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疑念

作者: 橿原岩麿

 大いなる男の予感。この夜は俺に何かを与えようとしているに違いない。肌に触れる夜風が強い実感を伝えてくる。俺はついに運命までをも奪ったか。


 眼前は家から漏れ出る少々の火の明かりと月明かり。薄く見える一寸先。その連続。手を伸ばせど何物も掴まぬ。鈴虫が鳴き、腰の刀を大げさに揺らし、落葉がまばらに落ちる道をゆく。


 土と草履が擦れる、ザッザッという音以外、俺の耳には聞こえない。ただ、予感だけがあった。何か、形として、目に見えるものとして俺の手中に何かが収まる。俺はとてつもない財宝でも手に入れるような予感がしている。朝起きて異様なまでに気分がいい時のように、そう感じている。


 肌寒い。そうか、もう冬の時期であったな。さて、それならば、今宵は急用ができたな。誰かの着物を剥ぐことにしよう。盗人とは、盗むために行動しているのではない。そういうやつは現実に、興奮を熱狂を求めているだけだ。自らがその熱に飛び込む勇気もないくせに、血肉湧き踊るような日々を求めているのだ。飢えている精神的弱者である。本物の盗人とは、俺のように必要だから行うのだ。皆が物を買うときに金を払うように俺は奪うのだ。金はある。されど使わぬ。何故か。使わずとも目の前にあるではないか。


 貧困に苦しんで、家に残してきた家族のために、この震える手を少し伸ばして食べ物を盗んでしまったのです。そんなこと言う奴はとっとと働け。働いて買え。そんなことをする暇があるなら奴隷でも何でもして金を稼げ。


 俺は違う。ただ、目の前にあるものを胃の中に移したり、俺の体に着物を被せたりしているだけだ。金のために働くよりもまったくもってこちらの方が楽でいい。そういう自分の盗みを正当化して罪を減らしてもらおうなんて考えが甘いのさ。そのせいで俺の盗人の誇りがまた傷つく。勘弁してくれ。世間から誤解されちまうじゃないか。盗人は怠け者であり、悪人ではない。悪人はかわいそうなやつだ。


 さて、どんな着物を剥ぎ取ろうか。春を迎えられるような厚い、高価なのがいい。薄いものを着重ねると、閻魔の帳簿が厚くなっちまうからな。カッカッと乾いた笑いを夜に響かせた。


 こんな思ってもいないことを言うとは。人など皆地獄行きなのだから、俺たちは閻魔にしか会えないのさ。


 返ってくる音があった。俺は耳を澄ませ、目を凝らした。笛を吹いている。人だ。しかも厚い着物を着ているじゃないか。俺にはわかる。あれがありゃ今年の冬は安全だなぁ。のろのろと歩いていやがる。こいつはいい獲物だ。弱った鼠が蛇の前に来やがった。いや、鷲の前に蛇かな。こいつはいいや。俺に着物を与えようしているに違いない。そうかそうか、このことだったか予感は。俺の予感はやはり正しかった。全く運がいい。さぁ、剥いでやろう。


 闇夜の中、月明かりに朧に照らされた紫苑の指貫。月光に映える絹の狩衣。浮世の者らしからぬ身分を物語るその衣装。笛を吹いている男は、ゆったりゆったりと、進んでいるとは思われぬ速さで歩いていた。


 金を落としたことに気づかないぼんくらを見た時のような表情で、盗人は笛の男に襲い掛かろうとした。男めがけて走って殴ろうとしたその時、不思議な感情が盗人の胸に去来した。盗人は足を止めた。


 なぜこいつは振り向きさえしない。俺が走りくる音が聞こえないのか。変だ。何かが変だ。俺を捕まえようとしているのか。囮か。 周りに人の気配はない。俺とこいつだけだ。


 盗人はとぼとぼと笛の男に着いて行った。その道中、幾度か襲い掛かろうとわざと、大きな足音を立ててみたり、ぐっと近づいてみたりしたが、一切の反応がない。笛の男は盗人のことに気づいてすらいないようでもある。


 こんなことはありえないことだ。俺は化かされているのか。盗みは夜の仕事だ。いつか会うかもしれないとは思っていた。これが物の怪か。俺の聞いていたおどろおどろしい恰好とは全く違う。醜さなんてない。これはむしろその逆。だがしかしだ。ずっと付きまとってなんかいられない。地獄へ連れていかれちまう。ここでやるしかない。化物だろうと狂人だろうと殺してしまえば同じことだ。


 盗人は意を決して走り出して、腰の刀を引き抜いた。焦りと恐怖を断ち切って大きく振りかぶった。全身全霊の殺意とともに振り下ろそうとした。


 その時、笛の音は止まり、さらりと着物をはためかせて、笛の男が振り返った。


「お前は何者だ。」


盗賊は恐れおののいた。


「お、追剥でございます。」


「名を何と申す。」


「袴垂と、呼ばれております。」


 笛の男は狐に化かされたような顔をした。そして、すぐに穏やかで優しげな顔になった。


「そうか。君がそうなのか。その名は聞いたことがあるぞ。とってもわるいやつだろう。」


ほう、こんな顔なのかといわんばかりに笛の男は盗人の顔を覗き込んで、柔らかな笑みを浮かべて納得したような面持ちであった。


「一緒についていらっしゃい。」


 くるりと振り返って、また笛を吹き、歩き始めた。


 袴垂はひどく恐れた。もはや逃げることなどできまい。むしろ、今まで逃げ続けてきた何かが自分に追いついて首元に手をかけているような感じさえした。化物に違いない。死神が迎えに来たのだ。嘲笑っていたものに、自分の全てを壊されていく感覚であった。彼はもはや観念して、ふらふらとしながら、茫然としつつ笛の男について行った。


 暗闇の中を進んで、先の見えない囲いの中にある小さな門の前についた。袴垂ですら、強盗に入ったことのないこの町一番の大きな屋敷であった。笛の男は壁の一部分を押すと、隠し扉が開き、二人は難なく屋敷の中へと入った。


 誰もが寝息を立てて眠る中、袴垂は迷いなく進んでゆく笛の男に、もはや何も考えることもなく着いて行った。そして一つの部屋に通された。


 笛の男は袴垂に少し待つように言った。しばしの後。部屋に戻ってきた笛の男は部屋の奥の方に、割り座で座る袴垂に、一つの着物を差し出した。灯りに照らされたそれは、金糸銀糸が織り込まれた絢爛たる錦の着物に帯の添えられた、一目で高価とわかる一品であった。


「着物が欲しくなったら、いつでも私を訪れなさい。歩いている人にいきなり切りかかって盗んではいけないよ。」


 袴垂は膝頭をむしり取るような力で握りしめていた。笛の男は襖の空いた向こうに見える月の光に照らされていた。後光のようであった。優しさとして受け取るべきはずであるのに、この憐れみを、袴垂は彼の中にある言葉では形容しがたい違う何かであるように認識していた。目の前の光景を理解したうえで、何が基になっているのかはわからないが、彼の心は怒りに満ちていた。


「もう過ちを犯さなくていい。」


 袴垂は流れ落ちる涙を必死にこらえたけれども、こらえきれずに袖で拭った。どこでついたのかもわからぬ動物の毛が顔について、爪でえぐり取るように払った。眼前の笛の男の目には、初めて触れた温かみに感極まる大盗賊の姿に映っただろうか。


 こいつのいらないものを求めて俺は生きてきたのか。こいつが見ず知らぬ汚れた浮浪者にくれてやるごみも買えずに俺は生きてきたのか。俺だって必死にやってきたんだ。鈍くさい老人から金をむしり取って、恩義を裏切って、馬鹿ども従えて切り捨てて這い上がってきたんだ。その結果がこれか。いや、そんなもんじゃない。これを捨てられるを生活にすら届かなかったんだ。ここまでやって。こんなにもなって。俺のせいなのか。俺のせいだって言うのか。俺を憐れむな。こいつにはあっただけだ。こんなやつからも、俺は全部奪って生きてやる。こいつを上回って、俺のごみを食わせて生き永らえさせてやる。


 袴垂は乱暴に着物と帯を握りしめて、部屋を飛び出した。俺になかったわけじゃない。こいつに全部あっただけだ。俺は手に入れるんだ、と呟ぎながら、一心不乱に袴垂は走って走って、闇の中に消えていった。


 去り行く袴垂を保昌は追わなかった。闇の中に消えてゆく彼を見て、またいつか会えるだろうかと思いながら、その姿の見えなくなるまで見つめていた。はっと、思い出したように、保昌は笛を取り、袴垂のために奏で始めた。歌にならぬ笛の音が、夜に溶けてゆくばかりであった。

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