「それぞれの務め」前編
訓練場に響く木剣の音が、朝靄の中で冷たく反響していた。
「遅い!」
ガルドス・オーレンバーグの一撃が、ジョルディアスの木剣を弾き飛ばした。少年の手が痺れ、膝が石畳につく。
「立て。まだ終わりではない」
父の声に感情はない。昨夜、侍従長オルドリックから報告を受けた後、ガルドスはただ一言「明朝、訓練場に来い」とだけ告げた。
ジョルディアスは震える足で立ち上がり、落ちた木剣を拾う。手のひらには既に水ぶくれができていた。
「構えろ」
再び、容赦のない一撃が襲いかかる。受け止めようとするが、力の差は歴然だった。木剣が再び宙を舞い、ジョルディアスは背中から地面に叩きつけられた。
「……っ」
息が、できない。肺から空気が抜けて、しばらく動けなかった。
「立て」
「は、い……」
必死に立ち上がろうとするが、足が震えて力が入らない。視界が揺れる。
その時、ガルドスの大きな手が、ジョルディアスの襟首を掴んで引き起こした。
「よく聞け、ジョルディアス」
父の顔が、至近距離にあった。普段は温厚な父の目が、今は氷のように冷たい。
「お前は昨日、何をした?」
「……街に」
「王女殿下を、護衛もつけず、正体を隠して街中を連れ回した。違うか?」
「はい」
「もし、誘拐犯に狙われていたら? もし、殿下が怪我をされていたら? もし、反王政派の者に気づかれていたら?」
一つ一つの「もし」が、ジョルディアスの胸に突き刺さる。
「考えたか?」
「……いいえ」
「なぜだ」
「楽しくて……つい」
ガルドスの目が、さらに鋭くなった。
「『楽しくて』?」
襟首から手を離すと、ガルドスはゆっくりと背を向けた。
「ジョルディアス。お前に問う。護衛とは何だ」
「……王家を、お守りすること、です」
「それだけか」
ジョルディアスは言葉に詰まった。
「護衛とは、影になることだ」
ガルドスが振り返る。
「光の中を歩く方々の、影になる。危険を察知し、脅威を排除し、そして決して前に出ない。それが我らオーレンバーグの家訓だ」
「はい」
「では問う。お前は昨日、影だったか?」
「……いいえ」
「何だった」
ジョルディアスは唇を噛んだ。言葉が出てこない。
「友達か?」
その言葉に、少年の心が揺れた。
「アイリス様は、僕を友達だと……」
「王女殿下に、友達などいない」
ガルドスの言葉が、冷たく響いた。
「側近はいる。侍従はいる。護衛もいる。だが、対等な『友達』はいない。それが王族の定めだ」
「でも……!」
「でも、ではない」
ガルドスは再び木剣を構えた。
「お前が殿下を『友達』だと思った瞬間、お前は護衛としての役目を忘れる。昨日がその証だ。……構えろ」
ジョルディアスは震える手で木剣を拾い、構えた。
「護衛は、守る者を愛してはならない。慕ってはならない。対等だと思ってはならない。常に一歩引き、常に周囲を警戒し、常に最悪を想定する。それができないなら、護衛の資格はない」
木剣が再び襲いかかる。
今度は、ジョルディアスも必死に受け止めた。だが、力の差は変わらない。
打ち合いが続く。一撃、二撃、三撃。
「昨日、お前は殿下と手を繋いで歩いたそうだな」
四撃目。
「露店で一緒に笑ったそうだな」
五撃目。
「パンを半分こして食べたそうだな」
六撃目で、再び木剣が弾き飛ばされた。
ジョルディアスは膝をついたまま、俯いた。涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。
「……父上は、陛下をお守りするだけで満足なのですか?」
その問いに、ガルドスの動きが止まった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ガルドスは木剣を置き、ジョルディアスの前にしゃがみ込んだ。
「……それ以上は、望まん」
その声は、いつもの優しい父の声だった。
「殿下が笑顔でいらっしゃるのを見ると、私も嬉しい。殿下が無事に一日を過ごされると、ほっとする。陛下がご壮健であられることが、私の誇りだ。……それが、護衛の喜びであり、それ以上は望まん」
ガルドスは息子の頭に、大きな手を置いた。
「だが、ジョルディアス。その喜びは、『友達』としての喜びではない。『護衛』としての喜びだ。その違いを、お前は学ばねばならない」
「……違い、ですか」
「ああ。友達なら、一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に危険に飛び込むこともあるだろう。だが護衛は違う。護衛は、守る者が笑っている時も冷静に周囲を警戒し、守る者が泣いている時も動揺せず対処し、守る者を危険に近づけないために、自分が盾になる」
ガルドスは立ち上がった。
「お前は、殿下の笑顔を見て、周囲を警戒することを忘れた。それが、昨日の過ちだ」
ジョルディアスは、商人たちの不穏な会話を思い出した。あの時、自分は確かに気づいていた。北の脅威を。けれど、アイリスの笑顔に気を取られ、深く考えることをしなかった。
「立て。訓練を続ける」
ジョルディアスは立ち上がった。体は痛かったが、心はもっと痛かった。
けれど、父の言葉の意味が、少しずつ理解できる気がした。
昼近く、ようやく訓練が終わった。
全身が痛み、足はもう棒のようだった。それでも、ジョルディアスは背筋を伸ばして立っていた。
「今日はここまでだ。午後は休め」
「はい」
踵を返そうとするガルドスに、ジョルディアスが声をかけた。
「父様」
「なんだ」
「……北の、ヴァルツ帝国のこと。教えてください」
ガルドスの背中が、わずかに強張った。
振り返った父の顔は、再び厳しいものになっていた。
「なぜ知っている」
「昨日、バザーで商人たちが話しているのを聞きました。国境が封鎖されたと。帝国が南下を始めたと」
「……そうか」
ガルドスは深く息を吐いた。
「ならば、話そう。お前も、いずれ知ることになる」
二人は訓練場の端にある石段に腰を下ろした。
「ヴァルツ帝国は、我が国の北方、永久凍土の広がる極寒の地にある。鉄と魔導技術に優れ、代々の皇帝は『火と鉄の神』を信奉してきた」
「火と鉄の……神」
「ああ。戦いを司る神だ。そして今の皇帝、ヴァルディガル・エイゼルハルトは、歴代でも最も野心的で、最も危険な男だと言われている」
「どんな人なんですか」
「会ったことはない。だが、噂では若く、冷酷で、軍を掌握する天才だという。先代の皇帝が病で倒れた時、彼はわずか二十歳で即位し、反対派を一掃し、軍制改革を断行した」
ガルドスの声が低くなる。
「そして今、彼は南を見ている。我らの肥沃な土地を、豊かな街を、この温暖な気候を。極北の寒さに耐えてきた帝国にとって、この中原は楽園に見えるのだろう」
「戦争に、なるんですか」
「……わからない」
ガルドスは空を見上げた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。
「陛下は使節団を送り、平和的解決を模索しておられる。今日の午後、教皇猊下との会談もその一環だ。教皇の仲裁があれば、帝国も無理な要求はできないはず、という期待がある」
「でも?」
「……だが、相手は『火と鉄の神』を信じる国だ。我らの神とは異なる。交渉が成立するかは、わからない」
ジョルディアスは、昨日見た黒いカラスの群れを思い出した。
「もし、戦争になったら」
「王宮の護衛は、最後の砦だ。我々は城を、そして王家を守る。それが我らの務めだ」
「アイリス様も、守るんですよね」
「当然だ」
ガルドスはジョルディアスの肩に手を置いた。
「だからこそ、お前は強くならねばならない。今はまだ子供だが、いずれ本物の騎士になる日が来る。その時、お前が守るべき方を守れるように、今から学び、鍛えるんだ」
「はい」
「……昨日のことは、侍従長も、陛下も、殿下も、誰も咎めていない。むしろ、殿下が久しぶりに心から笑っておられたと、皆喜んでいた」
ジョルディアスは驚いて父を見た。
「だが、それとこれとは別だ。お前は護衛見習いとして、学ぶべきことを学ばねばならない。……わかるな?」
「はい」
「よし。午後は休め。明日からまた訓練だ」
ガルドスは立ち上がり、去っていった。
一人残されたジョルディアスは、痛む体を引きずりながら、自室へと向かった。
窓から見える空は、どこまでも青く、平和だった。
けれど、その青空の向こう、遥か北の彼方には、黒い雲が湧き上がり始めているのかもしれない。
部屋に戻ると、ベッドの枕元に、小さな包みが置かれていた。
開けてみると、青いリボンが入っていた。そして、小さなメモ。
『ありがとう。また、一緒に行けたらいいな。——A』
ジョルディアスは、そのリボンを握りしめた。
(僕は、アイリス様の護衛だ。友達じゃない。……でも)
少年の心の中で、二つの想いがせめぎ合っていた。
窓の外から、鐘の音が聞こえてきた。
午後の会談が、始まる時刻だ。




