前編
春に交際が始まった二人の夏の恋。
さあ、どうなることでしょうか?
今日は土曜日だけど、彼は仕事のために出勤をしています。でも、もうすぐ終わりそうだと、さっきメールが来たの。
私の名前は上条聖子といいます。社会人3年目の24才です。私の彼は菱沼忠隆さんといいます。私より10歳年上で、私の課の主任をなさっています。
私は今、思い出の公園に来ています。ここは会社からもほど近く、待ち合わせをするのにちょうど良いです。程よい木陰のベンチに座って、私はこの後のことを思い、ウキウキと待っていました。
この公園が思い出の場所というのは、彼と出会った場所だからです。
◇
彼との出会いは私の大学の卒業式の日でした。式が終わり大学に近い公園に場所を移して、友人達と夕方に集まる話をしていました。
ふと、桜の木が目に入り私は友人達から少し離れ、桜の木を見上げていました。その時強い視線を感じてそちらを見ましたら、少し離れたベンチに缶を片手に持ちこちらを見ているスーツ姿の男性が目に入りました。
この時、視線が合い時間が止まった気がしました。
ですがすぐに彼は、後輩の方でしょうか。男の方に声を掛けられてそちらのほうを向いてしまいました。私はこの時、視線が外れたことを残念に思いました。
その後、彼は私達の方に歩いてきて、すれ違う時にもう一度視線が合いました。
それが忘れられなくて、どこかでもう一度会いたいと思っていたのです。
その願いが適ったのか、会社の入社式の日に再会できたのでした。
◇
ここまで思い出した時に携帯が鳴りました。見ると彼からです。私は急いで携帯に出ました。
「はい、聖子です」
『菱沼です。お待たせしてしまい申し訳ありません』
「いえ、お仕事ですもの。それにそんなに待っていませんわ」
そう答えたら、彼からすぐに言葉が返ってきません。どうしたのだろうと思いながら、声をかけようとしたら、彼の声が済まなそうな響きで聞こえてきました。
『上条さん、その・・・お待たせしておいてなんなのですが、もう1時間お待ちいただいてもいいですか?』
何か急な仕事でも入ったのでしょうか? それともトラブルが起こったとか? それなら事務の私にも手伝えることがあるかもしれません。
「あの、仕事のことでしたら、私にも何かお手伝いできることはありませんか?」
『いえ、仕事ではなくて・・・『菱沼君。急でね』・・・(ああっ、今行くから)・・・えーとですね、・・・そう言えば上条さんはどちらにいらっしゃますか』
彼の電話から聞こえたのは、経理課の女性の声です。菱沼主任と同期で、前に菱沼主任と付き合っていたと噂があった人です。彼女は他の人と結婚をしたと聞きました。ですが、この春に離婚をなさったとも聞いています。何故、その方と一緒にいるのでしょうか。
『上条さん、聞こえてますか?』
一瞬ボーッとしたみたいです。
「あっ、はい。聞こえています」
『そうですか。それで上条さんは今「あの、菱沼主任は会社なんですよね」
ホッとしたように言葉を続ける主任に、何となく苛立って少しきつめの口調で問い質すように訊いてしまいました。
『会社にいますけど・・・上条さんは今どこにいますか?『ちょっと、ま~だ?』・・・(だから、少し待てよ)』
また聞こえてきた声に、彼が親しく返すのを聞いて、なんとも言えない気分になってきました。それに私と会う前の1時間をその女性に使うのかと思うと、悲しくもなってきました。
「わかりました、菱沼主任。それでは、私は先に行っています。会場についたら連絡ください」
『えっ? 上条』
私は携帯を切るついでに電源も落とすと、ベンチから立ち上がりスタスタと駅に向かって歩き出しました。
◇
電車に乗り涼しさにホッとして・・・後悔が頭をもたげてきました。そっと携帯の電源を入れると、10回も彼からの着信が入っていました。それを見ながら、電車の中なのを思い出し、マナーモードにしておきます。
お祭りの会場近くの駅で、同じようにお祭りに向かう人混みに押されるように改札を抜けて、しばらく駅前で佇んでいました。
◇
菱沼主任は最初、私の事を見てくれませんでした。新入社員の研修の時に1日講師役で主任がきたときに、私は積極的に話しかけました。ですが主任は他の新入社員と同じように、私の事を扱いました。
研修後主任の下に配属されるようにおじ様が手を回してくれました。私は主任にいい所を見せたくて仕事を頑張りました。褒めてはもらえたけど、ご褒美に二人でお食事なんてことはなくて、班もしくは課での食事会しか、一緒することが出来なかったです。それどころか他の独身社員との中を取り持つそぶりまで見せられて、脈がないのかと落胆しました。
そのうちに私が「いいところのお嬢さん」で「婚約者」もいるらしいと噂が流れました。私はこれを聞いた主任の反応が見たくて放置していました。もちろんこの噂は主任のところにも届きました。主任の反応は変わりませんでした。それどころか、仕事以外では接触を持たないようにしているように見えました。
理由がわからずにいた私は、偶然主任が他の方と話しているのを聞いてしまいました。主任は『婚約者がいる「いいとこのお嬢さん」と、親しくなるわけにはいかない』と、言っていたのでした。
この後、私はしばらく落ち込みました。そうです。主任の性格を考えていなかったのです。真面目な主任のことですもの、他の男の影がある(噂でも)女と恋愛をしようだなんて考えるわけないですよね。
そうして悶々とした日々を過ごしていきました。結局主任は、私の事を部下としか見てくれなかったのですから。
そうしたら、おじ様から衝撃の言葉を聞かされました。菱沼主任に取引先からお見合いの申し込みが来たというのです。
菱沼主任は営業課の中ではトップの成績というわけではありませんが、人柄からか取引先にとても信用されています。視野も広く、課の皆のサポートをそれとなくしています。皆もそれが分かっているから、主任の助言をありがたく聞いています。そんな主任だから、お見合いの話がきたのでしょう。お見合いが上手くいってしまったら、主任はそちらの会社に移ってしまう可能性があるとも聞かされました。
それを聞いた私は焦りました。主任と一緒に仕事が出来なくなるのは嫌です。主任にはうちの会社で、私と一緒に仕事をしていて欲しいのです。
いいえ。それは違いますね。本音は、私以外の方と一緒にいる所は見たくありません。です。
だから・・・他の女に取られるかもしれないとなって、私の闘志に火が点きました。振り向いてくれないのなら振り向かせるまで。外堀を埋めまくって、逃がさないようにします!
まずは、同期入社した女の子達と営業事務の先輩女性社員の方々を味方につけました。皆には私の気持ちはバレバレだったようです。皆さんは積極的に力を貸してくれるとおっしゃってくださいました。特に先輩方は主任がお見合いで引き抜かれるかもしれないという話に、凄く危機感を募らせていました。主任の優秀さを先輩方はわかっておられたのです。
そこから、営業課全体に話が伝わりました。営業課の社員は勿論主任が引き抜かれるなんて嫌ですから、一も二もなく協力を申し出てくださいました。そうしたら、話を聞きつけた課長にも、ご協力いただけることになりました。
協力者は営業課だけには留まりませんでした。これまで味方になってくれた社員の方の、他の課にいる恋人や友人達。そこからその上司方にまで話は広まり、気がついたら我が社を上げての一大プロジェクトに発展していました。
そして決戦はあのお花見の日に定めました。
余談ですが、この間に何人かの方に私は告白をされました。それも、皆さん一様に「好きでした」という、過去形の言い方でした。なんでも、私が一途に主任のことを思っているのを見て敵わないと思ったそうです。告白の後に「全力でサポートするから、当たってこい!」とも、言ってくださいました。
お花見当日。うちの課だけでなく他の課にも通達済みで、公園の周りは封鎖状態になっていました。怪しまれないように、家族連れや通行人などもいましたが、我が社の社員やその家族でした。
そんな中、打ち合わせ通りに課長から追加の買い出しに、主任と私が指名されました。買い物を済ませて公園に戻り、ある場所で私は立ち止まりました。願いを込めて立ち止まったのは、初めて主任と会った場所でした。
そこからは・・・実はあまりよく覚えていません。あまりに緊張し過ぎて、自分が何を言ったのか、どんな行動をしたのか覚えていないのです。
憶えているのは
「菱沼主任のことが好きです。あの日あなたに一目惚れしました。どうか私とつき合ってください」
そう言って主任に右手を差し出した事だけ。
だから・・・主任が
「上条聖子さん、俺も2年前にこの公園で君を見つけました。そして、一目惚れしました。よければ一生共にいることを視野に入れてお付き合いください」
と、言ってくれた時には嬉しくて・・・ただ嬉しくて、泣きださないようにするのが精一杯でした。
「はい。一生ついていきます」
と返事をしましたら、主任はそっと優しく抱きしめてくれました。
◇
私は駅前を離れて雑踏の中に足を踏み入れました。あのまま、あそこにいたら幸せな時を思い出して泣いてしまったかもしれません。
歩きながらも、嫌な考えがまた頭をもたげてきます。
もしかしたら、菱沼主任は私に合わせてくれただけなのかもしれない。私が社長の親族だから、出世狙いで交際を申し込んだのかもしれない。
そんなことはないとわかっているけど、気持ちがグチャグチャで泣きそうな気持ちのままあてどもなく、歩き続けていました。
◇
あのあと・・・無事に主任にプロポーズ? までしていただき、抱きしめられて天にも昇る気持ちだった私は
パ~ン
パン パン
というクラッカー音で我に返りました。そうです。ここには協力していただいたほぼ全社員がいたのです。だからまずはお礼を言って、それから移動をしなくてはなりません。社長だけでなくうちの両親も待っていることでしょう。
「皆様、ご協力ありがとうございました。皆様のおかげで無事プロポーズしていただけました」
そう言って私が頭を下げたら、菱沼主任まで一緒に頭を下げてくださいました。
それから、皆で近くのホテルに移動しました。そこで前年度の優秀社員の表彰式(もちろん主任も表彰されました)から親睦会へと変わり、私達のところにお酒を注ぎに来る人が一杯いて、律儀な主任はお酒を注がれると一口は口にし、お開きになる頃にはフラフラの酩酊状態でした。社長が取っていてくれた部屋に主任と共に泊まりましたが、もちろん何もありませんでした。
それでも、私は幸せでした。ずっと思っていた人と一緒にいられるということが嬉しかったのです。
目を覚ました主任は、二日酔いのために頭がズキズキと痛そうでした。ルームサービスでコーヒーを届けてもらい、それを飲む頃には少し良くなってきた主任に、今回のお花見告白大会のことを説明し、ついでに社長の親族であると告白したら、「うっ」と呻いてしばらく動きを止めていました。そのあと、「本当に社長と親戚なの?」と確認してきたの。私は「はい」と答えたら、しばらく私の顔を見たあと「まあ、惚れた弱みか」とか、言っていました。
その後の主任とのお付き合いは、一緒に食事に行ったり、映画を見たり、美術展に行ったりと、普通のお付き合いをしていました。
少し不満があるとすれば、私の事を「上条さん」と呼ぶことでしょうか。私も照れくさくて「菱沼主任」としか呼べていないから、お互い様ですけどね。
あともう一つ。主任は私に触れようとしないことも、不満です。キスだって、6月の主任の誕生日に私からした1度だけ。その時は私が唇を離したら、抱きしめてくれて「ありがとう」と言ってくれました。