王太子に捨てられた伯爵令嬢は、下級兵の妻になった
その年も、老婦人は辻馬車を待っていた。
かつて王宮の夜会で、不貞の罪を着せられた女——マルガレーテ・オルドは、王都の外れの住宅街にある小さな屋敷の前で、杖をつきながら立っていた。
やがて、古びた辻馬車が石畳の道をゆっくりとやってくる。
御者台に座っていた青年が彼女の姿を認めると、すぐに馬車を止めて降りてきた。
「お待たせしました、オルド様」
御者の名は、アルト・ヴェルナー。
マルガレーテは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、アルトさん」
「今年も、いつもの場所ですか?」
「ええ。年の初めの、ご挨拶に」
アルトはそれ以上、尋ねなかった。
この老婦人が毎年、年の初めになると、王都の外れにある古い祈祷所へ向かうことを、彼は知っている。
けれど、そこで何をしているのかは知らなかった。
尋ねたこともない。
ただ、その場所へ向かう時だけ、彼女が少し少女のような顔をすることは覚えていた。
「では、お手を」
「ありがとう。年を取ると、馬車に乗るだけでも一仕事ね」
アルトは馬車の扉を開け、マルガレーテの腕を支えた。
彼女は少し時間をかけて、馬車の中へ腰を下ろす。
「どうか、ご無理はなさらずに」
「ふふ。そう言うと、うちの人にも叱られるのですよ」
「大切にされているのですね」
「ええ」
マルガレーテは少しだけ目を伏せた。
「とても。不器用な人ですけれど」
アルトは扉を閉め、御者台へ戻る。
そして手綱を軽く鳴らした。
馬車がゆっくりと走り出す。
王都の外れの住宅街を抜け、石畳の道へ入る。
朝の淡い光の中を、辻馬車は駆けていく。
窓の外には、マルガレーテにとって懐かしい街並みが流れていった。
かつて王都守備隊の詰所があった通り。
傷ついた見習い兵を助けた橋のたもと。
そして、遠くに見える王宮。
あの場所で、彼女は一度、すべてを失いかけた。
「アルトさん、この馬車に乗っていると、不思議と懐かしい昔のことを思い出すわ」
「そう仰るお客様も、時折いらっしゃいます」
「そう……」
「目的地へお連れするだけでなく、忘れていたものを思い出していただくことも、馬車の役目なのかもしれません」
「面白いことを仰るのね」
馬車の揺れに身を任せながら、マルガレーテは静かに目を閉じた。
※
王宮の夜会場。
会場には多くの王族や貴族に加え、法務卿や財務卿ら、王国の政務を担う者たちもいた。
夜会が滞りなく進む中、唐突に王太子レオンハルトが前に出た。
「マルガレーテ・アシュフォード。おまえとの婚約を、ここに破棄する」
レオンハルトの声が、夜会場に響いた。
楽団の音が止まり、貴族たちの視線が一斉に伯爵令嬢マルガレーテ・アシュフォードへ向く。
彼女はしばらく、言葉の意味を理解できなかった。
「……殿下。理由を、お聞かせいただけますか」
「聞けばおまえは近頃、王都守備隊の詰所に足繁く通っているそうではないか」
「はい。それが、何か?」
夜会場がざわめいた。
レオンハルトは勝ち誇ったように口元を歪める。
「王太子の婚約者でありながら、夜ごと下賤な兵士と密会するとは。伯爵令嬢の名が聞いて呆れる」
「密会……?」
「おまえは王都守備隊の男と不貞を働いているのだろう!」
不貞。
その言葉に、会場が大きくどよめいた。
たしかに、マルガレーテは王都守備隊の詰所へ通っていた。
夜に出かけたこともある。
兵士たちと言葉を交わしたこともある。
けれど、それは不貞などではない。
冬の巡回兵に外套を届けるため。怪我をした兵士の治療費を立て替えるため。戦死者の妻子に見舞金を届けるため。王都の外れで消えた街灯の修繕を頼むため。
王宮の中では誰も見ようとしなかった王都のほころびを、少しでも繕うためだった。
「私は、王都守備隊の方々に……」
「言い訳は見苦しいぞ。慈善の名を借りて男に近づいていたのだろう?」
レオンハルトの隣で、侯爵令嬢クラリッサが悲しげに目を伏せた。
「私、見てしまったのです。マルガレーテ様が夜遅く、守備隊の詰所から出てくるところを。男の方と、とても親しげに話しておられました」
夜会の参加者たちに非難を促すには、それだけで十分だった。
「なんて恥知らずな」
「伯爵令嬢が守備兵などと」
「王太子妃にはふさわしくないと思っていたわ」
囁き声が、四方から突き刺さる。
マルガレーテは唇を噛んだ。
自分が本当に何をしてきたか。
誰のために動いてきたか。
それを知っている者は、この場に一人もいない。
そう思った、その時だった。
夜会場の扉が、重い音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、華やかな貴族ではなかった。
王族に仕える高官でもない。
王都守備隊の制服を着た、一人の若い兵士だった。
ガレス・オルド——門番風情、と貴族たちが嘲笑する下級兵。
「何者だ? ここは下賤の者が入っていい場所ではないぞ」
レオンハルトが不快そうに顔を歪める。
ガレスはまっすぐに歩き、マルガレーテの前で片膝をついた。
そして、誰もが見ている前で深く敬礼した。
「王都守備隊、第三門衛、ガレス・オルドです。失礼を承知で参上いたしました」
ガレスは続ける。
「この方は、王都守備隊の誰とも不貞など働いておりません」
「そのような下級兵の証言など、何の価値がある!」
レオンハルトが声を張り上げて叫んだ。
ガレスは静かに答えた。
「自分一人の証言では足りないと仰るなら、王都守備隊の者たちが証言いたします」
その瞬間、夜会場の扉が再び開いた。
そこに並んでいたのは、王都守備隊の兵士たちだった。
老兵もいた。片腕を吊った負傷兵もいた。まだ幼さの残る見習い兵もいた。黒い喪服を着た戦死者の妻もいた。
彼らは一斉に、マルガレーテへ敬礼した。
「我ら王都守備隊の者は、マルガレーテ・アシュフォード伯爵令嬢の名誉を保証いたします」
夜会場から、笑い声が完全に消えた。
「この方は、王都守備隊の誰かと不貞を働いたのではありません」
ガレスは静かに言った。
「この方は、王都を守ってくださっていたのです」
「ば、馬鹿な……」
クラリッサが後ずさる。
その胸元で、大粒の宝石が揺れた。
ガレスはそれを見た。
「その首飾り」
クラリッサがびくりとして目を見開いた。
「王太子殿下から贈られたものですね」
「そ、それが何だというのです」
「その代金で、北門の兵士二十名に冬用外套が支給できたはずです」
会場が凍りついた。
「王都守備隊へ支給されるはずの外套が届きませんでした。ちょうどその首飾りが購入された月に届くはずだったものです」
ガレスの声は静かだった。
「その冬、北門の見習い兵が二人、凍傷で指を失いました」
クラリッサの顔から血の気が引いた。
マルガレーテは息を呑む。
レオンハルトがガレスを睨む。
「何が言いたいのだ?」
「はっきり言って欲しければ言いましょう。王都守備隊への支給金が、横領されたのです」
「何だと!?」
そのとき、財務卿がゆっくりと進み出た。
彼は実直であることを国王に買われ、その要職についていた。国王の信が厚いため、口には出さないものの、王族や貴族の中には彼を煙たがる者も多かった。
「殿下、王都守備隊への支給金が近年、不自然に減額されていることは、私も気にかけておりました。まさか、その穴を一人の伯爵令嬢が私財で埋めていたのでは……」
「何を戯言を……」
「戯言かもしれませんが、念のため、記録を確認させていただきます。私の職務ですので」
財務卿は涼しい顔でそう言った。
それからのことは、マルガレーテには少し遠く感じられ、現実感がなかった。
財務局の者が呼ばれ、記録が照合された。
その中で、王都守備隊への支給金の一部が、王太子の私的な夜会や贈り物に流れていたことが明らかになった。
クラリッサの家にも、その金の一部が流れていた。
レオンハルトは王命により謹慎を命じられ、のちに廃嫡された。
クラリッサの侯爵家も処罰された。この日以降、彼女と近かった貴族令嬢たちも含め、誰一人としてクラリッサの名を口にしなくなった。
その後、彼らは二度と失ったものを取り戻すことはなかった。
貴族たちは、先ほどまでマルガレーテを笑っていた口で、今度は王太子を責め始めた。
けれど、マルガレーテにはもう、そんな声はどうでもよかった。
彼女の視線は、ただ一人に向いていた。
夜会場の隅で、静かに控えている王都守備兵。
ガレス・オルド。
※
夜会が終わった頃には、王宮の外に冷たい雨が降っていた。
マルガレーテは皆が去る中、夜会場に一人残ったままでいた。
婚約は破棄されたが、罪人にはならなかった。名誉も回復されるだろう。
それでも、不思議と実感がなかった。
「マルガレーテ様」
振り返ると、ガレスが少し離れた場所に立っていた。
「ご無事で、何よりです」
「無事……なのでしょうか」
マルガレーテは小さく笑った。
「王太子殿下に婚約破棄されて、不貞を疑われて、貴族中の笑いものにされました」
「それでも、あなたは毅然とされていました」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
貴族に囲まれ非難される中、彼は一人、マルガレーテを助けに来てくれた。自分を恥知らずではなく、王都を支えた者として見てくれていた。
「なぜ、来てくださったのですか」
「王都守備隊の者たちの間で、王宮に勤務する者が、あなたが今夜あらぬ疑いで断罪されるようだという噂を耳にしたのです。自分はあなたに大きなご恩がありますので……いてもたってもいられず来てしまいました。あなたに恩を感じている者は多く、結局、他の者もついてきてしまったのですが」
そう言ってガレスは小さく笑った。
「恩……」
「三年前、東門近くで自分は重傷を負いました。治癒師の費用を出し、薬と包帯を届けてくださったのが、あなたです」
マルガレーテは記憶を探る。
「あの時の兵士さん……」
「はい」
「生きていてくださったのね」
ガレスの表情がかすかに揺れた。
「自分は、あの日からずっと、あなたにお礼を申し上げたいと思っていました」
「なら、今日でおあいこですね」
「おあいこ?」
「ええ。今日、あなたは私を救ってくださいました」
「自分は、事実を話しただけです」
「それでもです」
マルガレーテは雨の向こうに見える王都の灯を見つめた。
「誰も信じてくれないと思っていました」
そう独り言のように呟いたマルガレーテに、ガレスが言う。
「自分たちは、ずっと見ていました。あなたがしてくださったことを、王都守備隊は忘れません」
「王都守備隊は、ですか」
マルガレーテは少しだけ悪戯っぽく尋ねた。
「あなたは?」
ガレスは言葉に詰まった。
「自分は……誰よりもその想いを強く持っています」
「どうして?」
「あなたは、自分が最初に守りたいと思った方だからです」
その言葉は、恋の告白というにはあまりに不器用だった。
けれど、マルガレーテの胸に、何より深く届いた。
今日、王太子は彼女を疑った。
貴族たちは彼女を笑った。
けれど、この下級兵だけは、彼女がしてきたことを見ていてくれた。彼女を、信じてくれた。
それだけで、十分だった。
「私はもとより、王冠など欲しくはなかったのです」
「……」
「私を信じてくれる人がいてくれれば、それでよかった」
マルガレーテは一歩、彼に近づいた。
「あなたのような人が……」
ガレスは、しばらく何も言えなかった。
やがて深く頭を下げる。
「必ずあなたを死ぬまで守り抜きます」
そのあまりに仰々しいガレスを見て、マルガレーテは、小さく声を出して笑った。
※
それから、いくつものことが変わった。
マルガレーテの名誉は回復され、王家から正式な謝罪もあった。
新たな婚約の話も、いくつか持ち込まれた。
隣国の貴族。
有力な侯爵家。
王弟殿下の側近。
けれど、マルガレーテはすべて断った。
王太子は王冠を失い、クラリッサは社交界から居場所を失い、彼らに媚びた者たちは彼らを忘れたふりをした。
その一方で、名誉を回復したマルガレーテは何一つ取り戻そうとはしなかった。
彼女が選んだのは、王都守備隊の下級兵だった。
そのことに、王都の誰もが驚いた。
結婚式は簡素なものだった。
それでもマルガレーテは、これまでで一番幸せそうに笑っていた。
式の終わり、ガレスは彼女に言った。
「自分は、不器用です。気の利いた言葉も言えません。身分も財産も、あなたには釣り合いません」
「それは、もう何度も聞きました」
「それでも」
ガレスは、ひどく真面目な顔で言った。
「必ず、あなたを守り、幸せにします」
それは、愛の言葉としてはひどく不器用だった。
けれど、マルガレーテには十分だった。
「わかっています」
そう言って、彼女は微笑んだ。
※
結婚して最初の冬。聖暦にして1078年。
マルガレーテは、ガレスを王都の外れにある古い祈祷所へ連れていった。
そこは、兵士の無事を祈る場所として、昔からひっそり知られている祈祷所だった。
「なぜわざわざこんな所まで来る必要があるのだ」
ガレスは不満そうに言った。
「あります」
「祈ったところで、敵の剣は止められん」
その瞬間、マルガレーテは立ち止まった。
「それでも、祈るのです」
そう言って、彼女は祈祷所の中へ入っていった。
祈祷所の壁には、無数の木札が吊るされていた。
兵士の無事を願うもの。
戦地へ向かった家族の帰還を願うもの。
重い傷を負った者の回復を願うもの。
マルガレーテは一枚の木札を手に取り、丁寧に文字を書く。
ガレスは、その横顔を見ていた。
「何を書いた」
「秘密です」
マルガレーテは木札を壁にかけ、静かに目を閉じた。
ガレスは不満そうに眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
「来年からはもう来ないぞ」
ガレスが不機嫌にそう言うと、マルガレーテもむすっとして言葉を返さなかった。
※
それから、長い年月が流れた。
二人は子どもを授かることがなく、ずっと二人だけで寄り添い過ごした。
ガレスは王都守備隊で働き続け、一度だけ生死に関わるほどの重傷を負ったことがあったのだが、そうした苦境も乗り越え、やがて無事に引退した。
一方のマルガレーテも年を取り、持病もできた。
引退後のガレスは戦災遺族を支援する王都の救済事業に参加するようになり、マルガレーテもそれを応援した。
マルガレーテには一つだけ秘密があり、年の初めにガレスが不在のとき、決まって外出するのだった。
※
「アルトさん、今年もありがとうございました」
帰路に着く辻馬車の中で、マルガレーテが言った。
「いえ……。また来年も参ります」
「いつまで行けるかわからないですけれどね……」
「お元気でいてください」
マルガレーテは小さく微笑んだ。
王都の外れの住宅街にある屋敷にまで送り届け、マルガレーテはもう一度、アルトに礼を言い、微笑んだ。
それが、とても穏やかで幸せそうな微笑みで、アルトは不思議な感動を覚えた。
そしてそれが、アルトがマルガレーテを見た最後だった。
※
アルトの辻馬車は、墓地の門前で客の戻りを待っていた。
王都の外れにある、古い共同墓地だった。
やがて黒い喪服を着た老人——ガレス・オルドが墓地から戻ってきて、黙って馬車に乗り込んできた。
「ご自宅まででよろしいですか?」
アルトが尋ねるが、ガレスは窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。
辺りは静かで、ガレスの耳に声が届いていないはずはなかった。
アルトは、二度同じことを聞かなかった。
やがて、ガレスが小さくため息をついた。
「……行ってくれ」
消え入るような声だった。
「かしこまりました」
アルトは手綱を軽く鳴らした。
馬車がゆっくりと動き出す。
乱立する墓石が視界を流れ、やがて見えなくなった。
誰も口を開かなかった。
馬の蹄が土を踏み、車輪がゆっくりと轍をなぞっていく音だけが響いていた。
しばらくして、ガレスが口を開いた。
「アルトさん、すまんが……少し、遠回りしてもらえんか」
「どちらへ?」
ガレスは少し考え込んでいるようだった。
「……どこでもいい。適当に走らせてくれるか」
「かしこまりました」
行き先のない客を乗せて、アルトの辻馬車は王都を走る。
ガレスは黙って窓から外を眺めていたが、ふと口を開いた。
「……家に帰るのが、どうにも気に食わん」
「ご自宅に、ですか?」
「ああ」
ガレスは短く答えた。
「年寄りがひとりで家に帰るだけのことだ。何を怖がる必要がある。そう思うのだがな」
そこで、ガレスは苦々しく笑った。
「どうにも、足が向かん」
アルトは何も言わなかった。
「妻が死んだのだ。マルガレーテという」
「奥様ですか」
「ああ。まあ、長く一緒にいただけだ。珍しい話でもない」
ガレスは窓の外を見たまま言った。
「夫婦など、長く一緒にいれば空気みたいなものだ。いるのが当たり前で、ありがたいとも思わん。いなくなって初めて、家の中の何もかもが使い物にならなくなるだけだ」
「よい奥様だったのですね」
「知らん」
ガレスはぶっきらぼうに言った。
「よい妻だったかどうかなど、他人に説明するものではない。
ただ……わしが家に帰ると、あれは必ずいた。機嫌が良くても悪くても、必ず家にはあれがいた」
アルトは黙ってガレスの話を聞いた。
「子どももできなくてな。あれは、わしにずっと後ろめたい気持ちを抱いていたみたいだった。馬鹿な話だ。そんなこと、わしにとってはどうでもよかった」
ガレスは小さく息を吐く。
「だが、そういうことも、まともに言ってやらんかった」
馬車の車輪が、石畳へ乗り上げる。
「若い頃に王都守備隊へ入ってから、わしはずっと、王都の民を守ってきたつもりだった。それが、わしの生きる意味だと思っていた」
「王都を守ってくださっていたのですね。ご立派なお仕事です」
「立派でない仕事などない。辻馬車のように、人を行きたいところへ運んでくれる仕事も立派なものだ。わしのような老人も、こうして遠出ができる」
「恐縮です」
「だがな……引退してから分かったのだ。今でも、わしが従事した仕事には誇りを持っている。だが、わしにとってもっと大事なものは別にあったのだ」
ガレスは窓の外へ目を向けた。
「あれがいなければ、不摂生なわしは、仕事もまともに続けられなかっただろう。飯を食え、酒を控えろ、風邪を引くから外套を着ろとうるさくてな」
そこで、ガレスは小さく笑った。
「まったく、口うるさい女だった」
その笑みは、すぐに消えた。
「なのに、いなくなると静かすぎる。家というのは、あんなに音のない場所だったか」
「……そうですか」
「礼を言うべきことなど、いくらでもあったはずなのにな」
ふと、ガレスが窓の外を見て眉をひそめた。
「おまえさん、まるでわしらの思い出の場所を知っているみたいだな。さっきから、あれとよく行った場所ばかり通っている気がする」
「この馬車は、探しものの馬車なんです」
ガレスは目を見開いた。
「探しものの馬車……! 噂に聞いたことはあったが、この王都に実在したのか」
「はい。行き先のないお客様の探しものを見つける馬車です」
「そうか……。ということは、わしはまだ、あれのことを探しているんだな」
ガレスは鼻で笑うように息を吐いた。
「笑ったらいい。いい年寄りが、死んだ女房を探しているらしい」
「いえ……。笑うなど……」
アルトは静かに言った。
「とても、大切な方だったのでしょう」
ガレスは、何も答えなかった。
辻馬車は王都を走り続け、日は落ちていく。
やがて、馬車は古い祈祷所の前で止まった。
「……ここは」
ガレスの声が、わずかに震えた。
そこは王都の外れの小さな祈祷所だった。
墓地からも離れた場所だ。
「なぜ、こんなところに……?」
ガレスが呟く。
「この場所に覚えはありませんか?」
アルトが尋ねると、ガレスは記憶を探るように目を細めた。
「……ああ。一度だけ来たことがあったな」
遠くを見るような目だった。
「結婚してすぐの頃かの。ここは、わしらの家からずいぶん遠いのだが、兵士の安全祈願に有名な祈祷所だと、あれが言ってな。わざわざ二人で来たことがあった」
「では、思い入れのある場所なのでは?」
「思い入れなどない」
ガレスは即座に答えた。
「忘れかけておったくらいだ。大した思い出でもない。女房に引っ張られて、しぶしぶ来ただけの場所だ」
そう言ってから、ガレスは少し眉を寄せる。
「それにしては、なぜこんなところに探しものの馬車が止まったのか……」
「当時、ここに来たきっかけは何だったのですか?」
「あれがどうしても、と言ってな。王都守備隊の兵士は危険なのだから、無事を祈願するのだと、一度だけ連れて来られたのだ」
ガレスは気まずそうに言った。
「あれは、わしの無事を真剣に祈ってくれていた。だが、わしはそれを笑い飛ばしてしまった。神頼みなど下らん、と言ってな」
「奥様は?」
「怒ったよ。後にも先にもあそこまで怒ったあれを見たことはない」
ガレスは苦いものでも噛んだかのように笑った。
「そりゃあ、怒るだろうな。今なら分かる。だが、その時のわしは若くてな。剣と腕さえあれば何とでもなると思っていた。祈りで敵の剣は止められん、などと偉そうに言ったものだ」
ガレスは祈祷所の扉を見上げた。
「それ以来、わしは一度もここへ来ていない」
「降りますか?」
アルトが尋ねた。
「……当時の札でも残っておれば、笑い話にはなるだろう」
ガレスはそう言って、馬車の扉へ手をかけた。
笑い話、と言ったわりに、その指先は少し震えているようだった。
二人は馬車を降り、祈祷所の中に入った。
祈祷所の奥には、古びた祈願札が壁一面に吊るされていた。
兵士の無事を願うもの。
重い傷の回復を願うもの。
帰らぬ家族の帰還を願うもの。
無数の木札が、年月に色を褪せさせ、静かに並んでいた。
「この中から探すのは、難しそうですね」
アルトが呟く。
だが、ガレスは答えなかった。
彼は一枚の古い札の前で足を止めていた。
「……あれの字だ」
かすれた声だった。
「間違いない。マルガレーテの字だ」
ガレスの視線の先に、古びた木札があった。
——王都守備隊 ガレス・オルドが、今年も無事でありますように。
マルガレーテ・オルド
聖暦1086年1月
しかし、ガレスは不思議そうに眉を寄せた。
「1086年……? ここに来たのは、1080年より前だったと思うのだが……」
「……こちらにも、奥様の札があります」
アルトが隣の木札を見た。
——夫ガレス・オルドが、今年も毎日無事に過ごせますように。
マルガレーテ・オルド
聖暦1096年1月
「こちらは、1096年ですね」
「1096年……」
「1102年のものも見つけました。これは年の初めではないですね」
——夫ガレス・オルドを、どうか、どうかお救いください。
マルガレーテ・オルド
聖暦1102年9月
「ああ、わしが魔物との戦いで大きな怪我をして、死にかけたときだ……」
ガレスは、震える手で木札に触れようとして、途中で止めた。
「1085年……1084年……1083年……。どういうことだ?」
ガレスは、乱暴に札をめくろうとして、すぐに手を引っ込めた。
壊してしまうことを恐れたようだった。
「こちらには、1121年のものもあります」
「1121年……?」
ガレスの声が震えた。
「今年ではないか」
アルトは、その札に書かれた文字を読んだ。
——夫ガレス・オルドが、今年も変わらず元気でおりますように。
マルガレーテ・オルド
聖暦1121年1月
ガレスは、言葉を失った。
アルトは、ふと思い立ったように言う。
「……僕は、もしかしたら奥様のことを知っているかもしれません」
「何?」
「マルガレーテさんを、お乗せしたことがあります。年の初めに、ここまで。今年だけではありません。僕が辻馬車を始めてから、毎年のように。とても明るくてすてきな方でした」
ガレスが、ゆっくりとアルトを見る。
「毎年……? ここ数年は、病で起き上がるのも辛かったはずなんだが……」
「歩くのもお辛そうでした。それでも、毎年、杖をついて……時には私が腕を支えて、中までお連れしました」
「そうか……」
ガレスは、並んだ札を見つめた。
「馬鹿な女だ」
声が震えていた。
「こんな遠くまで来て、何をしておるのだ。自分の体のことでも祈ればよかったものを。わしの無事など、今さら祈ってどうする」
そう言いながら、ガレスの瞳から一筋の涙が流れた。
「まったく……本当に馬鹿な女だ」
ガレスはもう一度そう言った。
だが、その声は先ほどよりもずっと弱かった。
「探しものの馬車は、奥様の思い出ではなく、奥様の想いを探していたのですね」
「いや……違う」
ガレスは、アルトの言葉を静かに否定した。
「そんなきれいな話ではない」
ガレスは木札を見つめたまま言った。
「わしは、マルガレーテ本人を探していたのだ。あれがいなくなったことを認められないのだ。どうしてももう一度会って、礼を言いたかった」
「……」
「思い出でも、祈りでも、残された想いでも足りん。わしは、あれ本人に会いたかった」
誰も、何も答えない。
ガレスは木札の前に立ったまま、ぽつりと呟いた。
「マルガレーテ、そこにいるのだろう? 死んでもまだ、わしの無事を祈ってくれているのか?」
祈祷所は静まり返っていた。
だが、そのとき、窓もない祈祷所に、ふっと風が吹いた。
壁一面の木札が、かすかに揺れた。
ガレスは息を呑んだ。
「……そうか」
それだけ言って、ガレスは顔を伏せた。
「マルガレーテ……ありがとうな」
その声は、もう頑固な老兵のものではなかった。
「生きている間に、十分に感謝も恩返しもできんかった。すまん」
ガレスは涙でくしゃくしゃになった顔を、片手で乱暴に拭った。
「馬鹿は、わしの方だった」
「ガレスさん。差し出がましいかもしれませんが……」
アルトが静かに言う。
「あなたが毎日無事に家へ帰り、奥様の最期を看取られたことが、何よりの恩返しになったのではないでしょうか」
「いや……そんなことでは足りんのだ」
ガレスは即座に首を振った。
「足りるものか。礼も言わんかった。寒いと言われても、年寄りは寒がりで困るなどと笑った。薬を飲めと言われても、うるさいと怒鳴った。子どもができなかったことなどどうでもよいと、ちゃんと言ってやることもできなかった」
ガレスは、再び木札を一つ一つ見返した。
「こんなに祈ってくれていたのに、わしは何も返してやれんかった」
アルトは何も言えなかった。
やがて、ガレスがぽつりと呟いた。
「帰ろうか、マルガレーテ」
その声は、先ほどよりも少しだけ穏やかだった。
「わしらの家に」
二人は祈祷所を出て、馬車に戻った。
アルトは何も尋ねず、静かに手綱を鳴らす。
「アルトさん」
「はい」
「少し、遠回りしてもらえるか?」
「かしこまりました」
「帰りは、二人で思い出の場所を見て回りたい」
アルトは一度だけ頷いた。
辻馬車は、薄闇の王都をゆっくりと走っていく。
ガレスが、マルガレーテとの思い出を、もう一度辿れるように。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
もし少しでも「面白かった」と思っていただけたら、
①ブクマ登録 ②★評価 ③一言感想
のいずれか一つでもいただけると、めちゃくちゃ励みになります。
この短編は、「【連載版】婚約破棄された公爵令嬢が「どこにも行かず、ただ走らせて」と言ったので、辻馬車は夜の王都を走り続ける」の一つのエピソードに大幅に加筆して短編化したものです。よろしければこちらも覗いてみていただければと思います。
https://ncode.syosetu.com/n2996me/
改めて、ありがとうございました。




