第三話 確信犯でしたね
無我は自室の全体に消臭スプレーを飽和させた。口に手を当てて咳き込んだ彼は、光の1つも通していないカーテンを開き、網戸を開けて新しい空気を取り込んだ。彼は再び神経を滾らせる。異臭は微塵も残っていないようだ。灰皿上の焦げた塵紙を床に放置された燃えるゴミの袋に放り込んだ。
その部屋は、一高校生のものとは思えないものだった。1つのコンセントからタコ上に電源タップが広がり、一つ一つが何かしらの機器に電力を届けている。ゲーミングPC の本体、中古らしきスマートフォンが複数台、AirPods、ヘッドホン、盗聴器、インスタントカメラ。それらは全て、罪を暴くための道具となっていた。それらを眺めた無我はぼそりと呟いた。
「俺がやらなきゃいけないんだ。失うものの無い俺が」
部屋の片隅に佇む引き戸から黒コート、チェーン付きの黒レギンス、チューリップハットを引っこ抜く。偏食気味のコーデながら様になっていた。
洗濯機にパジャマを畳んで放り込み、スイッチを押し込む。小型カメラと盗聴器が内ポケットに入っていることを確認し、冷たくて重たい扉をこじ開けた。向かい風に抗った。
1時間後
「おいおい、そこのお姉さん方。俺、女性は皆等しく美しいって思ってるんですけど、あんたらは女性じゃないってことでいいんですね」
雲一つない快晴の中、チューリップハットの端っこをつまみ上げた無我は、首からぶら下げたblackbird, fryのシャッターを切った。鋭い音が墓場に鳴り響いた。その次には、二人の豚女が無我に寄って集って肖像権を訴えるも無我は挑発的な笑みを崩さなかった。近隣の墓で寝そべっている猫が三人に上目遣いをする。
「親父の墓荒らさないでもらえます?」
「へーあんた、平我夢の息子なんだー笑。僕ちん可哀想にね。この男は痴漢で捕まった挙げ句、自分が住んでたアパート焼いちゃったんだからね。僕ちんには醜い犯罪者の血が流れてるんだよ〜面白い笑〜」
胸ポケットに隠された小型カメラの所在を確かめ、目尻を釣り上げた無我は、裁判長のように冷酷に吐き捨てた。バックの大木の青い葉っぱの隙間から光が僅かに差し込んだ。センター分けの右側を指で絡める。
「醜いのはあんたらだよ。墓荒らしは立派な犯罪です」
「論理破綻してんじゃんかー。馬鹿の息子は馬鹿なんだねー。女性は皆等しく美しいんじゃなかったっけ」
ため息混じりに首をかしげて、呆れ声を上げる。コーヒーゼリーのように上が白くて下が黒い野良猫は大きくあくびをした。
「あんたらは女性じゃないよ、見苦しいな。もう動画取ったから警察に通報しますね」
「おい、やめろって。犯罪者の墓荒らして何が悪いんだよ」
「濡れ衣着せられてんだよ。親父は犯罪者じゃない」
帽子を抑えた無我は、慣れもしない格闘技で襲い来る二人をヒラリと交わして、ポケットから取り出したスマートフォンで110をコールした。要件を全て伝え終えた彼は、左手でピースを作り第2関節から折り曲げてはすぐに戻す作為を何度も繰り返した。
「あと五分でここに来るそうですよ」
小物臭く負け惜しみして去っていく二人を見つめていたが焦点はあっていなかった。スマホを持った方の腕を撫で下ろした。横目で眺めたスマートフォンの通話履歴には110番は存在しなかった。無我は白黒猫の方を向いて屈み、上に乗っかっている白いカラメルの部分をそっと撫でた。
「大丈夫だからね、俺が見てるから」
猫は階段を一段づつ降りていき、無我は白百合を墓に捧げ、黙祷した。深く一礼して振り返ると、歩きスマホしながら、目的地へと歩みを寄せる。立ち上げられていたのは、マップアプリではなく匿名性の高いSNSだった。
「目印は持っていきませんよ」
呆れた声で愚痴を零し、震える腕を抑えた。
同時刻
Lが足りない1DKの一室、独りで住む分には何の問題もないこの一室で、潔白色の布団に閉じ込められたまま、在音は惰性でスマホの右側面のボタンを押して、灯をともす。
LINEに追加されている友達は0人だが、ホーム画面は通知で埋め尽くされていた。背景にしている彼岸花のイラストによって、このくすんだテキストボックスは紅くなっていた。まさに血で血を洗い流す戦場のように。
「やっぱりLOPEと私生活とでスマホは分けた方がいいよね」
「そうだった、夜から楽曲配信するのか、もうスタジオは借りてあるし、問題はなし」
防音室を買えるだけの金は彼女の手中にあるが、事実上一人暮らしの女子高生がそれだけの金銭を持っていたら、疑われるのも無理はない。だからまだ買わない。LOPEとしての在音に対する通知、つまりコメントはすべて閲覧し、アンチ以外はいいねする。視聴数は上上。愛無在音に対しての通知は彼女の叔母さんからの、今月分の生活費を振り込んだという定時報告。彼女自身、両親はとっくに見限ったし、見限られたはずだけど、叔母さんは申し訳程度賄ってくれているため、感謝の念を抱いている。
「あとは、うわキモ」
(ネット世界の民度はやっぱり終わっている。そんなにJKブランドがほしいのか。想像するだけで吐き気がする。でもまあ、私が誘発させてんだし自業自得か。ここ最近は察が潜入捜査っぽいことしてるせいで、釣り扱いされることも多々あるが、引っかかる馬鹿は引っかかる。そして、私に貢いでくれる。確かに私は汚れているのかもしれないが、むしろ汚させてあげる側なんだ。チャンネル登録者20万人の私だが、声は普段作っているし、容姿の1つも明かしていない。特定はできないだろうし、対策はいくらでもある)
「目印に赤い薔薇を一本持ってきてくれたら、ありがたいです」
この微かな声は隣人には届かなかった。声は届かなきゃ、出してないのと同じ。そんな残酷なこの世の真理を歌っていたこともあった、と思い出した。同じ内容を打ち込むなりすぐさま既読がついた。
(あ、赤薔薇なんか持ってこられても、所詮、需要と供給でしかないんだった。そこに愛なんてありはしない。けど、似合いもしない赤薔薇をチー牛さんが片手に携えているのは、嗤えるし、集合地点でも見つけやすい。互いに愛なんてないから、人混みの中では、それでも持たせないと見つけられはしない。赤い薔薇を持っていたとしても、赤い糸では結ばれていないから)
「恥ずかしい、だって?」
(リアル世界で、ガールフレンドの一人もいないからと言って、未成年にペコペコするプライドの一欠片もないお前たちが恥だ。まだ、15だからギリギリ私はロリだ。ロリコンは罪だが、そいつらに金をねだる私の罪も重い。それでも、金が必要なんだ。音を楽しむためには金がかかるんだ)
「目印なら、午前の緑茶でどうですか?はいはいわかりましたー」
(意気地なしが、だからお前らはモテないんだろうが。意気地なし。私は、舌を打ったどころか口を切った。そういえば、平くんも意気地なしかも。ちょっと目を合わせただけで照れる、いやデレる世間知らずのおぼっちゃまくん的な、でも純粋で可愛いから許しちゃう)
1時間後
女を待たせるもんじゃない、とは常々思っている在音だが、深夜アニメが一話分見れるだけの余裕が持てるだけの時間があるだけ、早回りしている在音も在音だった。辺りは休日ということもあり、人混みでごった返している。ここにいる人が全員LOPEのファン、20万人なら、彼女がここで一声上げるだけで、武道館を平然と超越する大来となりえるだろう。今日はLOPEとしてでも、愛無在音としてでも、上北駅には来ていない。ただの汚れている美少女とでも言ったところだろうか。
午前の緑茶を探すため、目を光らせても、見つけられなかった。
(変態だろうが、さっさと来てくれ)
噴水の水しぶきが溜まった水に打ちたる波音と、人混みのあらゆる生活音が打ち消し合って、相殺することはなく、ただ雑音が積み重なるだけだった。彼女は自分の世界に入るために歌声でかき消そうと試みるも、すぐに止めた。そんなことをしてみれば、愛無在音としての彼女も、LOPEとしての彼女も、汚れた少女としての彼女ももすべて終わってしまう。壊れた器は、もう元には戻れない。
(エナドリより高貴なホットコーヒーを買ってきて正解だった。モテない男は、女体のための金は出しても、気遣いのホットコーヒーは出さないだろうから)
彼女は口づけした。猫舌を悔やんだ。
(手のひらと心の奥底をあっためてくれるのはいいんだけど、いずれ冷めちゃうんだよな。でも、これでほっとした)
眠気に襲われている中、彼女は一声かけられた。
数分前
上北は無我には眩しすぎた。行き交う人混みに殺されそうだ。忙しなく働く彼らは、かれにはモノクロで濁っているように観えた。退屈を紛らわすことにはならないだろうが、彼も彼らに埋もれた。信号が青くなるなり、彼らと彼は一歩踏み出して前進していく。ここでは不協和音は許されないから、歩幅を誰かも知らない隣人に合わせていった。やっぱり歩幅をそろえるのは至難の業だった。だが、彼は雑音を掻き消すようにイヤホンの向こう側に逃避しようとした。風のように颯爽とネットの海に流れ込んできた新人アーティストLOVELESS PEACELESS。暴徒を一瞬でファンにできる儚い美声で残酷なこの世の真理を歌っていたこともあった彼女のチャンネルを未だに登録していた。早口で絶望的なものを明るく淡々と語る初期の曲をタップする。
「やっぱり信じられないよ。これが全て演技に過ぎないんだって。でも、もう推せないんだ。虚像でできた幸せなんて、存在価値はないから」
そう吐き捨てた瞬間だった。彼の目には愛無が映った。好奇心、背徳感、正義感、使命感、躊躇心、恋愛感情の戦争。彼は立ち尽くした。行き交う人々が無我を避けて通り去っていく。忙しなく通りすがる群衆はタイムラプスのように映った。右耳に覆いかぶさる髪をかきむしった。年以上に大人びていている愛無は変わらずホットコーヒーを口にしている。開いた口が塞がらない無我は心臓のあたりに手を当て、鼓動が狂っているのを再確認する。脳内に浮かび上がってきた妄念を一つ一つ言語化していき、赤い瞳を隠しきれないまぶたをハンカチで拭った。結局、エンカウントした愛無に声をかけた。愛無と彼は息を呑んだ。気まずさで息が詰まりそうな一瞬が、幾重にも引き伸ばされていった。雑音で飽和していた駅前にて時計塔の針の音だけが彼らの聴覚を支配した。
「あの、愛無さんですよね」
「あ、うん、平くんじゃん」
愛無=LOPEを否定する材料がないほど酷似しきった声を聞かされ、胸が引き裂かれそうな高揚感に浸る。動悸が襲う。胸の前に拳を掲げる。彼女は鳩が豆鉄砲をくらったように、唖然としていた。
「愛無さんも誰かと待ち合わせかな?」
ゾクゾクーー一純粋な好奇心と恋愛感情、無我自身がヤリマンを晒し上げようとしたことがバレるリスクへの恐怖心、LOPEだった場合晒すかどうかの葛藤。それらの対極的な感情が混ざり合って、心臓を痛めつける。そして、探り言葉が腹の底から捻り出されていった。
「う、うん、そんなとこかな?もしかして平くんも?」
いつもの飄々とした彼女は何処吹く風だった。愛無在音は普段、声色を変えてLOPEを隠しているつもりになっていた。地声を隠して、LOPEバレを防いでいた気になっていた。LOPEを知る人にはたいてい見抜かれてきたことを見抜けなかった。LOPEバレを心配したのは今回が高校生初だった。
「何時ぐらいに、相手は来るのかな?」
(これはあくまで会話であって、駆け引きではないはず。だが、現にあのLOPEじゃないかと探りをいれてる気になってる。推理小説でしかありえない状況だ。物語の探偵たちはこんなにも、ゾクゾクする話を生業としてるのか)
「10時ぐらいかな」
「奇遇だな、俺もその時間に誘われた」
(この腐れ縁の熟年夫婦の皮肉のような駆け引きは、側から見れば、カップルの邂逅に思われても仕方がないよな)
お互い察していたのか、話を続けながら、噴水をバックに、お互い灰色の椅子に二人分くらい離れて腰掛ける。間に入る異物はいなかった。
「まだ20分もあるぜ」
抑揚のない台詞は嫌味として響いた。
「平くんもじゃん」
愛無はようやく平常に還れた。
「あ、メールきた、やっぱり今度にしませんか、えー、うわあー、じゃあ、また学校でね。」
やはりどこかわざとらしかった。
「あ、ああ、また」
次の一手を決めかねていた今、彼の瞳には彼女が棄権したように映った。自己紹介の時と同じように飄々と周りに目もくれずに去っていく。無我は愛無が群衆なら溶け込んでいくまで、目線を浴びせ続けた。もっとも、LOPEらしいオーラのせいで視界から完全に消えるまでには時間がかかった。
(俺はあのタイミングでネットで知り合ったヤリマンに反吐が出る甘言は打ってない。だから、この段階では愛無がそうだというのは考えすぎだと思うことにした)
(その後、用事ができて来れなくなったとメールが来るまでは)