Phase.1 冴えない昼下がりの貸切
水曜の昼下がり、決まって同じタイミングで僕はあくびを噛み殺す。
きっかり午前十一時、この店の目の前をびっくりするほど黄色いフェラーリが横切るのだ。見たくもないのに僕はいつもそれを目撃している。と、あくびが必ず出る。
真夏のような台風が行って、横浜もやっと涼しい秋がやってきた。だと言うのに、この店は相変わらずの、閑古鳥だ。
昨夜も雨が、かなりいいタイミングで降ったのにみんな、みなとみらい元町駅へ一目散に駆けて行った。この店は見事に素通りだ。雨宿りの場所としてすら、認識されてない喫茶店っていったい。一ノ谷平太、十八歳。若い身空で僕の生活は、すでに隠居である。
開店一時間。ローストマシンの焙煎作業も終わり、今はブログの更新やメールの処理などの事務作業をこなすのが日課だ。
最近調子の悪いモバイルを、僕は起ち上げた。今、どうにかこれを買い替えたい。起ち上げが遅いうえ、変な音がするようになったのだ。でも店のだし、僕が、自腹を切ると言うのもどうかと思う。
まあ、いいか。僕は、毎度おなじみの暗澹たる気分を押し殺してコーヒーを飲むことにした。この時間だけは、これからも大事にしていきたい。僕だけに許された至高の時間だ。
店のストックから昨日焼いたばかりの豆を僕は取り出した。
そのとき思わず笑顔になってしまう。このキリマンジェロに限らず、ベストコンディションの豆は、日干し煉瓦のようにからからで、羽根みたいに手触りが軽い。銘柄にもよるがコーヒー豆は、時間とともに豆から油脂が沁み出し、じっとり重くなる。すると香りも手触りももっさりとしてくるが、そうなってしまうと当然、風味も劣化していく。
便利な機械挽きが主流になると忘れがちだが、ハンドル式の手挽きのミルの中で挽いてみると、その違いは明らかだ。粉々に挽いても明るく赤みがかった、香ばしいコーヒー豆に、お湯を注いだときの感動だけは、誰にも邪魔されたくない。
大事にお湯が落ちる時間を待ちながら、メールをチェックする。僕が大学に行くようになって親父も大分日々の営業のことを考えてくれるようになったが、気分しだいの海外出張だけは止めようがない。
(講義のない火曜日だけだって、言ったのにな…)
夏休み、地元が近い友達を時給九百円のバイトに駆り出した僕のあだ名はすでに、『店長』である。
仕事を片付けたら、今日だけは、予定を確認する。いつもは確認するまでもないが、今日は特別な日だ。昼一時から二時間、店を貸しきってくれと言われたのだ。依頼があったのは、去年の秋から常連さんになってくれた九王沢さんと言う女の人だ。
はるかイギリスから近代日本文化の研究のため来日した才女中の才女。なのだが、これが見たら呼吸が止まりそうになるほど綺麗な人だ。下の名前は慧里亜さん。なんと明治時代にイギリスに来た日本の財閥の末裔だそうな。いわゆるクォーターと言うやつだ。
僕とも年齢はそれほど違わないのだが、向こうで博士号をいくつも取り、すでに研究の世界でも頭角を表わしているのだそうで、ぼんくら大学生の僕は、ぐうの音も出ない。
輝くばかりの学歴と美貌(それに、Hカップの巨乳…なのだ。ここだけの話)の押し出しはとても強いが、本人はとてもおっとりしていて、奥ゆかしい人だ。そして大きな声では言えないが、少し残念な人でもある。絶滅危惧種級のお嬢さまと言う特異な境遇が、彼女をちょっと浮世離れした人にしているに違いない。
僕が今、付き合っている(?)はずの漫画家の園城みくるさんの縁で知り合ったのだが、それからも必ず週に一回くらいのペースで、顔を出してくれる。この前は那智さんと言う恋人さんも一緒に来た。恋人がいるのも衝撃だが、なんと初デートが、この横浜なんだそうな。
「今日は、少し特別なお客さんを連れて行きたいんです。…非常に申し訳ないのですが、二時間だけ貸し切りをお願いします」
貸し切りOKだと言うと電話が掛かってきて直接、念を押された。ここでコーヒーを飲みに来ると言う限りは誰が来ても驚かないが、誰が来るんだろう。
ビールを頼まれてないから、那智さんじゃない、とは思ったが。