夏の初め
まだ夏の初めだというのに、雲ひとつない空からは暑いような日射しが照りつけてくる。
ふうとひとつため息をついて、えんはやじうまたちの後ろから裸馬を見上げる。後ろ手にくくられて馬の背に乗せられているのは、引き回しの罪人だった。間もなく男の命は刑場に散ることになるだろう───
罪人の顔を見ておいて、えんはやじうまの群れから離れた。
───どうせ今夜、閻魔堂で顔を合わせることになる。
そう呟いて、えんは罪人が通り過ぎた後の高札場に立てられた、捨て札に目をやる。誰に教わったとは云わぬが、えんはさっと目を通すだけでこれぐらいの文字なら読みこなすことができた。
捨て札によれば、男は掏摸であるらしい。掏摸は三度捕まればお仕置きになり、三十は越せぬと云われる。さっき引かれて行ったのも、まだ若い男であった。
男に妻子があることを、えんは具生神から聞かされていた。
まだ日暮れ前だというのに、裏長屋のさらに奥まったその一間は、暗く閉ざされている。その暗く淀んだ薄闇の中に、親子は居た。
母子は憔悴しきっており、まだ五つにもなっていないだろうその子どもは、泣き寝入りしてしまったらしい。寝ていながらも時折りうなされ、泣き声を上げている。母もまた、茫然自失の呈で子どもを抱えたまま、うつろな目から涙を溢れさせている。しばらくの間、母子はそのまま時が止まったかのように動かなかった。
やがて、母親が突然なにか思い出したようにたたきに降り、小さな流し場の隅から包丁を取上げた。
母親の目が畳に下ろした我が子を、じっと見つめる。そして、その手が、包丁を振り上げた――。
「やめておきなよ。」
突然後ろから声を掛けられて、母親は振り上げた手を下ろす。戸口を振り返ると、えんが険しい顔をして立っていた。
「やめておきな、その子を殺して死ぬつもりだろうけど、そんなことしたってろくなことはない――それでもどうしても死にたけりゃ、あんたひとりで死んだらいいだろう。」
ぽろりと包丁を足元に転がして、母である女は泣き崩れた。えんはその背中を抱いてやる。
間に合って良かった───と、そう思った。
「あんたの亭主、この子の父親だろう、今朝方お仕置きになったのは───」
女の目が力なくえんを見る。
「後を追うつもりか知らないが───そんなことしたってろくなことにはならないよ。」
女の顔に、捨て鉢な笑いが浮かんだ。
「───どうなるって云うのさ。」
女の笑いに顔を顰め、えんは云う。
「只でさえあんたの亭主は、罪を犯してお仕置きになったんだろう? ここであんたがこんなことをしたら、亭主の罪もずんと重くなるだろうよ。」
えんの言葉に、女は声を上げて嗤った。
「もう、お仕置きになっているものを、これ以上どうするって云うのさ───。」
笑い声を上げる女の頬を、涙が濡らしている。
「この世じゃもう、どうしようもないだろうさ。けど今夜、あんたの亭主は閻魔の裁きを受ける───」
えんがそう云うと、女は笑うのを止めた。
「亭主がお仕置きになったせいで、あんたと子どもがのどを突いたら───閻魔はどんな裁きを下すと思う?」
びくり、と女が顔を上げる。
「掏摸は、地獄へ堕ちる罪だよ。」
そう云うと、女はえんを睨み付けた。
「───どうしろって云うのさ。」
女がどんと板間にこぶしを打ち付ける。
泣き寝入りしていた子どもがびくりと目を開け、悪い夢の続きを見たような顔をしてまた泣き出した。
「ほら、坊を泣かすんじゃないよ。」
えんは女の肩に手をかけて、囁く。
「───今夜、刑場の前の閻魔堂においで。」
「刑場に───?」
女が青ざめた顔で身を震わせる。
「そうさ。」
えんは肯いて立ち上がる。
───ほんとは、いけないんだけどね。
そうつぶやいて、えんは表の戸を開けた。外は、初夏の空が爽やかに晴れ渡っている。
「待ってるよ。」
二人にそういい残して、えんは長屋を後にした。
寂しい道だった。
橋の向こう側では、それでも、幾人かの酔客が笑いあいながら通り過ぎてゆく。
しかし、橋を渡ったとたん、そこには生きる人間の住む世界ではないような、もの悲しい寂しさが闇の中に渦巻いていた。
女は子どもを抱えるようにして、人目を忍ぶかのようにそっと橋を渡る。藪の中を続く道を辿れば、つい今朝方、夫が命を散らした仕置き場がある。息を詰めるように、女は闇の奥へと歩いていった。
暗闇の奥に、竹矢来に囲まれた仕置き場が見える。女の足がすくんだように止まった。
仕置き場はすでにきれいに片付けられて、正面に立てられた捨て札と、捨て札の横に立て並べられた禍々しい捕物道具だけが仕置きのあった事を伝えている。首を晒すほどの極悪人ではなかったおとこの首は、切り離された胴と一緒に片付けられてしまってここには何も残っていない。それが、かえって淋しかった。
子どもの手を離し、女は竹矢来に取り付いて奥の闇の中に、まだ夫の影が残ってはいないかと、じっと目を凝らす。子どもが、怯えたように女の手にすがった。女が子どもに目をやり、しっかりと手を握ってやると、子どもは安心したのか女とともに竹矢来にしがみつくようにして、刑場の奥をのぞきだした。
どれほどそうしていたのか。母子は黙ったまま、じっと闇の中に夫を、父を、探していた。
「来たね。」
後ろから声を掛けられて、夢から覚めたように母子が振り向く。
えんが、立っていた。
「坊、おとうは見えたかい?」
えんがたずねると、子どもは首を横に振った。
「そうか。それじゃ、こっちへおいで───もう、始まるだろう。」
えんは子どもの手を引き、女にそう云って、閻魔堂に向かった。
閻魔堂は、闇の中にほんのりとしたあかりを灯していた。母子はえんに促され、明かりの漏れる扉の隙間から、そっと中をのぞく。
正面の高い壇の上には鮮やかな色に塗られた閻魔王。
黒々とした鉄札を手にした倶生神。
左右に赤と青の獄卒鬼達。
壇荼幢、業の秤、浄玻璃鏡――。
浄玻璃の鏡がきらりと光った気がして、女がそちらへ目をやる。とたんに閻魔堂の中は生彩を帯びた。
正面の閻魔王がぎろりと目をむく。倶生神は手にした鉄札をあらため、業の秤がゆらゆらと揺れ出す。そして、赤と青の獄卒鬼達に閻魔王の前に引きすえられているのは、お仕置きになったはずの夫だった───
女が息を呑む。
「おとうだ。」
子どもがおとこを指差して、云った。
「静かにして、見ておいで。あとで、おとうに会わせてやるから。」
えんは子どもにそう囁いて、女に肯いてみせた。母子は安心したように再び閻魔堂の中に目を戻し、くいいるように見つめている。
正面に、閻魔王が座っている。
その前に引き据えられているのは、今朝方引き回されていったおとこである。おとこは青ざめた顔で、それでも自分を引き据える赤鬼青鬼を、時折り睨みつけている。
「さて、倶生神。」
閻魔王が、おとこをぐっと睨みつけたまま、命じる。
「このおとこの悪行を残らず読みあげよ。」
はい、心得ました───と、倶生神が首肯く。
「この者は偸盗の罪を犯した罪人に御座います。それも貧の盗みの出来心などというものではなく、幼き頃より盗人に弟子入りし、他人のふところを狙う術を身につけ、他人の財布をよすがに身過ぎ世過ぎをしてきた厚顔の徒であれば、罪も一層重いというもの。さらに、おのれの身をわきまえず妻子を養い、その為に罪を重ねて、本日とうとう仕置きになりは致しましたが、それはようやくこの世で罪が裁かれたというだけのこと───どうぞ二度と悪心を抱かぬように、厳しく罰していただきます様、お願い申し上げます。」
倶生神の口上を受けて、閻魔王はうむと肯いた。
「どうだ罪人。倶生神の読み上げた悪行に間違いはあるまい───とすれば、おまえの行く先は地獄と決まった、覚悟いたせ。」
おとこが、悔しげに項垂れる。
「なにも言う事はないか。盗人は千年の間黒縄地獄にて懲らしめる決まり。獄卒鬼ども、このおとこを黒縄地獄へ連れて行け。」
はっ。と赤青の獄卒鬼がかしこまる。
「さあ行くぞ盗人。掏摸が生業などという不逞の輩は、その両腕に墨縄打って切り刻んでやろう。」
「どれほど微塵に刻んでも、風が吹けば元通りとなる。二度と両手が使えぬように、鉄の柱に釘で打ちつけてしまうがよかろう。指先さえも動かせぬように、隙なく打ちつけてしまえばよい。」
獄卒鬼等の言葉を聞いて、女がすうと青ざめる。
「───さあ、立て。」
赤青の獄卒鬼がおとこを両側から抱え、奥へ連れてゆこうとする。おとこはくちびるをかみ締めて、黙って鬼どもに従った。
「やめて。」
堪え切れず女が叫んだ。堂内のすべての目が、一斉に女のほうに向けられる。えんは舌打ちをした。
「えん、此処へ来い。」
閻魔王が静かだが、怒りを含んだ声で命じる。
えんはそっととびらを開けて、堂の中に入った。女も子どもをしっかりと抱えて、えんの後に従った。
「えん。この場にひとを連れて来てはならぬと云ったであろう。」
閻魔王がじろりとえんをにらみつけ、えんのうしろの女と子どもに厳しい目を向ける。
「その者どもは、このおとこの妻子か。このようなところへ連れてきたところで、夫が父が、断罪される無残な姿を見せつけるだけ。すぐに連れ帰るがいい。」
おとこが目を伏せる。
えんは、黙ったまま動かなかった。
「どうした、このおとこが断罪される様を見たいのか。ならば見るがよい。おまえ達はこのおとこが掏り取った金でのうのうと養われていたのであろう。掏摸の罪がどれほど重いかじっくりと見て行くがよかろう。」
赤の獄卒鬼が頑丈そうな鉄の台を用意する。青の獄卒はおとこをしっかりと押さえつけていた。
「坊を連れて、帰れ。」
おとこが女にそういった。女は動かなかった。
えんもまた、ふたりをじっと見つめたまま、動かなかった。
「強情な。地獄の苦しみを受ける亡者の様など、ひとが正視できるものではない。出てゆけ。」
「いやだ。」
女が閻魔王をにらみ返した。そうして、おとこに向かって云った。
「なんで、なんにも云わないのさ。一度はやめようとした仕事を、止められなくなったのはあたしらのせいじゃないか。」
「言っても仕方がないだろう。」
おとこがぽつりと言った。
「何が仕方ないのさ、あたしらがいなければとっくに足を洗って、真っ当に暮らしていられたんじゃないか。あたしらが、あんたにぶら下がったから、だから掏摸をやめられなかった、あたしらが悪いんだと、そう言えばいいじゃないか!」
堰を切ったように泣く女の声が堂内に響いた。
───云えるかよ。
おとこは辛そうに女を見つめ、そうつぶやいた。
「おまえらが、いなければよかったなどと、思ったことはない。いまでも、いまここでどうなっても、そんなことは思わない。掏摸をやめられなかったのは、俺が悪い。ほかにいくらでも養っていける手立てはあったはずだったのに───」
───こんどこそ、こんなことはやめて普通に暮らすつもりだったのに。
おとこはそうつぶやいて、女に頭を下げた。
「すまなかった───こんなことにならなかったら、まだ一緒にいてやれたのに。」
あっけにとられていた青の獄卒鬼が、思い出したようにおとこをぐいと捕らえ、鉄の台の前へ引き据える。台の前では、赤の獄卒鬼が鉄の鎚を手に待ち構えていた。
女は、顔を上げた。子どももまた、凍りついたように身動きもせず父を見ている。
赤鬼が、大きく鎚を振り上げる。罪人の両手を砕こうというのだ。青鬼がおとこの両腕を揃えて、鉄の台の上に押さえつけている。
「倶生神───」
鎚が振り下ろされようとしたそのとき、閻魔王が声を掛ける。赤の獄卒鬼が、ぴたりと手を止めた。
「倶生神───このおとこの善行を読み上げよ。」
───はい。と、倶生神が首肯く。
「申し上げます───かまえて善行と申すほどのことはございませぬが、身過ぎの悪行を別にすれば、ひとには優しく、妻子を慈しむ者。けして根からの悪人ではございません。また、悪しきことではございますが、他人の物を掏り取るときは、人が困らぬ程度に止め、多ければ返すことさえあったようです。そのために捕らえられたことさえございます。悪事から足を洗おうと考えていたことも、この場限りの言い逃れではございません。悪行の徒にはございますが、おのれの罪を知るものにございます。また、善行を上げよと仰せであれば、そこにおりますこのおとこの妻は、身寄りを失い行き倒れかけたところを、おとこに助けられた者にございます。」
閻魔王はうむと肯いた。
「善き心を持ちながらそれを生かせず、悪事を悪事と知りながらそれを退けられなかった罪は重い───この者は、やはり今すぐに地獄行きとする。」
おとこが静かに項垂れる。
「ただ、条件をだそう。お前の行く黒縄地獄は罪人どもに千年の寿命を与え責め苛む地獄であるが、お前は三年の後再びこの場で裁きを行う。もしそれまでにおのれの罪を深く悔い、悪心を捨てて善を為す下地ができておれば、つぎの世に生まれ変わることを許そう。だが、悪心を捨てきれず、再び悪を為す恐れがあるときには地獄へ差し戻し、定めどおり千年の間責め抜いてくれる───異存はあるまいな。」
青の獄卒鬼がおとこを放し、赤の獄卒鬼が振り上げた鎚を静かに下ろした。
おとこが閻魔王の前に額づいた。
女が寄り添う。
それまで目を見開いて、じっと成り行きを見つめていた子どもが、おとこのそばへ歩み寄って、「おとう。」とひとこえ呼んだ。
おとこは膝を突いたまま、子供のあたまにそっと手を置いて、「おかあを頼むな。」と、静かに笑ってそう云った。女は涙を浮かべたまま見つめていた。
赤青の獄卒鬼に連れられて、おとこは地獄へと消えていった。これから三年の間、地獄の苦しみが待っているのだ。まだ幼いおとこの子は、引かれてゆく父の姿をじっと見ていた。そして、父の姿が見えなくなると、はじめてぽろりとなみだをこぼした。
おとこを見送って、ふと我に返った女が辺りを見回すと、閻魔堂の中はしんと静まり返っていた。
正面に座っていた閻魔王。黒々とした鉄札を手にした具生神。赤と青の獄卒鬼達。壇荼幢、業の秤、浄玻璃鏡───。
すべては埃を被った作り物に変わり、闇の中にうずくまっている。
「夢じゃあないよ。それとも、夢の方が良かったかい。」
えんが問う。「ううん。」とくびを振ったのは、少しおとなの目をしたおとこの子だった。「ああ、そうだね。」と、女がぽつりと言って肯いた。
「さて、どうやって暮らしていこうか───。」
女が堂のとびらを開けた。
高く登った半月が、閻魔堂を照らしていた。
「えん。少々厳しかったのではないか。」
数日の後のことである。えんはまた、夜の閻魔堂に来ていた。
「母子が落ち着くのには、そのくらいの時間が要るだろう?」
えんは、閻魔王にそう云った。
「生きてく気になったって、大変なんだよ実際に生きて行くのは。」
罪人の妻子となれば真っ当に生きてゆくのは難しい。えんはこのところ、母子の落ち着き先を探していた。
「でもね、ようやく見つかりそうだよ。」
「ほう、どちらへ?」
倶生神が、手にした鉄札から目を上げる。
「請け人になってくれる寺があってね。境内の外の小屋を貸してくれるって。母親は通いで堅い女中奉公を世話してくれたから、そっちへ通えるし、坊は昼間寺で預かってくれる。小坊主見習いだと張り切ってたよ。もう少し大きくなったら、坊主になるかも知れないね。」
「そうか───ならあのおとこも安心であろう。」
閻魔王がそうつぶやいた。
とびらの隙間から、こうこうと光る夏の月がのぞいている。振り返ればそこは闇に包まれた閻魔堂の中で、埃にまみれた木造りの閻魔王、具生神、赤青の獄卒鬼───そしてのっぺらとした木の板の浄玻璃の鏡が、月の光を浴びてぼんやりと並んでいるのだろう。
えんは、振り返らずにしばらくじっと、中空にかかる満月を見上げていた。