盲る小鳥は垂直の夢を見る
薄暗い部屋の天井のシミを数える。昨日と同じ数。私の毎日と同じ、変化のない汚点。
重い身体を引きずって台所に向かう。ステンレスの流し台には、昨夜の残骸が放置されていた。
二つのコップ。片方の縁には、毒々しいほど鮮やかな赤の口紅が歪にこびりつき、底には琥珀色の液体が数ミリ残っている。安っぽいウイスキーと、母の匂い。もう片方には、私が飲んだ水道水がぬるくなって淀んでいた。 洗うタイミングを逃した、いつもの光景だ。この母と私だけの、狭いアパートの生活を象徴するような、怠惰と諦念の静物画。
私の母は水商売をしている。夜の街で愛想と身体をすり減らし、朝の光から逃げるように眠る。彼女の情緒はジェットコースターのように不安定で、機嫌は日替わりのランチメニューのようだった。
今日は、泥のように眠っている。アルコールの臭気が漂う寝室のドアを少しだけ開け、布団の盛り上がりを確認する。生きているのか死んでいるのか分からないほど深い呼吸。
それだけで、胸の奥に詰まっていた鉛が、ほんの少しだけ軽くなる。今日は、罵声を浴びなくて済む。
冷えたトーストを齧り、制服に袖を通す。
「行ってきます」
玄関でそう声をかけても、返事はない。それでも言うのが、この家の歪なルールだった。
息苦しい家を出ても、気分は晴れない。なぜなら、学校でも気は抜けないからだ。
学校という名の巨大な水槽の中で、私は目立たない魚として生きている。完全に透明なわけではない。誰かが困っていれば声をかけ、空気が張りつめれば道化のように笑ってみせる。面倒な頼まれごとは、嫌な顔ひとつせずに引き受ける。
そうやって「都合のいい人間」を演じていると、自然と周囲から人は離れていく。輪の外に立っているつもりはないのに、私の居場所はいつも、中心から微妙にずれた、温度のない場所だった。嫌われているわけではないが、「仲間」もいない。
昼休み。喧騒から逃げるように図書室の窓辺に立ち、校庭を眺める。楽しそうに笑い合う生徒たち。彼らと私の間には、決して越えられない分厚いガラスがあるようだった。
ふと、思う。 私が明日、忽然と姿を消したとしても、一体何人のクラスメイトが気づくのだろう?
きっと、誰も困らないし、誰も泣かない。 私はその程度の存在。その考えが脳裏をかすめるたび、胸の奥が軋むような音を立てる。
けれど、それを「悲しい」とは呼ばないことにしていた。名前を付けたところで、どうにもならない感情だから。
夜。 母が出勤し、鍵のかかる音が響いて初めて、私は息ができる。狭いアパートのベランダに出る。錆びついた手すりに指をかけ、冷たい金属の感触を確かめる。イヤホンを耳に押し込み、外界の音を遮断する。
眼下に広がる街の灯りが、ミニチュアの模型みたいに遠く、非現実的に見えた。行き交う車のヘッドライト、ビルから漏れる光、誰かの笑い声。それら全てが、私とは関係のない、遠い異国の出来事のようだった。
毎晩、私は意味もなくここに立って夜の街を見下ろす。なんだか、小さな世界を眺めていると、私の感情を忘れられそうだったから。
ーーまぁ、できなかったけど。
私が自分に嘲笑した、その時。音楽の隙間を縫って、バサリ、と大きな羽音が空気を叩いた。
錯覚だと思った。疲れているのだと。
けれど次の瞬間、視界の端に「異物」が映り込み、私は息を呑んだ。
手すりの向こう側。本来なら何もないはずの空中に、男が立っていた。
月光を浴びてプラチナのように輝く銀髪。その背中には、見る者を圧倒するほど巨大な、純白の翼が広がっている。 整った顔立ちに、知的な印象を与える細縁の眼鏡。その姿は、絵本に出てくる天使そのものだった。
だが、何かがおかしい。現実感がないのに、輪郭だけが異様にはっきりとしていて、この汚れた街の風景から浮き上がっている。そして何より、眼鏡の奥から私を見つめるその瞳は、血のように赤かった。
頭上で輝く光の輪は、月と同じ色で、優しく輝いていた。
「こんばんは。はじめまして、毛並みの綺麗なお嬢さん」
外見年齢は二十代前半くらいの、その天使のような男が口を開いた。鼓膜を直接撫でるような、低く、甘やかな声だった。
「あなた……誰?」
現実逃避した頭が、そんな間抜けな問いを口にした。
「んー、僕は……。通りすがりの天使、かなぁ?」
男は首を少し傾げ、曖昧に微笑んだ。否定も肯定もしない、煙のような答え方に腹が立った。
「……私の幻覚?」
「どうだろう?でも、君がそう言うなら、きっとそうなんだろうね」
「そう。なら、消えて」
「わかった」
彼は素直に頷いた。けれど、その場から動こうとはしない。重力を無視して、ふわりと浮いたまま、ただ私を見つめている。
沈黙が落ちた。 奇妙なことに、気まずさはなかった。彼の纏う空気が、夜の静寂よりもさらに深く、静謐だったからかもしれない。 眼鏡の奥の赤い瞳が、一瞬だけ、獲物を見定めた獣のように鋭く光った気がしたけれど、その光はすぐに夜の闇に溶け、穏やかな笑みに隠された。
「ねぇ。また、来てもいい?ここに」
私はなぜか、即答できなかった。ただ「嫌だ」と断ればいいのに。
ーー今思えば、私はこの時既に、彼の美しさの虜になっていたのかもしれない。
「……好きに、すれば」
「わかった」
彼は次の瞬間、強い疾風を残して消えた。私はその夜、寒さを忘れて、しばらくベランダから戻ることができなかった。
✦︎✧︎✦︎✧︎
次の夜も、彼は来た。そしてその次の夜も。
私がベランダに出ると、まるで待ち構えていたかのように、彼は音もなく舞い降りてくる。
「こんばんは。今日は、月が綺麗だね」
「……また来たんだ?」
「あれ、来ちゃだめだった?」
彼がそう言って小首を傾げる姿はゾッとするほど、無邪気だ。
「ダメでは……ないけど」
はっきりと言い切れない自分に、少し戸惑う。彼が来るのを、心のどこかで期待していた自分をごまかすように、私は視線を逸らした。
彼は、何も聞かない。私が何者で、なぜこんな時間に一人でいるのか。 ただ、手すりの向こう側に立ち、私と同じ景色を眺める。
会話も‥‥。
「今日は、どうだった?」
「……普通」
「そっか」
これだけ。
深く掘り下げようともしないし、気の利いた慰めの言葉も言わない。 その、適度な無関心と距離感が、私には不思議と心地よかった。人間関係の煩わしさから解放された、宇宙のような場所だったから。
少しずつ、私は彼に口を開くようになった。学校でのこと。空気を読んで笑うことの疲れ。家でのこと。母のヒステリーと、腐った果実のような部屋の匂い。
感情を極力排して、起きた出来事だけを淡々と並べる。まるで他人の報告書を読み上げるように。
彼は静かに聞いていた。時折頷き、「そうなんだ」「大変だね」と短い相槌を打つだけ。彼の声には温度がなかった。同情も、憐憫も、軽蔑もない。ただ、事実を事実として受け止めるだけの、透明な器のような反応。それだけなのに、一人で抱え込んでいた泥のような感情が、少しずつ掬い取られていくような気がした。彼と話していると、長くて重苦しい夜が、少しだけ早く過ぎるようになった。
ある夜、私は不意に尋ねた。
「……あなた、私の名前を聞かないね」
彼は少し驚いたように目を見開くと、すぐに細めて、甘やかに微笑み、私の顔を覗き込む。
「聞いて欲しい?」
「……別に、どっちでもいい」
私の子供っぽい強がりを、彼は少し嬉しそうに見つめる。
「名前教えてよ。君の名前」
柵の向こうで隣に立つ彼に、私はそっと名乗った。
「詩織。鳥井 詩織だよ」
「詩織……。素敵な名前だね」
彼が確かめるように、ゆっくりと私の名を口にした。その低く甘い響きが、耳から入り込んで全身を痺れさせる。
ただ名前を呼ばれただけなのに。それなのに、まるで特別な呪文をかけられたように、心臓が奪われたように、身体が熱くなった。
この、名前も知らない美しい「何か」がいない夜は、以前よりもずっと寒く感じるようになっていた。 そう思い始めている自分に、私はまだ気づかないふりをしていた。
✦︎✧︎✦︎✧︎
彼が来て数十日が経った頃。連日の睡眠不足と、母との諍いで消耗しきっていたある夜。
私はベランダの冷たいコンクリートに座り込んだまま、うとうとしてしまっていた。
「詩織。ここで寝たら、風邪をひいてしまうよ」
呆れたような、けれどどこか楽しげな声が降ってきた。 私が頑張って、重いまぶたを持ち上げようとした次の瞬間。
バサッ、と視界が白に覆われた。
彼が、その巨大な翼で私を包み込んだのだ。 抱きしめられているわけではない。ただ、羽で外界から遮断されただけ。それなのに、驚くほど温かかった。羽毛の一本一本が、冷え切った私の身体から熱を奪うのではなく、与えてくれるようだった。
その温もりに触れた途端、張り詰めていた糸がプツンと切れた。 身体の奥底から力が抜け、代わりに熱い塊が喉までせり上がってくる。
涙が落ちた。
一度溢れ出すと、もう止められなかった。声も出さず、ただひたすらに、目から水が溢れてくる。
自分が泣いているという自覚すらなかった。ただ、壊れた蛇口のように、溜め込んでいた感情が流れ出ていく。 惨めさも、寂しさも、怒りも、全てが涙となって溶けていく。
彼は何も言わない。気づいていない訳ではないと思う。
でも、「大丈夫?」とも「泣かないで」とも言わない。 ただ、翼を解くことなく、私をその白い繭の中に閉じ込めてくれていた。
外界の音は消え、聞こえるのは自分の嗚咽と、彼の微かな衣擦れの音だけ。
私はその日、安息地を知った。誰にも邪魔されず、誰にも気を使わず、ただ弱いままでいられる場所を。
この夜を境に、私は明確に彼を求めるようになった。ベランダに出て、 彼が来るのを待つ時間は、祈りの時間にも似ていた。
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「ねぇ、明日さ。一緒に学校に行ってくれない?」
ある夜、私はつい、彼にそう言ってしまった。
私たちは、いつも夜の少ない時間でしか話したことがなかった。
でも、最近は彼と離れている昼間の時間が、耐え難いほど退屈で、空虚に感じられるようになっていた。だから、つい誘ってしまった。
私が言うと、彼は少しだけ間を置いた。赤い瞳が、まつ毛を伏せながら細められる。
「いいの?行っても」
その言い方が、妙に胸に残った。許可を求めているようで、どこか試しているような響き。
でも、そこまで気にはならなかった。
「うん。誰も、あなたのことは見えないんでしょう?」
「そうだね。君以外には」
「……なら、会いたい」
彼は嬉しそうに、目を細めて微笑んだ。
「いいよ。会おうか、詩織」
翌日、彼は本当に学校に現れた。
通学路の電柱の影に。教室の窓の外に。昼休みの屋上のフェンスの上に。
白スーツの天使という異様な姿の彼が、日常の風景の中に当たり前のように溶け込んでいる。すれ違う生徒たちは誰一人として彼に気づかない。
私だけが知っている秘密。私だけの天使。
授業中、ふと窓の外を見ると、彼が宙に浮いたまま、頬杖をついてこちらを見ていた。目が合うと、眼鏡の奥で楽しそうにウィンクしてみせる。 私は思わず吹き出しそうになり、慌てて教科書で顔を隠した。
(あぁ……楽しいな)
苦手な体育の授業も、ひとりぼっちのお昼休みも、移動教室の廊下も、全部が楽しい!
彼がいるだけで、辛い学校が、とても幸せな場所に変わってしまった。私は昨日までが嘘みたいに、周りを気にせず、笑顔を綻ばせられた。
「ねぇ。私、普通に見える?」
放課後、誰もいない教室で彼に尋ねた。
「うん。楽しそうだよ。初めて会った時より、ずっと生き生きとしている」
彼は満足げに頷いた。その言葉だけで、私は十分に幸福だった。
クラスメイトの何気ない会話も、教師の退屈な説教も、彼が隣にいるだけで、どこか他人事のように思えてくる。世界と私の間に、彼という最強のフィルターがかかったようだった。
けれど同時に、私は恐怖も感じ始めていた。 この幸福が、この全能感が、すべて彼という存在に依存しているという事実に。
‥‥もし彼がいなくなったら、私は以前のモノクロの世界に戻れるだろうか。いや、きっともう無理だ。一度知ってしまった甘い毒は、私の精神を確実に蝕んでいた。
私は、もう薄々分かっていた。
私は、狂いそうなほど、彼に恋して、依存している。それこそ、死ぬほど。
✦︎✧︎✦︎✧︎
また、数ヶ月後。
その日、家に帰ると、珍しく母が起きていた。
食卓には空になったビールの缶が転がり、部屋の空気は今までになく淀んでいた。母の目は据わっていて、焦点が定まっていない。
「……あんたさ、最近、楽しそうだね」
「そうかな。普通、だけど」
「正直に言うとさ……」
絡みつくような声。嫌な予感が背筋を駆け上がる。私は自室に逃げ込もうとしたが、その前に母の言葉がナイフのように飛んできた。
「あんたさえいなければ、私は楽だったのに」
時が止まった。
今まで、どんなに罵倒されても、物を投げつけられても、心のどこかで「酔っているからだ」と言い聞かせてきた。
片親で、夜職をしながら私を育ててくれた。優しい母だから。そんな母を、私は愛していたから。
けれど、その一言は違った。私自身でも、フォローできない。
私という存在が、彼女の人生の足枷だったのだろうか。
それは、そうだが、私なりに、家事を担ったり、母のメンタルを安定させたり、バイトをしたり、微力ながら支えてきたつもりだった。
でも、母には邪魔だったらしい。
すべてが腑に落ちた。ストン、と胸の中の何かが死んだ音がした。 ああ、そうか。私は、いらなかったんだ。
涙は出なかった。悲しみよりも先に、奇妙な納得感があった。 私は無言で踵を返し、家を出た。母が何か叫んでいたが、もう耳には届かなかった。
足が勝手に動いていた。行き着いた先は、学校の屋上だった。 夜の学校は、昼間とは違う顔をしている。静まり返った校舎は巨大な墓標のようで、屋上への階段は冥府への入り口みたいだった。
錆びついたドアを押し開ける。 フェンスの向こうには、見慣れた街の灯りが広がっていた。けれど今夜は、その光がひどく冷たく、私を拒絶しているように見えた。
私はフェンスに足をかけた。金網がギシギシと悲鳴を上げる。 頂上に立ち、下を見下ろす。コンクリートの地面が、はるか遠くの暗闇に沈んでいる。
「……来て。お願い」
強い風にかき消されそうになりながらも、強く願った。
「お願い、来て!」
あぁ、私もなりたくないと思っていた母と似ているな、なんて考えていた、その時。
「ここにいるよ、詩織」
いつの間にか、彼が隣に立っていた。いつも通りの涼しい顔で、私と同じ闇を見つめている。
いつもと違うのは、今日は私も柵の外にいる所。
「高くて、怖い?」
風が彼の羽と髪を揺らす。今日は月があまり出てないからか、彼の光の輪はあまり輝いていない。
「うん。怖い、怖いよ」
「そっか。確かに、この高さは怖いよね」
そう言っても、彼は私を否定しない。
「やめなよ」とも「早まるな」とも言わない。 ただ、私の恐怖を、怖いまま肯定してくれる。
私は彼の方を向いた。今夜の彼は、これまでで一番美しく、そして残酷に見えた。
「……ねぇ」
私は震える手を伸ばして、彼の純白のスーツの袖を掴んだ。声が震えていて、何故か涙が溢れ出す。
「あなたのいるところに、連れてって」
もう、ここにはいたくない。世界が私を必要としないだけじゃなく、唯一の家族から、邪魔と思われていた。もう、もう、他の誰かに疎まれる前に、消えてしまいたい。この世から、消えてしまいたい。
死んで、もう、誰にも迷惑をかけたくない。
‥‥でも、彼だけが、私を見てくれた。彼だけが、私のそばにいてくれた。だから、身勝手だと分かっていても、私は彼にお願いをしていた。
彼は、私の願いに答えなかった。
代わりに、今までで一番強く、私を抱きしめた。
その腕の力強さに、私は微かな痛みを覚えた。けれど、それが心地よかった。彼の実在を証明する痛み。
彼の大きな翼が広がり、風をはらむ音がした。
「いいよ、詩織」
耳元で囁かれた声は、甘い毒薬のように私の思考を溶かした。
「君が望むなら」
彼が私の身体を支えたまま、一歩、前へ踏み出す。 足裏から、確かな感触が消えた。
世界が反転する。重力が牙を剥き、私たちを地面へと引きずり下ろす。風が轟音となって耳元を通り過ぎていく。
怖い。心臓が破裂しそうだ。
でも、独りじゃない。
この温かい腕の中なら、彼の柔らかい羽に包まれているなら、どんな終わり方でも構わない。
私は、安堵と共に目を閉じて、彼の胸元に顔を埋めた。
しあわせ。
涙が一粒、ふわりと流れた。
「愛してる……天使さん」
✦︎✧︎✦︎✧︎
重力に引かれ、二つの影が夜の底へと加速する。 風が轟音を立てて二人の間を切り裂こうとするが、男の腕は鋼鉄の枷のように、詩織の華奢な体を絶対に離そうとはしなかった。
落ちている最中。
男の背を覆っていた純白が、見るも無残に穢れ始めた。 月の光を反射していた美しい翼は、根元からどす黒い闇に侵食されていく。優美な羽毛は腐った肉のようにボロボロと剥がれ落ち、夜風に散った。代わりに現れたのは、血管が浮き出し、赤黒い皮膜が張った、蝙蝠のような異形の翼だった。
プラチナのように輝いていた髪は、コールタールのような粘着質な漆黒に染まる。光の輪は砕け散り、額の皮膚を内側から突き破り、禍々しい角が二本、捻じれながら伸びていく。
瞳は血の池のように昏い赤色でギラギラと輝き出した。
もはやそこに、詩織が愛した天使の面影はない。
そこにいたのは、悪魔だった。
しかし、腕の中の詩織は、その劇的な変貌に気づかない。目を堅く閉ざし、彼の胸に顔を埋めたままだ。
彼女は安堵しきったように頬を擦り寄せる。 迫りくる死の恐怖の中で、彼女は夢見るように微笑んだ。そして、風の音にかき消されそうな、けれど幸福に満ちた声で囁いた。
「愛してる……天使さん」
ーーアァ、詩織。僕の可愛い詩織。
愛しい、愛しい、僕だけの花嫁。
君はなんて残酷で、なんて可愛いことを言うんだろう。今、君が全身で信頼し、縋り付いてる天使は、君を騙し、光の世界から奪い去ろうとしている悪魔なのに。
愛してるだなんて、胸が甘く痺れておかしくなっちゃいそう。やっと言ってくれたね。ずっと待ってたんだ。
騙しちゃってたけど、でも君は僕を求めてくれたもんね?
ごめんね、君が恋をしたのは、僕が作り出した幻影。でも、君を思う気持ちは紛れもない本物だ。この醜い姿の奥底で、君のためだけに、無い心臓が脈打っているんだよ?
あぁ、天使のフリをするのはくたびれたよ。嘘でも神の話をするのはだるいし、天使達の真似をするのも吐き気がする。
でもやって良かった。おかげで僕は、君のこんなにも幸せそうな寝顔を見ることができた。
君が僕に向けてくれた信頼も、笑顔も、そして最期に溢してくれた『愛してる』も僕の宝物。もちろん、君自身も。
誰にも、神にだって渡さない、大事な宝物。
もうすぐ地面だね。怖いかい?抱きしめる力が強くなっている。でも、大丈夫だよ。
僕が先に堕ちて、君を受け止める。君の魂が肉体から解き放たれるその瞬間を、僕が一番近くで見届けてあげる。
これは終わりじゃないよ、始まりなんだよ。詩織。
僕たちは今から、光のない世界へ行くんだ。そこでは、誰も僕たちの邪魔をしない。
君が寂しくないように、僕がずっと抱きしめていてあげる。君が望むなら、何千回でも、何万回でも、君への愛を囁いてあげる。
いつか君が、あの闇の中で目を覚まして、僕の真実の姿を知ったとしても。君はきっと、嫌わないで愛してくれるよね?
もちろん、僕は君を離さないけれど。君が僕の本当の名前を呼んで、この醜い角や翼さえも愛してくれるその日まで、僕は永遠に待ち続けるから。
楽しみだね、詩織。
僕の可愛い、可愛い、花嫁さん。
僕は、溢れ出す愛しさに理性を焼き尽くされそうになりながら、腕の中の大切な存在を、骨が軋むほど抱きしめた。
「地獄は、意外と暖かいんだよ。詩織」
二つの影が、コンクリートの闇に吸い込まれて消えた。
後には、ただ甘やかな錆の匂いを混ぜた夜風が、2人の門出を祝うように静かに吹き抜けて行った。
ぐちゃり。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。最後はちょっと切ないけど、ハッピーエンド(?)な、不思議な愛のお話でした。
ちょこっと伏線回収。
実はこの作品は、ところどころに『対比』や『伏線らしきもの』を散りばめています。
まずはタイトル『盲る小鳥は垂直の楽園を夢見る』。
タイトルにある『盲る』は、詩織が現実の辛さから目を逸らしていたことだけじゃなく、最後、悪魔の正体に気付かずに目を閉じて死んでいく姿を指しています。
そして『垂直の楽園』。普通、天国(楽園)は上にあるもの。でも、彼女にとっての唯一の救いは、彼と一緒に『下』へ堕ちていくその瞬間だった。
ちょっと皮肉をこめて、つけたタイトルです。
詩織の名前は『栞』から取りました。悪魔である彼が、彼女がもう汚されないように、誰かに読み進められないように、栞をして本を閉じてしまった…。そんなイメージでつけました。
鳥井は『鳥居』から。彼女がキリスト教徒ではなく、あまり天使像に詳しくないのを表したいな、と思ってつけました。あとは『鳥を射る』みたいな、意味合いも持たせてますね。
悪魔が扮していた天使は、かなり聖書の天使と真反対の、どちらかと言うと無宗教の我々の感覚に近い天使像を反映しています。
例えば聖書の天使はめちゃめちゃ恐ろしい姿をしていて、基本的に人間に友好的ではないです。でも、この作品の悪魔が扮した天使は、純粋で優しく、穏やか。
他にも見た目やら何やら、色々真反対にはしているけれど、特に対比させたのは、死にたいと願う詩織への対応。
普通の天使なら『生きて、前を向きなさい』と言うんです。聖書では自死は、地獄行きの行為ですから。でも、それは絶望の淵に立つ詩織には、とっても残酷で、高いハードルだったかもしれない。
対して悪魔である彼は、彼女に努力も成長も求めない。ただ「怖いままでいい」「そのまま一緒に堕ちよう」と、彼女の弱さを丸ごと肯定して、背中を押した。
「正しいけれど遠い光」よりも、「間違ってるけれど、隣にいてくれる温かい誘惑」を選択した2人の関係性が、この物語の核となっているんです。
この話を書いたのは、救い方は一つじゃないこと。それから、その救い方は間違ってるように見えるけど正しかったりもすることを伝えたかったからです。
嘘の上に成り立ってても、向かうのが地獄でも、詩織が感じた「幸せ」は、きっと本物だから。
あと、かっこいいメガネをかけたメロい悪魔のお兄さんを書きたかったからです。楽しかったです。
以上、あとがきでした。
詩織と、彼女を愛してしまった悪魔が、奈落の底で愛し合っていますように。




