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第五話 これからはPEACELESS

 入学後の生徒の絆とやらを深めるということで、研修があるらしい。郊外の山とやらにいくとやら。2泊3日も何をするのか、さっぱり検討もつかないが、これ幸いに、もしくは不幸なことに、しおり日く4人班の中に愛無さんがいるとのことだ。これはチャンスか、それとも恥晒しか。まあ、出席番号が近いから先も近いし妥当な所なんだろうな。

 

AM8:00 バスの中


 人の体温とため息で飽和したバスの車内で、彼は息を潜めていた。およそ密事には不向きなこの人口密度の中では、隠しカメラの存在は発覚した際のリスクが高すぎる。それはナップザックの底に鎮められ、今は彼の両手から離れていた。今のところ、その機械の眼は必要ない。それよりも、内ポケットに忍ばせた盗聴器を阻害しかねない、耳障りなバスの駆動音の方が彼の神経をささくれ立たせた。何かが起きると期待しているわけではない。ただ、白日の下に晒されるべき他人の罪を暴かねばならぬという、強迫観念にも似た信念だけが、彼をこの必要悪という役割に縛り付けていた。罪悪感を飼い慣らし、彼は探偵を気取った。公権力への道はとうに断たれ、もはや自らの手で裁きを下す他なかった。


 だが今日は勝手が違っていた。ただの正義感でない私情が紛れていた。


「愛無さんは、曲とか聴いたりする?」


 彼の思考の限りで、それは最も自然な探りであり、関係性開始の初手である。目の前の少女、愛無が、彼の憎悪する歌手「LOPE」であり、なおかつ巷で噂されるような奔放な女であったなら――その醜聞は、彼の正義感にとって格好の餌食となるだろう。だが、彼はその妄想を否定する根拠が欲しかった。それは身勝手な一目惚れのなせる業であった。そんな下卑た幼い発想が脳裏をよぎり、すぐに彼はそれを打ち消した。これは決して愉しむべきことではないのだと。


「あんまり聴かないかなー」


 その一言で、彼の描いた次の手が白紙になった。まるで風船が破裂するように、緻密に組み立てたつもりの計画が霧散する。抑揚のないその返答は、これ以上踏み込むなという無言の圧力のように彼の耳に届いた。些か被害妄想ぎみだが、ここで退くわけにはいかない。会話の主導権を奪い返し、真実の淵を覗き込まねばならなかった。そして、愛無在音が知りたかった。愛無在音が欲しかった。


「じゃあ、LOPEの曲聴いてみれば?きれいで透き通った歌声よ」


 常日頃、匿名の仮面を被ってネットの海で叩きつけている屈折した憎悪の言葉とは真逆の台詞を、彼は口にした。どこかの狂信者、かつての自分達が書き連ねていた賛辞を借りてきて、ありきたりなファンを装う。かつてのファンであることが幸いし、彼の自尊心が軋みを上げたが、今はそれも甘受するしかなかった。


「LOPE、聴いたことあるけど、私は嫌いだな。選民的な歌詞で、いかにも私はお前とは違うんだって魅せつけてるみたいで。この世の真理を我が物顔で語ってるくせに、それを認めきれてない半端者の歌い方に聴こえるな。この世の真理に泣かされる側の普通の人間、等身大の高校生なのに、平気な顔して、嘘ついてるよね、たぶん。猫を被らずに本音で語ってほしいな」


 それは、一部のオタクじみた人間がみせる早口の饒舌さとは全く異質のものだった。LOPEと瓜二つの声でありながら、何の起伏も感情も乗らない平坦な口調。淀みなく、まるで何かに憑かれたように、あるいは定められた念仏をただ唱えるかのように、彼女は罵倒の言葉を紡いだ。すべてを吐き出し終えると、ふっと何かが抜け落ちたように俯く。その姿に、彼は上っ面だけの懺悔を口にした。


「そうか、悪かったな」


「いえいえ」


 確信が冷たく彼の内で固まった。愛無さんはLOPEだ。反骨心を煽るLOPEの歌詞。虚無的で全てを諦観しているようでいて、それでいて奇妙に明るく儚いLOPEの曲調。それは、今目の前でこの世を斜に構えて見ているような少女の雰囲気と、不気味なほどに一致する。彼女が当人であるならば、あの的確すぎる自己分析にも説明がついた。この事実をネットの海に投下すれば、飢えたピラニアの群れは一斉に彼女に襲いかかるだろう。だがその事実は無我にとって1つの悲劇を見事に演出していた。


 無我はピクリとも動かず、静止した。


 散々ネットで中傷しておきながら、今更現実世界で勝手に惚れて。どんな顔をすればいいか無我には判らなかった。


PM6:00 浴槽


 バスでの盗聴以外に、彼の求める「素材」は碌に見つからなかった。そして今、舞台は旅館の温泉へと移っている。数えるほどしか話したことのない同級生の男たちが、一つの湯船に裸で集う。その無防備さに呆れつつも、この閉鎖された空間が新たな関係性を育む土壌になるのかもしれないと、彼はぼんやり考えていた。ここには流石に如何なる機材も持ち込めないし、持ち込む気もない。需要がない、というのがその理由だった。


 「おい、無我。その傷なんだよ」


 ガタイと褐色のいい同級生・篠崎が、見た目にも似合わない気を使った声を上げた。無我は同級生に目もくれずに返答する。


 「ああ。昔家が燃えちゃってね。その時にね」


 「ああ、悪かったな」


 浴槽に浮かぶ頭は気がつけば2つになっていた。


 男湯と女湯を隔てるのは、僅か五十センチほどの壁一枚。その距離を遠いと感じるか、あるいは無いものと見なすかは、個々の倫理観に委ねられている。そして篠崎という男にとって、それは壁ですらなかったらしい。


「なぁ、あっち女子風呂だよな?お前まさかな。やめとけよ。絶対にな」


 無我は、氷のように冷徹な眼差しと、侮蔑を滲ませた沈黙で応えた。だが、盗撮と盗聴を繰り返す自らがその言葉を口にすることの矛盾が、ブーメランのように返ってきて彼の胸を抉る。


「ちげーよ。ただ、天井と壁の隙間から湧き出る湯気がすごくてさ、温泉の質どんなもんか気になっただけ」


 女湯も男湯も泉質は同じだろうに。篠崎は厚かましくもそう言い訳を並べた。褐色の猿は嘘のつき方も稚拙だった。


「それは言い訳になってない。どんな質だ、それは」


「もしかして、無我も気になってんじゃねえの~?」


 気になっていないと言えば嘘になる。だが、篠崎の獣じみた興味と、無我が抱く分析的な関心は、似て非なるもののはずだった。しかし、完全に異なると断言できないのもまた事実。彼の中の「男」という部分は、未だに死に絶えてはいなかった。


「いや、まあどんな話してんのかとかは、気になるけどさ」


「おおお~本音出た~!じゃあさ、音だけ聞いてみようぜ!」


 そのあまりに軽薄な誘いに、お前が言うな、という自己撞着に満ちた言葉が無我の喉まで出かかった。他人のプライバシーを暴き続けてきた男が、今更どの口で正義を語れるというのか。


(本当の悪魔を断頭台に送るには、自らもまた悪魔に堕ちる覚悟がいる。その覚悟もない者が、軽々しく一線を越えようとするな)


「ちょっとだけな。絶対、見たりすんなよ。先生が来たら終わりだからな」


「へーい、俺はあくまで研究目的でーす!」


 無我が想定していた以上の罪悪感は、そこにはなかった。高鳴る鼓動の正体は、価値あるスキャンダルを手に入れることへの探求心、禁忌を犯す背徳感、そして汚らわしい好奇心。そのうちの最初のもの以外は、ひどく久しい感覚だった。壊れてしまいそうだ、と彼は思った。


「なんか、キャッキャしてるね~。安易な想像が捗るわ。これが青春の湯気ってやつか」


 二人の青春は歪に歪んでいた。湯の温度が、だんだんとぬるくなっていく。


「いよいよ文明の利器の出番だな!自撮り棒、オン!」


「おい待て待て待て!何してんだよ!?」


 篠崎がタオルの中から、スマートフォンを先端にくくりつけた金属の棒を自慢げに取り出す。その愚行に、無我は戦慄した。無我ですら、温泉にはカメラを持ち込んでいないというのに。羞恥心も恐怖心も、この男にはそもそも備わっていないのではないかと思わされた。


「いやいや、無我さん。俺たちの“青春ドキュメンタリー”を撮るだけだって」


「その角度は明らかに女子風呂の方だろ!やめろって!」


 無我は水面を叩きつけて怒号を上げた。それは不意を突かれた動揺と、壁の向こうの女子たちにこの愚行を知らせようとする微かな善意、そして何よりも共犯者にはなりたくないという自己保身の叫びだった。


「違う違う、“風呂の雰囲気”がほしかっただけ。映ってない!たぶん!」


「“たぶん”じゃアウトなんだよ!下手したら人生終わるぞ!」


「じゃあ音声だけにする?こう、湯気越しの声とか、雰囲気出るし」


「それはもう盗聴だわ!!」


 些細な悪事を見過ごさないための盗聴は、良心をすり減らしながら散々やってきた。だからこそ、罪の十字架をこれ以上増やすべきではない。それを背負うのは、自分一人で十分だった。この二人ではまるでベクトルが違っていたが。


「ああ~惜しいなぁ、この動画がバズったら俺らの伝説始まったのに」


「始まるのは警察沙汰だ。ほら、スマホしまえ」


 (父を殺した警察は信用ならないが、必要とあらば利用させてもらうよ)


 篠崎への呆れと憐れみ、そして壁の向こう側への妄念がない混ぜになった居心地の悪さから、無我はそそくさと湯船を上がった。脱衣所の鏡に映った自分の瞳孔が開き、焦点が合っていないことに、彼はその時初めて気づいた。


PM6:00 無我たちの寝室


 部屋に戻り、濡れた髪が乾ききる前に就寝の時間が訪れた。


「恋バナは隣の部屋の奴らがこっちにきてからにしようぜ」


 熱血な学級委員である森詰が、声を潜めながらも意気揚々とそう宣言した。隣室から、篠崎が抜き足差し足でやってくる。風呂場での大胆さとは裏腹に、教師に見つかるのを恐れる姿はひどく滑稽に見えた。彼らは温かいランプの光の周りに集まり、恋バナという名の告解の儀式が始まった。


「なあ、愛無さん、めちゃ可愛くない?」


 酔っ払いのような口調で、しかし素面の篠崎が歓声を上げる。その名が発せられた瞬間、明らかに動揺を隠せない男が一人、その輪の中にいた。無我である。バスを降りてから旅館まで、彼のあからさまに不審な挙動は、後方の森詰には筒抜けだったに違いない。


「あれっれー無我ちゃん、何照れてるんですの?何か変な妄想しちゃった?」


「だから、してないって!」


 その日一番の大声だった。周囲から一斉に制止の視線が突き刺さる。普段、感情を溜め込んでいる分、その反動は大きかった。だが、この恋が碌な結末を迎えないことだけは、彼自身が誰よりも悟っていた。憐れみの目を自分自身に向け、それを誤魔化すように天井の木目へと視線を逃がした。


 その後も座は続き、篠崎が談笑に気を取られている一瞬の隙を突いて、無我は何気ない仕草で彼のスマートフォンを抜き取った。そのまま自然な流れでトイレへと向かう。悪臭と虫の気配が満ちる個室で、彼はポケットから取り出したブラックライトをスマートフォンの画面に浴びせた。汗の痕跡が蛍光色の細い光を返し、パスワードの軌跡を浮かび上がらせる。推理小説で読んだ知識が、今、現実のものとなる。初めて他人のスマートフォンの内側を暴くという行為に、彼の内から黄色く濁った感情が湧き上がった。


 写真アプリの非表示フォルダをこじ開けた先には、予想通りのブツが並んでいた。それは彼にとって、博物館の陳列品か、あるいは理科室の薬品棚のように無機質なものに見えた。しかし、その中に、一線を越えた動画を見つけてしまった。ネットで拾った画像を秘蔵しているだけならば、まだ必要悪の範疇だったかもしれない。だが、これは違う。


 スマホを握る右腕が、力なく垂れ下がった。静まり返った洗面台に、彼の心音と、庭から聞こえるクビキリギスの鳴き声だけが飽和する。無我はUSBメモリとアダプタを取り出し、篠崎のスマートフォンに接続した。そして、あの動画のデータを、冷たい機械的な動作で、自らのメモリへとコピーした。





 AM6:40 無我たちの寝室


 木漏れ日というにはあまりに清々しい光が、カーテンを焦がすかのように差し込んでいた。天然パーマの少年がそれを開け放つと、今度は畳の上に眠る者たちが光に焼かれる。その布が擦れる音と、窓の外から聞こえるイソヒヨドリの甲高い囀りが、浅い眠りに沈んでいた男たちの意識を揺り起こした。

「おはよう」

 天パの少年、平無我は、何の混じり気もない瞳でそう呟くと、ベランダへ続く窓枠に身を預けた。そして数分後、彼は部屋を抜け出し、まだ影を灯したままの静寂な廊下を歩む。目指す部屋の扉を開くとき、彼の普段の冷静さには臆病さという不純物が混じっていた。男・担任教師の澤田は、悲劇の主人公を気取ったその少年に、憐れみを含んだ目を向けた。


「ん? なんだ、体調悪いか?」


 寝起きの気怠さを隠すように、社畜然とした男は理想の教師を演じながら問いかける。無我は、何か引け目があるかのように控えめに口を開いた。


「いえ、そうじゃなくて。昨日の夜、篠崎が、女子風呂の方にスマホ向けて、動画を撮ろうとしてました」


 その言葉は、寝ぼけた中年男を瞬時にして「教師」という名の権威へと変貌させた。張り詰めた空気は、針一本で破裂する風船のようだった。ネット上での舌戦には慣れていても、現実の大人との駆け引きは経験が少ない。それでも無我は、巧みに言葉を選び、会話の主導権を握ろうとした。


「まだ撮っていなかったと思います。俺が止めたんで。でも、やろうとしていたのは事実で」


 もしこれが普段の彼であれば、何の躊躇もなく事実だけを突きつけただろう。だが今は、怒りの矛先が自分に向かぬよう、まるで自らの罪を隠蔽するかのように慎重に言葉を誘導する。


「わかった。詳しく聞かせる」


 澤田は、友を売るという勇気を手にした少年を自室のソファへと促した。互いに平静を装っていることを察しながら、教師は冷蔵庫で冷やした天然水を無我の前に置く。


「たぶん昨日の二十時前。俺との二人だけでした。自撮り棒にスマホ付けてて、女子風呂の壁の方向に向けて」


 澤田は深いため息を漏らした。これから起こるであろう面倒事を思い、その肩が重く沈む。


「平、なんで言おうと思った?」


「昨日からどうすべきか考えていたんですけど、見逃したら、もし本当に撮ってたら、それはもう犯罪じゃないかと思って」 


 生徒による盗撮、その対応マニュアルなど存在しない。数秒の沈黙の後、澤田は無我の目を見つめ返した。


「そうだな。よく言ってくれた。お前は正しいことをした。俺が責任もって対応する。お前が言ったとは篠崎には言わない。安心しろ」


「ありがとうございます」


 無我は、小刻みに震える右腕を左手で掴んだ。教師に顔が見えなくなった瞬間、彼の表情から焦燥感は消え失せ、ずる賢い子供の笑みが浮かぶ。部屋を出る間際、振り返って見せたのは、再び善意に満ちた優等生の顔だった。澄み切った瞳で、彼は微笑んだ。


 廊下に出た彼は、一人ごちた。


「正しいことをした、か。俺も正義を語っていいんだな」

 

 その姿は悪魔というより、自らの正義に殉じる堕天使のようだった。


 











AM7:10澤田先生の部屋


「篠崎。昨日の夜、お前が女子風呂の方にスマホを向けていたって話、聞いたぞ」


 軽率な少年は笑って動揺を隠した。嘘に慣れない少年がごまかせるわけもなかった。


「え?いやいや、そんなわけ。ていうか誰すか、そんなチクったの」


「いるんだよ、ちゃんと見てるやつが。で、お前はどうなんだ。本当にやってないと言い切れるか?」


「動画は撮ってないです。本当に」


「動画はか。じゃあ、カメラを女子風呂に向けたのは事実なんだな」


 目線をそらした。バツが悪そうで控えめな口調と拙い語彙力と想像力では言い訳も思いつかなった。


「ちょっとふざけただけです。誰もいなかったし、冗談で。バカやっただけです」


 顔を顰めて罪を認めた篠崎への怒りと、これからの身辺整理への億劫な感情と、止められなかった自分の落ち度が大人の仮面を剥ぎ取りそうだった。教師はとても目を合わせられる表情ではなかったが、大人の仮面で自らを拘束し、目を合せようと試みた。少年の目は宙を泳いでいた。


「お前さ。わかってるよな?それ、もし録画してて誰かが映ってたら、犯罪だぞ。“バカやった”って笑い話で済むと思うなよ。見えなかったとか撮ってないとか、そういう問題じゃないんだよ」


 秒針と鼓動だけがリズムを刻んでいた。お互いに秒針と舌を噛んだ。彷徨っていた目と、揺るがない目の焦点がようやく合わさった。起きてきた下の階の生徒たちの黄色い声が遠くなっていった。


「今回は注意で済ませる。スマホは没収。帰るまで返さない。学校にも報告する」


 AM7:30  無我の寝室


「篠崎、先生のとこにスマホ提出させられたらしい」「え、なんでそんなこと。女子風呂って」


 無我はベッドの上で片足だけ体操座りして、両腕で包容する。貧乏揺すりをやめられなかった。早まる鼓動と動悸に蓋をして、前髪をくるくるかき回した。元々弧を描くようだった前髪が円を描いた。


「でも、先生にチクったやついるって話だよな」「うわ、それ一番やばくね?裏切りじゃん」


 指先の反射神経が滾って、無意識にピクリと動く。聞き耳を立てた無我は声も出せないほどの過呼吸を悟られないように両腕で隠した。掻きむしった天パの毛先はほつれていた。


「いやでも、犯罪は犯罪だし、黙ってた方がもっとヤバかったる」


「それはそうだけどさー、チクったやつも怖くね?」


 それを耳にするなり、無我は腕を片足から払い、重い腰を上げて、ベッドから抜け出した。前髪を掻き上げて、一石を投じた。爆弾を放った。LEDが頭頂部を白く照らした。


「それ、俺だから」


 誰も彼もが目を見開いて、体を向けて、一心不乱に無我を眺めた。誰一人声を放つものはいなかった。彼は呼吸を整えて、背中の首元あたりを気だるげにゴリゴリ引っ掻いた。


「俺が先生に言った。俺は止めたつもりだったけど、本当に止められたか不安だった。だから、言った。悪かったとは思ってない。ていうか、後悔もしてない。むしろ先生に言わなかったほうが後悔するんじゃないかってさ」


 胸に仕込んだ隠しカメラのレンズは、無我の瞳の水晶体と同様、太陽の光とLEDを透き通して光り輝いた。無邪気に微笑んだ彼は、数秒前までの動揺を感じさせなかった。


AM7:30 在音の泊まっている部屋


 愛無在音


 女特有の愚痴大会がリアルで催されるのを傍観するのはいつものことだった。今回は生産的な話だった。同じクラスの男子、篠崎という人が女子風呂を盗撮したらしい。風呂場での不自然な乱反射の辻褄が合った。


 恐らく撮られていた。あの光の反射からして。私の知らないところで、私の体が性欲発散に使われていたかもしれない。でももう既に、売春しちゃってるから汚れてるんだな。それに、撮られていたかもしれないことを言ってしまったら盗撮されたと確定することになるだろうから、声を上げられない。私が黙ってれば、誰にも見られてなかったことになる。そうすれば盗撮されてないと自分に言い聞かせられる。


 私を愛してくれる人なら別に裸を観られても悪くない。愛してくれてる上で、私自身も愛を返せるなら、別に妄想に使ってもらって構わない。でも、愛の存在しないただの消耗品としては観られたくないな。でも、そんな目でしか私は見られてこなかった。血のつながっている父とかつながっていない父とか。


 今まで何人もの男と交わって金を貰ってきたけど、愛されてるなんて思えたことはないし、相手を愛したこともない。所詮需要と供給、ギブアンドテイクに過ぎない。


 だから、私に言えたことじゃないけど、盗撮を聞いたとき、冷たい怒りを覚えた。


 他力懇願で悪いけど、誰か止めてくれたらよかったのにな。


AM11:00 廊下


 平無我


 まだ右側頭部が痛んでいた。俺がチクった理由を語るなり、篠崎の親友とかいう森詰の拳が炸裂し、ベッドの角にクリーンヒットして、角と俺の右側の髪が赤くなった。幸い、何人かが俺をフォローしてその場を収めてくれたのは良かったが、大抵の男子を敵に回してしまったかもしれない。俺は確かにそれなりの罪を重ねてきた。盗撮に盗聴、ネットでの俗に言う誹謗中傷。でもそれは悪人を裁くためには、必要だと自分に言い聞かせてきた。必要悪は正義なんだと言い聞かせてきた。でも、今回初めて直接感謝された。正義だと認めてもらえた。


 俺にも正義を語る資格があったんだと思えた。


 障子越しに聞き耳を立てたところ、旅館スタッフとここにきていた全ての教員が一同に会しているらしい。俺を認めてくれた澤田先生が篠崎に重たい口調で語りかけている。


「動画、残ってたぞ。お前が女子風呂の方を撮った映像。短いが、湯気越しに人の姿も映ってる。消したって言ったな。嘘だったんだな」


 今朝の俺に対しての、優しくも火力の高い声とは違っていて、優しさは存在しなかった。余計な仕事を増やしたことや、学校の評判を落としたことへの冷たい怒りが滲み出てて、障子越しにも伝播してきた。


「これは、重大な問題です。被害に遭ったお客様もおられる可能性があります」


 スタッフも頭を抱えていた。そのうち警察やマスコミ、さらには裁判とまでくるだろうから、これから訪れるであろう焦燥感に満ちた事態に、心を痛めなければいいのだが。


「学校としても、事態を重く受け止めてます。すでに保護者には連絡済みです」


 学校の立場が弱くなると言うことは自分の立場も社会的には低くなると言うことだが、俺には内心どうでもよかった。


「篠崎。お前のスマホは、証拠として今から察に渡す。すぐにここへ来てもらう手配は済んでる」


 澤田先生とスタッフが容赦なく追い詰めていく様を見たかったが、音声から妄想するのも悪くないな。髪についた血が固まったから、障子に耳を当てた。


「警察っスか?」


 もう意気揚々と言い逃れすることはできなかったようだ。俺ほど嘘は上手くないらしい。まあ、嘘をついていいのは俺のような正義漢だけだけどな。それ以外の嘘は俺が暴いてやる。これまでも証拠を掴むためにも色々手立てを打ってきたし。


「これば”やっちゃったね~”で済むレベルじゃない。人の裸を無断で撮るってことは、立派な犯罪だ」


 そこからはしばし沈黙が流れた。秒針が進むごとに篠崎の十字架の重さが増していくように思えた。篠崎に似た、下品で低俗な女が皺を寄せて、他のスタッフに連れられて来た。俺は姿を隠すために、盆栽の裏に隠れた。


「澤田先生!うちの子が、本当に、そんなことを」


 母親が必死で擁護しようとするも、それに対する澤田先生の哀れみと軽蔑が籠った声からは威勢の良さが読み取れなかった。しかし、威圧感だけは残されていた。


「事実として、動画が端末に保存されていました。本人も黙している状態です」


 母親が後退りして息を詰まらせているらしい。過呼吸気味だがいい気味だ。お前が愛情注がないから、息子がエロに浸るんだろ。ざまーみろ。


「うちでは、あんなことをするような子じゃ。いや、分かってるんです。でも!」


 母親が人生をかけて弁解しようとしてるのに、その後ろに立っているであろう篠崎は声を出さない。


「こちらとしては被害届を出すかどうか検討中です」


「この件はすぐに学校でも処分委員会を開きます。恐らく、停学以上の対応になります」


 ここでようやく本日の主役が台詞を吐いた。自嘲気味でしゃがれた泣き声だ。


「終わったな。マジで」


 母親が息子の肩を掴む音がした。平手打ちなみの音量が鳴り響いた。涙と怒りで脳天が破裂し、心臓を握り絞って出すかのようなシャウトで、息子以上にしゃがれていた。


「何してんの、何で、こんなバカなことを!」


「ただの好奇心だよ。バカだよな」


 驚察が入って行った際に襖の隙間から母親が泣き崩れる姿、無言で立ち尽くす篠崎を蔑視した。まるで地獄絵図だな。


「失礼します。北上署の者です。こちらが?」


 篠崎は警官に目を向ける。その表情は完全に固まり、唇だけがかすかに震えている。涙だけが滴り落ちる中、一つの化学反森詰を眺めるかのように平然と警察のおっさんが歩み寄せる。


「少しお話を伺います。同行、お願いできますか?詳しいことは署でお話ししましょう。保護者の方にも同席していただきます」


 やったのはアイツだ。でも、こうなるって分かってた。分かってて、止めきれなかったのは俺だ。いや、止めた。だけど、"その結果”が今、ここにある。ある意味俺も罪を犯したんだな。でも、リークしたことで贖罪は完了したと言って差し支えないだろう。

 

PM1:00 お花畑


 頭の傷口がようやく閉まってきた。しかし、この赤い血は水で洗い流そうとしても落ちる素振りもなかった。 生臭い死臭じみた血の香りを、血と同様で赤い薔薇の上品な香りがかき消してくれた。いつの間にか体の震えも収まっていた。


「あ、何か用か?」


「用とかじゃ、ない。ちょっと、来ただけ」


 愛無は目線を合わせないまま、小さく首を横に振った。細やかな茶髪の隙間から木漏れ日のように太陽が差し込んできた。大嫌いなLOPEが目の前に佇んでいるというのに、何処か悪い気はしなかった。決して恋しているわけでも意識しているわけでもない(嘘)。LOPEがやっと、等身大の高校生に見えて親近感を感じただけだ。そのように感じさせたのは、この世のすべてを見下した、超越者のような冷徹さが、今消え失せたからだ。それでも愛無さんの容姿が整いすぎていることに変わりはないが。辺りを見渡してみたら、老若男女様々な人物が、二度見するのが痛いほど判る。


「その血って、先生に話したせいで、お友だちの反感買って喧嘩になったからだよね、痛くないの?無理はしないでね」


「別に。大したことはない」


「じゃあいいんだけど、ほんとに無理はしないでね」


 いくら演技をしたり、LOPEも人間なんだな。別に特別な存在じゃないんだな。そう思えた。


PM1:05 お花畑


 愛無在音


「あ、あのさ。あのとき、ありがとう。誰にも言ってないけど、たぶん、あのとき、私、見られてた」


 風の噂だった。篠崎を先生に売ったのは平くんだった。平くんは血で赤くなった右の髪をいじりながら微笑み返してくれた。


「悪い。俺、もっと早く止められたかもしれない。でも、あのとき、怖くて」


 私が同じ立場だったとしても多分何もできていない。 だから、そうしてくれる人がいるだけで私には十分だった。あんなにマイクの前の私、LOPEはハキハキ歌い潰せるのに、愛無在音には勇気が足りないな。自虐も込めて平くんに微笑み返し返した。


「うん。それでいいと思う。たぶん、私そのおかげで、何も見なかったことにできた。無我くんが見ていてくれたから」


 愛されているかはわからないけど、愛してしまうかもしれなかった。これが、愛だとか恋だとかは判らないけど。何人もの男にうわべ面の下心入りの優しさを受け取ったくせして、チョロいな私。そんな私に無我くんは一言呟いた。


「ねえ声出さなくても、守られることってあるんだね」


 腹を割って話せた気がする。本音が出たのは昨日のバスぐらいだったけど、その時と同様、意図的にLOPEから遠ざけていた愛無在音の肉声が素のLOPEの声に移り変わってしまった気がする。


 でも彼ならバレてもいいかもしれない。反感を買うことを恐れつつも、最終的に告発するほどの正義感がある無我くんなら、バレても親身になってくれるかもしれない。


「声出せなくても、届くこともあるんだと思えたよ」


 赤い薔薇のバックにある黄色い百合の花びらが空に舞っていった。


「おっと、ここまでにしようか。お客さんが待ってるからな」


 そう言ってヤツのもとに行く無我を眺めていたが、彼が振り向いた途端にほんの少しのささやかな光が視界から消えたのに気がついた。LOPEにとっては馴染み深いものだ。前に駅で偶然鉢合わせたときにも同じ反射を感じた。それは、カメラのレンズの反射と瓜二つだった。


澤田 


 2人ぼっちの世界に立ち入る隙はなかった。アダムとイブ、エデンの花園。僕がアダムで愛無さんがイブならよかったのにな。僕がそこに迷い込んだとしたら僕は2人にとっては禁断の果実になってしまう。赤薔薇が空に舞って、長いスカートが揺れる。2人が美男美女のカップルに見えてしまった。盗撮を暴いた正義漢の平、世界の均衡を揺るがすほど可愛い在音。王道ラブコメのような布陣にはとても紛れられない。


「おーい、2人でこそこそ何やってんだ、班行動するぞ。もしかしてお二方付き合ってるのか?」


「違うし」


「まさかな」


 お互い手振り身振りオーバーリアクション。まるで古典的な足取り夫婦だった。昔の僕と妻を見ているような気にさせてくれた。


PM10:00


 先の事件もあり、夜の語り合いは引き伸ばされずに終わり、無我は全身を衣でくるんで携帯端末の写真アプリの非表示の封をパスワードで解いた。彼の瞳孔を開き、釘付けにさせたのは愛無在音だった。温泉の淡い光に照らされた白い肌はやわらかく、ほのかに火照っていた。性欲発散を目的としたAVの俗っぽさとは相容れなかった。どこか神秘的な愛無は、生まれた世界を間違えたのかと言わざるをないほど、禁忌めいたものだった。

 

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