二話:変化
「今日は、一段と森の中が静かなのね。いつもならもっと動物たちがここまで出てきているって言うのに」
「確かに様子はおかしいですね。この森が街の中に作られた自然公園といっても下級の魔物は姿を見せますし、もしかしたらこのあたりに潜んでいるのかもしれません。騎士を数人つけてきましたが早く帰られたほうがいいかと」
真ん中に座る自分よりも幼いだろう女性と、その隣にいる女性との会話が聞こえてくる。
この言語は確か神代の時代に使われていたとされる言語だったはずだ。
神々が世界を創造したとされる時代に、神々が使ったとされる言語。
ロアも遺跡などを回ったときに見られる石版などに書かれた文字を解読するために学習したもので、一般的に使うことは無い。
もはや古代語に近いものとされる言葉だというのに、標準的に使うような地域などあっただろうか、とロアは疑問に思った。
座っているほうの女性はかなり上等そうに見える服装に身を包んでいる。
顔まではっきりとは見えていないが、腰の辺りまで伸ばされたブロンドの長髪やその雰囲気はどこか上品さを兼ね備えているようにロアには思えた。
その隣の女性は黒を基調とした服に身を包んでいる。
ああいった服装は王宮内に使える侍女たちが着ていた覚えがある。
周りに数人の護衛の騎士がいることなどを考えれば相手は貴族や、下手をすれば王族ほどの身分であるかもしれない。
だが、それはロアにとっては都合の悪い話である。
もしも相手が貴族や王族であるのならば確実にロアのことを知っているだろう。
そしてすぐに追っ手がやってくる。
しかし、さっきの会話を聞けばここはどこかの街に作られた自然公園であるという。
ともなればどこから森を抜けようとも街の中に出てしまうことになる。
当然街の中に出れば誰かに見つかるだろうし、もし夜になって人気の少ない時間まで待ったとしても貴族クラスの身分のいる街であれば夜の巡回なども行われる。
今までずっと逃げるように暮らしてきたのだからそれくらいのことは熟知していた。
まだ魔力は二割ほどしか回復していない。今大群に襲われれば間違いなく負けるだろう。
と、考えたところでロアはふっ、と笑みをこぼした。
先ほどまで死に掛けていたところだったというのに、どうしてまたこんな心配をしなければならないのか、と。
そもそも転移させられたとしてもおかしいことはたくさんあるのだ。
いくら傷が癒えていた所で状況が把握できていない現状はさっきまでの状態と対して変わらない。
なんにせよここまでだろう、と思い、それならばいっそのこと逃げ切れるところまで逃げ切ろう、と体を動かそうとした瞬間、目の前で続いていた会話が耳に入ってきた。
「そうね。近くにフラメル公国からの使者が来るとお父様から聞いていたし、怪我なんてできないものね」
フラメル公国、という単語が聞こえてきたときにロアは聞き違えたか、と思った。
ロアの住んでいる世界にフラメルなどという国家は存在しない。
全部で十一の国が存在していたが、そんな名前の国は存在しなかったのだ。
そこで、ロアはいくつかの可能性にたどり着いた。
急な転移。
見知らぬ土地、モンスター。
神代の時代の言葉を扱う人。
そして全く知らない国の存在。
もしかすると、自分の知っている世界ではないのではないか、と。
昔過去へと旅行してきた男を主題にした本を読んだことがある。
自分もそんな状態にあるのではないか、と思ったが騎士の着る鎧のような精密な製鉄技術は無かったと古代の石版などから読み解いたことがある。
もしそれを信じるのであれば、ロアがたどり着ける可能性は一つ。
ここは自分の住んでいた世界ではない。
また違った世界であるという可能性だ。
世界は一つではない。これがロアの知っている神話に綴られた一行目の言葉だ。
――神々は無数の世界を創り、そして数えられないほど見捨てた。
そして見捨てられなかったものの一つがロアの住んでいた世界だと、そう神話には綴られている。
ロアといえど、そんな神話の話をそのまま鵜呑みにしていたわけではない。
だがわけの分からないこんな状況だからこそ確信となるための材料が一つでもほしいのだ。
その結果が、この可能性というわけだ。
当然どちらも可能性の上での話だ。
ただ目の前の人にここはどこか、という質問を気軽にできない立場でいる以上は考えられる可能性を全て考えておかなければならない。
思考を張り巡らせている間に一行は帰還する準備を始めている。
このまま帰って行ってくれるならば夜まで森の中で逃げとおして、その後街に出ればいい。
そう考えた瞬間だった。
先ほどと同じ気配を感じた。
ついさっきロアが仕留めたところの魔物とほぼ同じ気配だ。
かなりのスピードで迫ってきている。
気配を殺すための魔法は解けていない。
それならば、狙いは目の前の一行だろう。
数はおよそ四体。
先ほどは一瞬で殺してしまったので強さを把握し切れてはいないが、もしかすると全滅するかもしれない。
そう考えると、少し気持ちが悪くなった。
「クラウン様! お下がりください!」
護衛の騎士のうちの一人が側にあった馬車に乗ろうとした女性の前に立ち、武器を構える。
先ほどの双頭の魔物は二方向から二匹ずつ姿を現したようだ。
「キマイラ……! なぜこんな魔物が自然公園の中に!?」
侍女らしき女性がほとんど悲鳴に近い叫びを上げる。
キマイラという名を持つ双頭の魔物はそれをあざけるように舌で口元を舐めている。
それに対して護衛の騎士たちはクラウンと呼ばれた女性を取り囲むように前へ出る。
だが、その足は確実に震えている。
構えた槍はまっすぐ相手を捉えきれていない。
それでも女性を守るために魔物の前に立ちはだかっている。
それは、もしかしたら勇気なのだろうか。
先ほどまで状況を把握するために回転していた思考が、すり替わる。
自分があの国を滅ぼしたとき、そのときに王を守る騎士たちの様子がこんな風だったな、とロアは回想した。
勝てないと分かっていながらも、それでも守るべきもののために戦うものの姿勢だ。
こうして客観的に見ると、無様でありながらも、なんとも勇ましい様子に思えた。
あの時、自分が騎士の前に敵として、殺戮者として立ってみていたときに哀れとしか思えなかったというのに、とロアは苦笑した。
そう、あのときのロアは殺戮者だった。
こうして守るべきものがあって戦うものも、その守るべきものもためらい無く殺した。
それは確実に虐殺だったのだろう。
今目の前で起ころうとしている魔物による殺戮と同義のものだ。
それを想像して、また少し気持ちが悪くなる。
今まで自分がやってきたことを後悔したことは無かったのに、だ。
キマイラの一体はその鋭利な牙で目の前にいる騎士を噛み砕こうとした。
騎士は一歩後ろに下がることでそれを回避するが、もう一体が襲い来る。
「うわぁあああ!」
声を上げて槍を振り回す騎士。
めちゃくちゃに振り回した槍が運よくキマイラの目に当たったようだ。
キマイラはひるんで後ろに下がる。だがその凶暴性はより強くなっているようにロアには見えた。
次の一撃は、恐らくあの騎士たちでは受けきれない。
一歩下がったところからの高速の飛び掛り。
それによって騎士たちと共に後ろの女性も巻き添えを受けるだろう。
リアルなイメージが頭の中によぎったとき、ロアは既に黒い剣を抜き放っていた。
なぜだかは分からない。
もしかしたら今までしてきたことへの罪悪感かもしれないし、単純に目の前の惨劇を止めたくなっただけかもしれない。
ただ何も分からずに抜いた剣は、久しぶりに人を守る剣となった。
騎士たちに飛び掛ろうとしていた一体のキマイラに一瞬で詰め寄ると、ロアはそのまま走り抜けるのと同時に複数の斬撃を放った。
通りすがりざまに肉片へと姿を変える魔物。
それを目の前にして騎士たちは驚きの声を上げていた。
「何……だ?」
隣にいるキマイラが大きな唸りを上げる。
その短い隙に直進していた足を右に動かす。
凄まじいまでのスピードで直進していた体を見事に方向転換させ、タナトスを振り下ろす。
あっさりと落ちる首。
そのころには反対側に構えていたキマイラが飛び掛ってきていた。
「遅いな」
飛び掛ってきたキマイラが鋭い爪の生えた前足を振り下ろそうとする直前に縦にタナトスを振るう。
そこから生み出された剣閃はいとも容易くキマイラの体を両断した。
「嘘……?」
女性は驚きの声を漏らす。
騎士たちでも勝てる見込みの無いキマイラが一瞬で三体も切り捨てられているのだ。当然だといえる。
残った一匹のキマイラは仲間があっさりと殺されたにもかかわらず距離を詰めて戦うつもりのようだ。
距離は遠くは無い。間合いは詰めれる。
ただ疲労した足でこれだけの運動をしたのためにうまく動いてくれない。
そうなれば、とロアは重々しく口を開いた。
「“闇より出でし呪詛の黒き炎よ、全てを吞み込み焼き尽くせ”【シャドウフレア】」
僅かな魔力の中で扱える下級の魔法を選択し、詠唱した。
詠唱を終えたと同時にキマイラの足元が僅かに光る。
そして、黒い炎が噴出した。
黒い炎は呪いの炎。
炎自体に込められた魔力が尽きるまで燃え続ける。
しばらくして黒炎が消えた後、キマイラの姿は形も残っていなかった。