内心ホッとしながらも『兄』は言う。
「これまで通り本店へと戻って、商品開発に携わる事だ。但し、逃げ出さぬよう何らかの形で監視はつけさせて貰う」
(……それが何よりの苦痛なのだが。)
幼い頃は、商会の為にものを作る事は誇りだった。形を持たず、それだけでは何の役にも立たない知識を、自らの手と様々な部品達を用いて顕在化させることが楽しくて仕方がなかった。
「お前が戻ると、初代も喜ぶ。爺さんに逢えるのは嬉しいだろう?」
「…………」
ニール=ヘンルセンは、己を膝の上に乗せて微笑む自分と同じ顔の男を追憶する。
「……思い出すなあ。兄弟の中でも、お前は一番のお気に入りだったもんな」
レーヴはまなざしの奥に憎悪を込めて、ヘンルセンに笑いかけた。
他の兄弟には厳しかったらしいが、ニールにとって、初代はひたすら優しい父であり、師でもあった。
ニールは幼い頃から機械いじりが好きだった。水を呑む度浪曲を唸る水呑み鳥や、座ると悲鳴をあげる椅子など、詰らない玩具ばかり作っていた。
だから、玩具の小売業で身を立てた彼と馬が合ったのやも知れぬ。
兄や弟たちが鼻で笑い飛ばしてしまうような他愛無い玩具も、初代に持ってゆくと喜ばれた。
「お前は、本当に面白いものを作る」
そう言って笑う初代の目の端に出来る皺が大好きだった。
時代や場所を点点としながら、巧く痕跡を消したつもりでいた。だが、相手の方が一枚上手であったようだ。こと他人の心を読むことにおいて、兄は自分よりも数段勝っている。
彼はニールがこの時代に必ず訪れる事を見抜いて、罠を張っておいたのだ。
(罠と半ば悟っていながら、自ら飛び込んだ私も私だが……)
「いまさら、断るなどとは言わぬだろうな」
レーヴが懐から何か黒くてらりとした質感のものを取り出し、尋ねる。あれは銃だ。銃口は、彼方のトリチェリーへ向けられている。
「戻るしか……ないだろうな」
とりたてて落胆するでもなく、あっさりとニール=ヘンルセンは首を縦に振る。
けれど、その右拳は悔しさと恐怖のあまり固く握られ、わなわなとうち震えていたのであった。
アサキは呻く主人の頭を膝に乗せ、睨みあう二人のヘンルセンを眺めている。
(……なにがどうなったのだろう?)
情報処理速度に重要性を置いた作りをされていない彼女は、未だ、事態を明確に捉える事ができないでいた。
ヘンルセンに促され、町へ向かってしばらく走る途中、アサキは根っこに足を引っ掛けて転んでしまったのだ。すぐに起き上がって再び走ろうとしたその時にはもう、既に主人は地に伏せて苦しそうな唸り声をあげていた。どうしたのかと問うてみても、消え失せそうに僅かな声でおうと洩らしたきり続く言葉を持たなかった。
きっとこれは、あの店主でない方のヘンルセンが何か魔法をかけたに違いない。
店主は自分とマスターを救おうとしてくれた。だから、悪者である筈がない。
(きっと悪者は、あのもう一人のヘンルセンなんだ!)
自分は争いごとは嫌いだし、女性をモチーフに作られているから、腕っぷしもそう強くない。頭だってそんなによくないんだろう。だけど、自分と大事な人とが何にも努力をしないで人に助けられるがまま生き抜いてゆくというのは、とても申し訳ないことと思えた。だから。
アサキは主人の頭を傍らに置き、そろそろと二人の方へ近付いていった。
その時空遷移装置は、昔の冒険物語に書かれたように、大仰なものではなかった。
平べったい、銀色の板が一枚。その上にレーヴとヘンルセンは乗っていた。銀色の板からは一本のケーブルが延びていて、レーヴのサンバイザーの横脇にある穴に接続されている。
操作盤もボタンもスイッチも不要なのである。
その機械は、人の意志を増幅して時間を越えるのだ。
人の意識を莫大なエネルギーに変換するというのが、時を越えるためにニール・ヘンルセンの生み出した斬新な仕組みであった。
レーヴはケーブルをサンバイザーに繋ぎ、さも愉快そうに笑った。
「これで、お前も年貢の納め時だな」
ニールは無言で兄の顔を睨み返す。その顔の作りは全く同じである筈なのに、不思議とニールの方が何歳も老けて見えた。
「さあ、行くか」
レーヴが機械へ命令を送る為、目を閉じる。その瞬間、ニールの体が翻った。
「!?」
ニールの右手が耳元に当てられるが早いか、レーヴの体が不可視の波に弾き飛ばされた。
「ぐあ!」
耳あてのダイヤルを最大に引き上げたのである。
本来遮音器として使われるべきニールの耳あては、特殊な音波を発し、周囲の音へぶつけて相殺させ音を消す仕組みになっていた。
その遮音レベルが突如最大にまで引き上げられた。
巨大な音は衝撃波となって、油断していたレーヴ目掛けて襲い掛かった。
予想もしなかった手痛い打撃を喰らい、兄の懐から黒の銃がはね跳ぶ。
ニールは咄嗟に下駄で草原を蹴り、銃へ向かい跳躍した。
「……く!」
指先が数センチで黒の塊に触れそうになるが、辛うじて届かずに、銃は足の長い草の間へと吸い込まれていった。
「くそ!」
探そうとしゃがみ込んだ店主の腹に、後ろからぴたりとあたるものがある。
「動くな! 油断の無い奴め」
額から血を流したレーヴが先程失ったのと同じ銃を手にして立っていた。
「腰抜けの平和主義者だと思って油断したが」
銃は二丁あったのだ。
無情な兄はそのまま引鉄を引いた。
ちぢぢぢと弾ける音がして、視界が真っ白に灼かれる。
逃れそうにない倦怠感に頭の天辺から足の先までを支配されて、ニールはその場へと崩れ落ちた。
辛うじて意識だけが残っている。
「手こずらせおって!」
抵抗する術を失った弟の頭を、兄は猶も銃の後ろ側で殴りつける。既に痛みは感じず、ただ殴られた部分が焼けるように熱かった。
「どこまで私に迷惑をかければ気が済むんだ。……まあいい。帰るぞ」
抱えあげられ、再びあの銀色の板の上に乗せられる。
打つ手は尽きた。これから私は四方を塞がれた牢獄のような部屋で、ただひたすら商品達の事を考えながら人生を終えるのだろうか。
……それも仕方がない。何せ、私はそれと解っていて、怖ろしい兵器達を作り続けていたのである。
作らないで済む方法もあったろう。
けれど、ものを作ることは生きてゆくことと同義であったのだ。
新しい素材、新たなる知識を目の前につきつけられれば、私の指先は目まぐるしい勢いで勝手に動き出した。
そしてまた、一度手掛けると、それらは私の大切な創造物となる。偉大なる先人達の、積み重ねられた論理の裡より産声をあげた貴重な子供達を、流通する事でどれ程怖ろしい結果を齎すにすれ、作り途中で投げ出したり壊してしまうことなどできなかったのだ。
一人前の「道具」に育ててやらねば気が済まなかったんだ。
そう。
道具そのものに罪はない。使う人間や作る人間に罪があるのだ。
銀の板が小さな電動機音を立てて、微動を始めた。
製作者のヘンルセンは、それが己の自由の終焉だと感知していた。
機械が動き出す。
いよいよあの部屋へ帰るのだ。
目を閉じて、ニール・ヘンルセンは思う。
最後に一度、あの無垢な魔法人形の笑顔を見たかったと。
レーヴ・ヘンルセンは苛立っていた。
彼は自分より一年あとに作られたこの"弟"が以前から大嫌いだった。
幼い頃は、くだらないおもちゃ作りにかまけているくせに、あの厳しい初代にかわれていることが許せなかった。他の兄弟たちは気が弱く引っ込み思案なニールに同情的だった。それがまた、レーヴの嫌悪を加速させた。
「人に取り入るのが巧い出来損ないめ!」
子供の頃は鈍くさい弟をそう罵った。
そんなときも、ニールは黙ってじっと指先をみつめているだけだった。
長じ、三男がいつしか兄弟のうちでも抜きん出た技術者になっていると理解してから彼は、商会の経営一切から身を引き姿を消した長男の代りに主導権を握り、弟を積極的に商会の商品開発に携らせるようにした。
愚昧な弟は、諾々と命ずるままものづくりに従事した。
会長である自分の意のまま、実直かつ熱心に商品の研究を続けるニールを、権威を恐れ保身に徹底する愚者とレーヴは見て取った。
愉快で仕方がなかった。
……そんな。
(そんな腑抜けに……)
口惜しさにぎりりと奥歯を噛み締める。
(そんな腑抜けに二度も不意を取られたとは!)
許し難い失態だ。
失態の一度目はこの遷移装置が出来た際。二度目は先程音波で吹き飛ばされた時。
隷属的ですらある忠誠を見せていた弟が突然反旗を翻したのは時空遷移装置の完成を報告しに来たその日のことだった。
「……わたしは、もうこんなおそろしいものをつくるのは、いやだ」
ぼそぼそと喋ったことしかない弟がはっきりと言い切ったのを見、レーヴの驚嘆はしばし別の兄弟が身代わりでやってきたかと疑った程であった。弟は続けた。
「この装置で過去に行って、一体何をする気なんだ。ヒトラーに核弾頭でも売りつける心持か」
「なにを馬鹿な」
レーヴは極力友好的な笑顔を浮かべ、弟を遇する。
「時間を越えられることができれば素敵じゃないか。歴史の動く瞬間を肉眼で見られるんだぞ。ただの好奇心さ」
「歴史好きとは初耳だ」
ニールは己の両指から目を擡げた。
「……この間の自動人形、子供の遊び相手と聞かされていたが……プログラムと外装殻を変更されて、軍用の歩兵になったそうだな」
向けられた視線は真剣だった。
「兄さん。もう止めないか、こんなことは」
ニールは溜息をつく。兄と呼ばれて、レーヴは僅かに眉を動かした。
「兵器の製造などにまで手を染めて、商会などという実体を持たぬお化けのようなものをこれ以上大きくしてどうするつもりなのだ?初代が望んでいたヘンルセン商会は、こんな化物ではなかった筈……」
「心得違いをしては困るよ、ニール」
レーヴは微笑んだ。
殆ど笑うことの無い無愛想な兄弟たちの代りに、彼はほころぶ春の蕾のような笑顔を持ち合わせていた。
「私が商会の拡大を願っているわけではないよ……それは、食いっぱぐれては困るから潰れる事こそ願っちゃいないが」
机の引き出しから、年代もののパイプを取り出す。初代から受け継いだ商会の象徴だ。
それをいかにも旨そうに吹かしながら、彼は言った。
「企業とは、自ずから膨らんでゆくものなのさ。……経営者の意志など問題じゃない」
ニールは返す言葉も無く、黙って部屋へと引下った。
そして次の朝、起き抜けのレーヴの元へ、ニールの出奔が告げられたのであった。
兄とささやかな口論をしたその夜、試作機たちの仕舞っておかれる倉庫を訪れたニールは、改良すべき箇所があるから先程納めた機械を借り受けたいと警備の者を説き、首尾よく機械を手に入れて姿を消したのだ。会長の弟という立場と、それまでの従順さが仇を為して、誰も疑いなどしなかったようだ。
部屋からは愛用の工具箱と衣類が数枚消えていた。
幸い、弟の部屋に残されていた荷物の中には、設計図データのログや彼の考案した独一な理論に関するメモなどが大量に残されていた。
商会の優秀な技術者達が頭を並べて不眠不休で解読し、試作機を復元することができたのは彼に遅れること一ヵ月後。
レーヴはすぐにニールの逃亡した前日に戻り、彼を捕捉させようと試みたが、それは叶わなかった。
ニールも馬鹿ではない。追っ手が迫る事を予測して、彼は既に歴史を変えたのだ。
一切の過去から、ニール・ヘンルセンは消えていた。
彼が生きていた痕跡はある。彼が作った商品達も、彼に触れた人達の記憶も残っている。
ただ、ニールその人だけが忽然と消えている。
……捕獲作戦は失敗に終わった。
けれども、そこで諦めてしまうわけにはいかなかった。弟の能力はまだ、商会の発展に欠かせぬものであったのだ。
レーヴは彼の持てる弟に関するデータを総動員して、彼が腰を据えるだろう時代の推定を行った。
決め手となったのは、弟の部屋に残された本だ。
ホワイト=H=トリチェリーの残した「蒸留器からの解放理論」。
おそらく、幾度も頁を繰られたのだろう。読み古されて背表紙はボロボロになっていたし、所々に若い字で熱心な書き込みがされていた。
人工物に魂を誘致し、無生物に生命を与える技術について解説されたその本は、人形作りを齧った者であれば必ず一度は目を通す、聖書ともいえるものだ。
弟の部屋の一面を占める本だなには、その他にもかの先人についての文献がいくらも見受けられ、主の執着の深さを静かに物語っていた。
(……間違いない、あいつはここへ来る!)
レーヴは確信と同時に罠を張った。
商会の工人達の間では神格化されている弟を首尾よく拘束して、尚且つ商会での地位を奪うための策だ。
以前よりは下火になったにせよ、弟を担ぎ出して会長に据えようという反レーヴ派の連中もまだ絶えたわけではない。
その為にまずレーヴは商会の会長として歴史の変革を監視することを提案した。
時代ごとに監視役を置いて、歴史への干渉の度合いを細かい段階に分類し、度を外れた干渉を行おうとする者には処分を与えるよう定めた。
これは、まず弟をただの失踪者から罪人へと貶めるためであった。
次に弟がその時代へ弟が現れた事を確認してから、主人を失い当惑する魔法人形へ流言を信じ込ませた。
「あの店へ行けば、君の主人を救う道具を売って貰えるに違いない」……と。
全ては巧くいった。弟は獄中死する筈の錬金術師を見逃せず、歴史へ多大な干渉を加えた。
あとは、彼を連れ帰り反対派の連中を黙らせるだけだ。
レーヴは装置に命令を送るべく、サンバイザーを被り直して……
……彼女に気付く。
「!?」
銃を撃つ間もなく、伏兵はおどりかかってきた。
(魔法人形だ!)
身をかわそうとしたレーヴだが、判断が足を一瞬鈍らせた。
レーヴとアサキはもみあいになり、銀板の上に倒れる。
「ぐ!」
そう大きいサイズではない転移装置から、はずみでヘンルセンが転げ落ち草叢の中へ倒れた。
か弱い女の力である。容易く振りほどける筈なのに、必死でしがみついているせいか、妙に食下がって離れない。
「く……くそっ」
電動音は次第に消えてゆき、装置が静かに白い光を帯び始める。
「よくも……マスターをっ……!」
店主ともう一人のヘンルセンの確執を知らぬアサキには、詳しい事情は解らない。どうしたらいいのかもはっきりとは解らなかった。
けれど、とりあえず主人を傷つけたこの男の思惑を阻むべきだと思った。
アサキはサンバイザーから装置へ伸びたケーブルに手を伸ばそうとする。
「てえ……いっ」
「畜生、やめろおっ!」
アサキの胸元にあたった衝撃銃の引鉄を、遠慮なくレーヴは引いた。
渾身の力。最大出力だ。
ばづばづばづっ。
電流が迸る。
「ぎゃああああッ!」
悲鳴があがった。
明らかに可視にまで高められた電流が魔法人形の表皮を舐めた。
じゅうじゅうと沸き立つ湯のような音がする。循環液が蒸発しているのだ。
アサキの胸を中心とした表皮が紙のように蕩け、内側の木でできた骨組みが高熱に耐え切れず炎に巻かれる。
普通の人間ならばとうに地に伏せて、苦嘆の嗚咽をあげていることだったろう。
……けれど、レーヴは忘れていた。
アサキは人形である。魂だけで動く事のできるいきものなのだ。
「ひ、ひいいっ」
「……ぉ、……ぉぉぃいいいおおお…」
人工の声帯が壊れ、喉であった部分には黒い穴が開いていた。
そこから洩れる空気が、地獄の底より這い上がる魔物の唸り声のような音を立てる。
「ひ、ひいい!」
紅い焔の舌に焼かれながら猶も掴みかかる、かつて人形であったものに、レーヴは恐怖を覚える。
「う、わあああ!」
燃える人形に組み付かれて、今度は彼が悲鳴をあげる番だった。
アサキの燻った指が意思伝達ケーブルに引っかかった。
ばづん、とそれは根元からもぎ取られる。
途端。
光のようなものが、ケーブルの断面に吸い取られていった。
「……や、め……」
途絶えかけた意識を辛うじて繋ぎとめ、店主が切れ切れに呻く。
焦げたブロンドの髪から、一筋光芒が立ち上るのが見えたのである。
通常、魔法人形の頭部には魂が納められている。
魔法人形の魂とは、”うごきたい”という無機物達の強い意識の塊が顕在化して得られるものだ。
だから魔法人形は人の数倍意志が強く思い込みも強い。一度指向性……命令を与えられると、それがどんな誤ったものであるにせよ完遂せずには居られない性質だ。
そんな代物が人の揺らぎやすい意志すら膨大なエネルギーに変換する装置に近付けば、どんな悲惨な事態が起こるのか。ニールには容易く想像がついた。
人形の頭部からとめどなく湧き出す光は次々と意志伝達ケーブルへ吸い込まれてゆく。
どうにかしてあの健気な人形を救いたい。……そして、呪われた機械の暴走を何としてでも止めなければ。
しかし、制止する術を彼は持ち合わせない。体がいう事を聞かないのだ。
目と鼻の先の事なのに、膝がガクガク笑って立ち上がることさえままならぬ。
「く、そっ…………!」
ありとあらゆる力をその肩に集結させ、彼はめいっぱい腕を伸ばす。
アサキの魂を装置から引き剥がす!
チリチリと毛の焦げる厭な匂いのする、金の髪をやっと掴んだ。
早くしなければ。エネルギーの過充填でオーバーフローを起す前に。
体重を込めて、その首を下方へ引き剥がす。
そのとき。
足元から、閃光が迸った。
轟音は、数秒ほど後だった。
「……どうだ、終わったか。日記の清書は」
聞き馴れた無粋な声に、私は万年筆を置いた。
ノックもせずに入って来たのは、友人の墓守だった。
「何度言えば解るんだ、おれが書いてるのは、中世最大の謎、ニール=ヘンルセンについてこれまで語られた史実とは全く別の視点から捉えた歴史小説なんだと」
「でも、やってる事ァ、曾祖父さんの日記の清書だろ?」
実もフタもない友人の言葉に、私は手元のオレンジを投げつけた。
文筆業の私とは比べ物にならない鍛えられた体を持つ友人は、それを軽く受け取って投げ戻す代りに言葉を放つ。
「そんな珍文漢文なモンより、艶笑小説でも書いた方が余程銭になるだァろう」
「ふん、そんな下等な考え方だから、墓守なんて暇な仕事しかできないんだ」
友人は私の憎まれ口にも一向動じず、片手で器用にオレンジの皮を剥きながら、私の背中越しに原稿用紙を覗き込んだ。
「文句言うなら読むなよ」
「いやいや、お前の書く高尚な歴史小説とやらは、どっこいなかなか、子供向け冒険小説みたいで面白いんだ」
学の無い友人は、どもりながらも最後の一ページを読み始める。
口こそ悪いものの、この友人はいつも愛すべき私の読者の一人であってくれるのだ。
私も筆を置くついでにと椅子に背を凭れ、しばしの休息を堪能する。
……やがて、友人は原稿用紙を私に返し、ただでさえ温和とはいえぬ目を更に鋭くしてこちらを見た。
「で。どうなったんだ?続きは?」
「……どうもしないよ。曾爺さんが起き上がってあたりを見回す頃には、魔法人形も二人のヘンルセンも何もかも忽然と消えていたんだ。手の中に徽章だけが残ってたと書いてある」
私は机の上に置いた古ぼけた日記を指差す。
「それから曾祖父はヘンルセンに薦められた通り、薔薇と六芒十字団に入社して、自分の体を不死でなくする方法を見つけたんだよな。同僚のアンドレエは爺さんを普通の体に戻すのを随分惜しんだようだったが。そいで当時一番弟子だった祖父を養子にして、魔法人形に関する理論を」
「お前の曾祖父さんはどうでもいいんだよ」
友人は失礼な一言で私のことばを遮る。気の知れた友達だからよいものを、親しからざる仲なら引っ叩いてやるところだ。
「その、ヘンルセン兄弟と魔法人形は」
「さあね」
私は口笛を吹く。
「さあねって事ァない。ここで終りじゃあんまり尻切れ蜻蛉に過ぎるだろ。無責任だぞ」
「無責任でも何でも、日記に書かれてるのはこれまでだ。透けるような金髪の魔法人形とどてらを着込んだ科学の寵児はこれを最後に歴史の表舞台から綺麗サッパリ姿を消してしまったという訳さ。彼の兄ともどもね」
友人はとりわけ奇妙な顔をした。
私は続ける。
「ちなみにおれが調べてみたところ、この際の爆発音は周囲10マイルに点在している村々で観測されている。殆どの人は季節外れの雷と思ったようだが。これがなければ、この一連の物語はうちの曾祖父が見た夢として片付けられていただろうね」
「夢で片付けるにしても、少々奇妙すぎる夢だがな」
現に今でも家族や親類はかの偉大な錬金術師を法螺吹きと呼ぶ。
唯一彼に直接師事した祖父だけは例外で、師父やヘンルセン、魔法人形の逸話を嬉しそうに幼い私へと語り継いでくれた。
今は亡き祖父の髭面を思い出して微笑んだ。
彼が居なければ私はきっとこんな文章を書こうなどと思わなかっただろう。
「これは、おれの推測なんだが……いささか、個人的な所感が入ってるのは許してくれよ。」
「今さら何を言うか。その原稿用紙全部が既にお前の妄想で溢れてるんだろうに。」
友はあくまでセンチメンタルな私を茶化す態度を改めようとはしない。
私は諦めて妄想家に徹することにした。
「確かにそうだな。ではおれの妄想的観点から言わせていただくと、……曾祖父は激痛の中、ニール=ヘンルセンが人形の髪を掴んでいるのを見たと書き残しているんだ。ならば、おそらくニールはアサキと共に別の時間域に放り出されたのではないか」
彼の兄も一緒であったかは解らないが、流れ着いた先がもしヘンルセン商会の存在する時代でなければ、それは彼にとって問題ではない。
ニール=ヘンルセンは自らの手で時空遷移装置をつくりあげる天才的な才覚があったのだ。
余程原始の時代へ流されていない限り、多少の時間をかけても彼はその機械を復元することができただろう。
そうして壊れた魔法人形と共に、今度こそ商会や兄の手を離れ、膨大な時間流の間隙へと身を隠すことに成功したはずだ。
「実際には、巨大なエネルギーに呑まれて三人とも蒸発してしまったのかも知れないし、とんでもない氷河期みたいな時代に飛ばされておっ死んだのかもな。だけど、おれの小説では、そう終わらせたいと思う……お前はどう思う? 少々、ご都合主義に過ぎるか?」
友人の意見を求めて振り返ってみると、友人は顔と右手をオレンジ色の汁で染めていた。机の上には剥けたオレンジの皮が適当に転がっている。
「おい。手拭いを呉れよ」
「なんだい、話し甲斐のないヤツめ!なんでもがぶがぶ喰うからそうなるんだ!」
私は仕方なしに隣室からタオルを持って投げてやる。友人はオウ!とタオルで顔を拭いながらこれまた珍妙な声をあげた。
「思い出した、チョッキだチョッキ!」
「?」
「チョッキじゃないか、ええと、そのニールなんたらが着てた異国風の上着だよ」
益々訳が解らない。友人はひとしきりオレンジの汁を拭い取ると、これまた乱暴にタオルをベッドの上へ投げた。
「ひょっとして、どてらの事か?」
「おうおう。それって、今流行ってんのかな」
今度は私が頓狂な顔をする番だった。
「流行って……るのか?」
少なくとも、私は私の人生において、そんな珍奇な格好をした人間をこの町で一度も見た事が無い。
そう言い返すと、友人は得意そうに胸を張った。
「俺、昨日見たぜ」
なおも名残惜しそうに、指先についた汁を吸う。
「お前ん家の墓の前でよ、丁度そんなだぼっとしたチョッキを着た子供が手ェ合わせてやがった」
「な、なにイッ!?」
駆け寄って友の胸元を絞りあげる。友人は私に詰め寄られ目を白黒しながらゲップを洩らした。
「げぷ。お、な。なんだ」
「その子供、丸眼鏡かけてやしなかったか!?」
うーんと頭を抱えてから、彼は首を振る。
「覚えてねえなあ。傘さしてたから顔まで見なかったし。……綺麗な姉ちゃんが一緒だったのは確かだ。ありゃいい女だった」
「そ……!」
その娘はもしや、と叫びかけて、私は思い留まった。
大雑把極まりない眼前の友人に、記憶力を求めたとてどだい無理なんだ。
真実なんてどうでもいいじゃないか。
少なくとも私のうちでは、祖父が語った口振りそのままの姿で、二人は未だ生きているのだ。
友人の首を締め上げるその手を離して、私は窓の外へと眼を向ける。
時間を漂うその合間に、かつての友の墓へ花を手向けにやって来たか。
昼頃まで降っていた雨はスッカリあがり、未だ雲の残る空からは春の陽光が心地良く漏れている。
「その子供は、幸福そうだったかい?」
返答を期待せず、木の葉のひっついた窓硝子から外を見詰めながら、私は尋ねた。
「墓場で幸せそうな顔してる奴ア保険金がっぷり稼いだ後家さん位ェだろうよ。……まあ、不幸そうにゃ見えなかったね」
(時の木枠から外れてしまった男が、やっと安寧を取り戻したのか。)
そうすると、私の夢想的な推測も的を外れていないということだろうか。
「いつか、逢えるかなァ」
「おう。あの美人とは是非またお会いしたいねェ……」
的外れな相槌を打つ友人。
私は呆れて笑い、書物机へと戻った。
どこかの時代で、私の本を彼が読んでくれることを願いながら。
「終」