10、人魚姫と私
水の中で呼吸できるようになって私は素直にうれしかった。
だって、これってすごいことだ。本当にこの世界は異世界なんだと実感した。
「まるで、人魚みたいだ 」
と、うっとり呟く私に、王子は目をキラキラさせてその意味を聞いた。
こちらの世界での生活は、思ったよりも不自由ではなかった。
目隠しの魔法とやらをかけられた噴水には誰も来ないので誰かに見つかる危険はない。
三食の保証は完璧。美味しい王宮の料理は王子が必ず届けてくれた。
…のだか、肉体的に時間が止まってしまった私に食事は必要なかった。
食べようと口に入れても料理は元通りに戻ってしまう。
時間の止められた噴水の中では、外の世界のものに干渉することはできないらしい。
時間が止まるということは、こういうことなのかと感心してしまった。
魔法ってすごい。
王子曰く、時間の止められた噴水の中では、私はふやけることもない。
水に濡れても透けない服も用意させ、眠るときは水中で揺蕩ったまま目を閉じた。
夢のような非現実的な生活で私は、特にすることもなくダラダラすごした。
それはまるで夏休みのようで、とても楽しかった。王子も頻繁に来るから、退屈することもない。
「人魚ってのは、人の姿をした魚…ん、魚の姿の人。まぁ、いいわ要するに下半身が魚の人よ 」
「セイレーンのようなものか…なるほど 」
ふむふむとうなずく王子は、興味深そうにしている。
そんな王子を見ているとなんだか困らせてやりたくなってしまう。
「そういえば、こんなおとぎ話があるんだけど… 」
だから、悲しい結末のお話を始めてしまうのは仕方のないことだ。
「そうして、お姫様は泡になってきえてしまいました 」
「…何故だ… 」
うめくように吐き出された言葉。王子は悲痛な表情を浮かべている。
そんな表情を見て、可愛いなぁと思う私は相当歪んでいるんだなとしみじみ思った。
「どうして、王子は気が付かないんだ。自分を助けた娘のことを 」
「そりゃあ、覚えてなかったからでしょう。忘れちゃったら分からないわよ 」
「それでも… 」
納得いかないという感じの王子の頭をよしよしと撫でた。
「仕方ないじゃない。そもそも、人魚だったお姫様は人間の王子様と幸せになれないわよ 」
私も子どものときは納得がいかなかった。
でも、大人になったから思うこともある。
海の底で生きてきたお姫様は、やはり地上で暮らすのは無理なんだ。
違う世界で生きるっていうのはとても難しいことで、今までのこと全てを捨てることになる。
お姫様にとって、その恋は大切だったかもしれない。
でも、それだけで全てを捨てていいはずがない。
現に、残されたお姉さんたちは代償を払ってまで末の姫を助けに来た。
そして渡された短剣は、王子様の命を奪うためのものだった。
こんな結末にしかならないのならば、始めから諦めてしまえばよかったんだ。
誰かが不幸になる恋ならば、叶わない方が幸せ。
「いいんじゃない。最後に人魚姫は好きな人を殺さずにすんだんだから 」
「…そういうものなのか 」
悲しそうな瞳の王子。まだ15歳の彼には分からない話なのだろう。
とはいっても、私も人魚姫のようにすべてを捨てても叶えたい恋とやらをしたことはないんだけど。
「ところで王子はこんな所に通い詰めてて大丈夫なの? 」
「…ちょっと勉強に行き詰っていただけだ。それより、その呼び方やめてほしい」
「へ? 」
珍しく強気な表情に私は首をかしげる。王子って呼び方のことかな。
「俺はジークフリートだから、ジークでいい。最初に言ったのにまだ直ってない 」
「あぁ、ごめんね 」
曖昧に笑いながら、私は内心とても困っていた。
別に忘れていたわけでない。むしろ、意識的に呼ばないようにしていたのだ。
名前を、しかも愛称なんて読んでしまえば愛着がわいてしまうだろう。
もうすでに、私の中には王子への情のようなものがある。
いつか別れる相手なのに、それはちょっと辛い。
あぁ、でもこのお願い的な顔されると、弱いんだよなぁ。
「…わかった、今度からは呼ぶ 」
「今、呼んで 」
にっこりと催促されて、私は溜息をつく。くそぅ、そこでその笑顔は反則だ。
もう、こうなったらやけだ。どうせなら、私の名前も呼ばせてやろう。
「私もマナって呼んでいいよ 」
「え? 」
突然の申し出に驚いた様子。年上の余裕を回復した私はにっこり笑顔で呼んでやる。
「ね、ジーク 」
優しく甘く呼んであげれば、耳まで真っ赤にしてジークは頷いた。
あぁ、可愛いなぁ。
お別れの時、ちょっと泣いちゃいそうだ。