2、美しい月の夜のこと
美しい月の夜。私は、テラスに出て夜風にあたっていた。
城での仕事も少しずつ慣れてきて、こんな時間に出歩く余裕もできたのだ。
城仕えのものが住む寮のようなものは城の裏手にあり、テラスからは小さく城が見える。
あの城にジークが居ると思うと、なんだか目が離せなくなってしまう。
「あいたいなぁ… 」
「だれに? 」
優しげな声にびっくりしてテラスから身を乗り出せば、しーっと人差し指を口に当てたジークが立っていた。
「なん、で? 」
「会いたくなったから 」
そう言ってひょいひょいと柱を伝ってテラスまで登ってきたジーク。
いつもと違う質素な服を着ているところを見ると、お忍びで城を出たのだろう。
幾ら質素な服を着ても、漂う気品とか存在感は消すことなどできない。何を着ても彼は、王子様なのだ。
「誰に会いに来たの?メイド長のサリー様?それと執事統括のオリバー様?どちらにしても、お二人はお城にお住みになっているはずだから…えっと他には 」
キョトンとした顔のジーク。あれ?私なにか変なことを言ったかしら。
だって、そうじゃなきゃ、なにかあっただろうか。私だけ知らされていない何か…。グルグルと考えていると、然笑いだすジーク。
「なんで、笑うの!? 」
「いや、相変わらずだなぁと思って。うん、 」
言いながら、私の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。お風呂上りで良かった。今ならば、癖毛の私の髪もさわり心地は良いはずだ。
「俺が会いたかったのはマナだよ。どう、仕事はなれた? 」
「あぁ、うん。こっちにきて半年経ったから、ちょっとだけど余裕もでてきたよ。こんな時間に出歩くくらいには、ね 」
私に会いたかった、なんて。ちょっと照れてしまう。ジークはいつも、こっちが恥ずかしくなってしまう台詞をはく。その度に私はドキドキして、勘違いしそうになる。
「そうか、よかった」
嬉しそうに微笑むジーク。私はその笑顔から目を逸らすことができなかった。本当に幸せそうに笑うその人を見ていると、私もなんだか幸せな気持ちになれるから。
愛しいという気持ちは、この人を見ていて初めて知った気持ちだ。
無性にこの人のためになることがしたくて、でもドキドキして上手くできない。落ち着かなくて、だけどいつもホワホワと温かい。
なんか情緒不安定だけど、とても満たされてしまっている。
「ありがとうございます、王子様 」
「その呼び方、嫌だな。ちゃんと名前で、ジークって呼んで 」
ムッとした顔をされも、そんな風に呼ぶのは久しぶりすぎてちょっと緊張してしまう。
仕事中は、いつも王子様って呼び方で統一されていて、ジークなんて気楽に呼べたのはこの世界に来て最初の一週間くらいだ。
本当は話す言葉も、こんなふうに気楽なものじゃいけないのだろう。
「う、なんか、慣れない、のですが… 」
「その丁寧な言葉も嫌い。さっきみたいに普通にして。仕事中は別に仕方ないけど、今は 」
切なそうに月を見上げたジーク。1枚の絵画みたいな光景に私はホウっとため息をついてしまった。
なんて、絵になるのだろうか。月に向けた碧い瞳が切なげで、月に嫉妬してしまいそうになる、なんて思っていたら
「俺と君、たった二人だけなのだから 」
その瞳が突然こっちを向いてびっくりした。
きゃあ、威力が強すぎます!!まともに見られない。
あ、ちょ、近づいてこないでででででで。
「ねぇ、名前を呼んで 」
そっと肩をつかまれて、耳元で囁かれれば、私はすぐに降参してしまう。大好きな彼の願いを聞けないはずがないのだ。
私の一言で彼が喜ぶのならば幾らでも、言葉をつむごう。
「じ、じーく 」
「もう一回 」
「ジーク 」
「なぁに、マナ 」
心底嬉しそうな声に、私は泣きそうになってしまった。こうやって、優しくされればされるほど、勘違いしてしまいそうになる自分が嫌だ。
私と同じようにジークも私を好きなんじゃないかって。だけど、それは絶対にないこと。
震える手でジークの胸を押して、必死に怒ったような顔をつくる。大丈夫、声は震えない。
「駄目だよ、こんなところ誰かに見られたら困るでしょう 」
「え、別に大丈夫だよ 」
なんてことはないという風に言われれば、この程度の触れあいはジークにとっては大したことではないと思い知らされる。
でも、私にとっては泣きそうなほど嬉しくて苦しいことだ。
「ぜっんぜん、大丈夫じゃないわ!!私が、色々と言われちゃうのだから。それに、その、セリナ様が勘違いしちゃったら、可哀想だよ… 」
ジークには婚約中の相手が居る。宰相であるオルガ様の愛娘であるセリナ様。
美しい白銀の髪に、ジークと同じ碧い瞳。二人が並ぶと御伽噺のワンシーンのようだった。
私みたいに、平凡な顔に黒い髪と瞳じゃあ、やっぱりジークのとなりに並ぶのはおかしい。ちゃんと、お似合いの二人はいるのだ。
「あぁ、セリナは平気だよ。気にすることなんてない 」
優しい声。頭をまた撫でられて、私は泣きそうだ。
というか、泣いてしまっていた。
「どうしたの、マナ 」
いきなり泣き出した私に焦るジーク。いけないと思いながらも私の涙はとまらない。
ジークが「大丈夫」とか「平気」とか言うたびに、私の事なんてなんとも思ってないって言われるようで辛くなる。
私なんて、初めからイレギュラーな存在で、彼を煩わすほどのものでない。そんなこと知っていた。
でも、彼のくれる優しい時間は私を贅沢でわがままにさせてしまった。
もっと、彼のそばにいたい。
私だけの王子様になって欲しい。
彼が、欲しい。
嗚咽を漏らし、ジークの肩に額をこすりつけて泣く私。
頭を撫でてくれる手は何処までも優しくて、涙は止まりそうもなかった。