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第二話 願望を妄想、勝手にどうぞ


 「でも、最悪だ。嫌いなやつの声にそっくりな人に一目惚れしちまうなんて」


 制服の少年は頬を紅らめる。舌を噛んで、口には血を含んでいる。瞳には涙が含まれている。血も涙もない状況ながら、血も涙も飽和している。ぐちゃぐちゃの顔を、赤の他人の視線から隠そうとするが隠しきれていない。口元に右手をそっと覆いかぶせる。泣き言も口に出さず、泣き声も押さえつけ、群衆のガヤにかきされていく。水分が足りなくなったのか、その少年、平無我の瞳は血で充ちている。無我は殺人犯から逃げ出すかのように、駅の方へ手を伸ばしていった。


 誰が誰を突き落とそうとも、無我のポケットに隠されたカメラがなければ、証拠も目撃者も出ないであろう人口密度のホーム。無我はポケットに忍ばせたスマートフォンをノールックで取り出し、そのまま目も向けずに曲を流した。片耳だけのイヤホンから流れてきたのはLOPEの曲、『Don't die!!』。


 「ああやっぱり、愛無さんがLOPEか」


 彼はすぐさまイヤホンを外してポケットに詰め込んだ。この人混みは、イヤホン越しのLOPE、鼓膜の上で踊っているLOPEがいない無我には荷が重かった。特急電車が特に急ぐこともなくやってくる。


 「俺、情けな。まだ、LOPEに情があるみたいだ」


 男、女、子ども、老人、中年にアラサー、つまり老若男女。無我は濁った目で、スマホのブルーライトを浴びているだけだ。青白い華奢な線の細い左腕を伸ばして、誰が触れたかも判らないつり革を人差し指でつついたかと思ったら即座に引っ込め、すぐさま左手で、素顔を隠すためであろう右手を過保護なほどに掴んで、ふっとため息をした。


 高鳴る鼓動に踊らされたまま、無我は帰宅路についた。いたるところにあるコンビニに、誰も彼もが使用経験のある100円ショップ。普段は何か犯罪がないか目をたぎらせているが、今の無我にとっては背景の1つに過ぎなかった。


「ただいま」


 アパートの一室にそれだけが木霊し、沈黙が流れた。


 図書館の一室かと言わんばかりの本棚に囲まれたベッドの上で無我は、ノートパソコンを開き、Twitterのタブにアクセスした。彼の裏垢に晒し上げられた万引犯のツイートはバズるとともに炎上もしていた。それを眺めた彼は不意にニヤける。思わず笑みが漏れ出てしまっていた。独りだから気が緩んだのか。頬が緩んだかと思えば、いつの間にか虚無顔に変わっていた。


 ベッドに仰向きながら、腰から上を起き上げて、右膝を立てて、悲劇のダークヒーローを気取るようにやさぐれた様子で自暴自棄に頂垂れた。


***


 積乱雲が一面を覆い尽くして、淀んだ天気だった。中学生だった無我は、数学の小テストを受けていた。教卓の前で教師が注意事項を読み上げる間、平無我は机の下でシャープペンシルの芯を二度折った。折れた芯は床に散らばり、上靴に踏み潰された。開始の合図と同時に紙を裏返し、氏名欄の下にゆっくりと名前を記した。全ての答えを書き終えたら、それ以上何もしなかった。


 鉛筆の濃淡で擦られた跡が、答案の裏面に浮いていた。「死ね」と読めたが、最後の文字は乱れて消されていた。隣の席の宮内がちらりとそれを見たが、視線を前に戻し、以後何も言わなかった。


 チャイムが鳴ると、無我は鞄を手に教室を出た。部室のある廊下には向かわず、昇降口で靴を履き替えると、通用門を抜けた。下校する生徒の流れから距離を取り、舗装の継ぎ目をなぞるように歩いた。 途中、一度だけ光が差した。建物の影が歩道に映り、そこに彼の影も加わった。午後三時過ぎの光は斜めに傾き、彼の輪郭を淡く引き延ばした。風が吹き、シャツの裾が揺れた。


 帰宅後、玄関に靴を脱がずにそのまま上がった。リビングには誰もいなかった。時計の針は三時半を指していた。冷蔵庫の音だけが規則正しく空気を揺らしていた。無我はソファに沈み、右手でリモコンを探ったが、途中で動きを止めた。


 数分後、引き出しから絡まったコードを引きずり出し、イヤホンの片方を耳にねじ込んだ。スマートフォンの画面を開き、親指が無意識にアプリのアイコンを選んでいた。 YouTubeのおすすめ欄に、見慣れないサムネイルがあった。モノクロのドット絵で描かれた少女が、三日月形の口で笑っていた。


《LOVELESS PEACELESSの夜ふかしトーク(#3)》


 指が画面を叩いた。


「やっほー、生きてる皆さま、おつかれさまー。今日は死ななかった、それだけで優勝です! ちなみに生きてても何もないけどね!」


 開口一番のその声は、あまりに明るく、あまりに軽かった。映像はほとんど動かなかった。画面よりも、音声の方が支配的だった。話す速度は早く、合間の呼吸がなかった。抑揚は一定で、音楽のような滑らかさがあった。


「いやほんとさ、命ってだるくない? セーブもロードもできないRPGって、それただの罰ゲームでは?」


 再生が進むにつれ、無我はスマートフォンを手放した。イヤホンのコードが引っかかったが、そのまま動かなかった。視線は天井の一点に固定されていた。四角い照明の縁が埃を帯びていた。


 動画が終わると、次の再生が自動で始まった。指は動かず、眼球も揺れなかった。時間だけが、部屋をゆっくりと染めていった。カーテンの隙間から、夕方の光が薄く差していた。リビングのテーブルには何も置かれていなかった。食事の用意もなかった。スマートフォンの画面は明滅を繰り返し、動画の視聴数が変動していた。


 夜になっても、照明は点けられなかった。無我は一度もソファを離れず、夕飯の時間も過ぎていった。イヤホンから流れる音声は止まり、部屋の中には空調の機械音だけが残された。


 窓の外、街灯の灯りが歩道を照らしていた。時折、車の通過音が遠くに響いた。


 その夜、平無我は一度も立ち上がらなかった。


翌日


 昼休みの教室は、複数の会話が交錯していた。誰かが弁当箱の蓋を開ける音と、ジュースのストローを差し込む音が混ざっていた。窓側の席で、平無我は机に肘をつき、スマートフォンを手にしていた。 校内では動画視聴が黙認されていた。イヤホンのコードは制服の袖から袖へと隠されていたが、左耳だけに収められていた。机の上には開封されていないパンが置かれていた。包装のビニールがわずかに膨らんでいた。


 指先が画面を滑った。プレイリストの中に、一曲だけ奇妙なタイトルがあった。


《NEVER WAS THERE》


 親指で選択すると、画面が切り替わった。イントロの音は短く、ほとんど音がしなかった。ピアノの鍵盤が単音で響いたあと、すぐに声が重なった。


「誰もいなかった 最初から いたように見えただけ」


 音程は低かった。リズムは曖昧で、拍に沿っていたようで、外れていた。教室のざわめきの中で、彼だけが動かなかった。パンに手を伸ばすこともなく、視線を机の表面に落としたまま、顔をほとんど動かさなかった。


「どこにもいないのに どうして こんなに重いの?」


 音の数は少なく、言葉と沈黙が交互に配置されていた。歌声は揺れていた。意図的なのか、それとも録音時の癖かは判断できなかった。 歌が終わると、無音の時間が続いた。その間、彼は画面を見なかった。何も映らない黒い画面が、手の中で点灯したままだった。


 昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。彼は何も食べないまま、パンを机の中へ押し込んだ。肘を下ろし、両手を膝に置いた。教師が入室し、椅子を引く音が次々に響いた。ノートが開かれ、ページがめくられる中、彼はノートを机上に放り出すだけだった。


 放課後、教室のカーテンが揺れていた。四月に張り替えられたばかりの布は白く、風を受けて小さく膨らんでは、すぐに元に戻った。椅子がいくつか空席のまま残り、黒板には「明日提出」とだけ書かれていた。

平無我は、自席で鞄を開けた。中からスマートフォンを取り出すと、すぐに机の下に隠すようにして画面を開いた。


 動画アプリの通知は消えていた。履歴の中から、あの名前を含むものを探し、動画の一覧を開いた。サムネイルが整然と並んでいた。どれも低彩度で、モノクロに近かった。 その日の午後に投稿された回は再生せず、彼はコメント欄へとスクロールした。表示された言葉は短く、明るかった。「かわいい!」「神回」「今日も生きられた」。 彼は何かを打ち込み、しばらく停止した。指の動きが一瞬止まり、そのあと数文字が表示された。


──わかってる人がここにいた。ありがとう。


 名前は初期設定のままだった。アイコンも、背景もない。投稿を完了すると、彼はスマートフォンを伏せた。机の上に置かれたそれは、すぐに黒い画面へと変わった。 教室に残っていた二人の生徒が、机を片付けながら会話していた。


「明日の体育、雨なら中止だって」「走らずに済むね」


 無我はそれを聞いていたが、顔は動かなかった。


 彼は教室を最後に出た。校門のそばで自転車を押していた女子生徒が誰かの名を呼んだが、彼に向けたものではなかった。


 帰宅後、部屋に入るとカーテンを閉めた。天井の照明は点けず、机に積んだノートを一度見てから、開かずにそのままにした。代わりに、スマートフォンの画面を再度開いた。再生履歴から同じ曲をもう一度選んだ。


「誰もいなかった 最初から いたように見えただけ」


 その一節のあと、彼はスマートフォンを伏せた。机の上に、画面を下にして置いた。イヤホンだけが音を伝えていた。


1週間後


 昼休みの教室には、笑い声がいくつか浮いていた。窓を背にした数人の男子が、スマートフォンの画面を囲んでいた。画面の明るさが彼らの制服の肩口を照らしていた。


「LOVELESS PEACELESSってさ、ちょっと無理してる感あるよな」


 そう言ったのは、前の席の生徒だった。笑い混じりではなく、指先でパッケージを破きながらの口調だった。


 平無我は、その声の方向を見なかった。手元の教科書をめくろうとした指が途中で止まった。ページの角が折れていた。彼はそれを直さずに、指先をそのまま浮かせた。


 隣の席の宮内が鉛筆を動かしていた。シャープペンシルの音が微かに響いた。昼食のパンの香りが、隣の机からわずかに漂ってきた。無我は匂いに反応せず、下敷きを教科書の上に滑らせた。


 放課後、無我は寄り道をしなかった。道路は乾いていたが、歩道の隅に小さな水たまりが残っていた。空は淡い灰色だった。信号を一つ見送ってから渡り、住宅街の角を曲がった。


 自室に入り、鞄を机の上に置くと、ノートを開いた。ページの端に書かれた文字を指でなぞり、一行だけ破いた。紙は真ん中から裂けたが、彼は破片をすべて拾い集めた。


 折りたたんだ紙片は鞄のポケットにしまわれた。ペンの跡は裏面に薄く透けていた。


 その日の夜、動画が一本投稿された。タイトルは平易だった。無我はいつも通り、イヤホンを挿し、部屋の明かりを消した。


 画面の向こうで、LOVELESS PEACELESSが話していた。


「今日も死にたくないなー。でも生きるのも特に意味ないなー。でも、寝る前にお風呂入るのって面倒すぎない?」


 声は明るかった。文末のトーンは上がり、ところどころで笑い声が挟まった。語尾が曖昧に伸びるたびに、音声のボリュームが一瞬だけ上がった。


 再生バーを巻き戻すと、冒頭の言葉がまた流れた。


「今日も死にたくないなー」


 再び、巻き戻された。


 その声を、何度か繰り返し再生したあと、コメント欄にはただ、一行の文字を打ち込んだ。


──これを、言えるやつが、いちばんすごい。


 外では風の音がしていた。雨が降る前のような匂いが窓からわずかに漂っていた。


 無我はイヤホンを外さなかった。そのまま、静かな部屋の中で、何も再生しない画面を見つめていた。


1週間後


 終業式の日の朝、校庭には整列した生徒たちの影が等間隔に並んでいた。曇り空の下、旗は風もなく垂れていた。 校長の話は例年通りに長かった。話の区切れ目で数羽のカラスが屋根を横切った。拍手はなかった。 平無我は列の最後尾に立ち、前の生徒の背中をじっと見ていた。制服の襟がよれていた。話が終わると、拍子抜けしたような軽い拍手が一瞬だけ起きて、すぐに解散となった。


 その午後、彼は家でスマートフォンを開いた。通知はなかった。更新欄には何も表示されていなかった。

数日ぶりに開いたチャンネルには変化がなかった。動画の一覧も、再生リストもそのままだった。新しいサムネイルは一つもなかった。


 三日経ち、五日経った。検索結果に変化はなかった。関連アカウントの動きもなかった。


 彼は再生ボタンを押さなかった。ただ、画面をスクロールしては閉じた。履歴は静かに更新されないまま積もっていった。


 日付だけが進んだ。教室のカレンダーに赤い丸が増えた。


 放課後の昇降口で、誰かがこんなことを言った。


「最近、LOPE、上げないよな。燃え尽きた?」


 無我はその声に振り向かなかった。スニーカーの踵を踏んだまま、黙って外に出た。曇り空が低く張り出していた。


 その晩、彼はノートを開かなかった。イヤホンを挿しても何も再生しなかった。ベッドの上に寝転んだまま、天井の一点を見ていた。


 カーテンは閉めたままだった。

 風があったが、音はなかった。


 十日目の夕方、曇天は雨にはならず、ただ空気を重くした。部屋の中も静かだった。スマートフォンのバッテリーは20%を切っていた。 平無我は通知のないアプリを無造作に開き、関連動画の欄を何気なくスクロールした。 画面の中ほどに、小さなサムネイルが挟まっていた。白い背景に、手書き風の文字が滲んでいた。


《非公開音声|裏アカ|LOPE》


 再生時間は五分を切っていた。


 彼は画面を一度閉じかけてから、指を戻した。再生ボタンを押すと、少し荒れた空気の音が流れた。

動画の冒頭で、咳払いの音がした。続いて、声が始まった。


「最近さ……なんか、自分でも何喋ってるかよくわかんなくなってて」


 いつもより低く、小さな声だった。録音機器の質も違っていた。彼女の言葉は、間を多く挟んでいた。


「明るいキャラって、ずっと演じてると戻れなくなるね……」


沈黙。


 小さく椅子が軋む音がして、マイクが擦れた。声がまた続いた。


「あのテンション、実はかなり作ってるっていうか。でもそれ言ったら嫌われるかなって……」


 その言葉に、効果音もBGMもなかった。笑い声もなかった。


 音が止まる直前、少しだけ息を吸う音がした。それで動画は終わった。 再生バーが止まり、無音の画面が残された。 平無我はスマートフォンを伏せた。画面を下にして、机の上に置いた。指先はしばらく動かなかった。手の甲に冷えた空気が触れた。


 彼はコメント欄を開いた。


──知らなければよかったとは思わない。でも、知ってしまったから、たぶんもう、戻れない。


 窓の外では、風が木を揺らしていた。葉の擦れる音が、時おり部屋の隅に届いていた。


 音楽は流れていなかった。


 けれど、その静けさの中には、何かが確かに残っていた。



 部屋の照明は落とされていた。電源の切れたモニターが壁に自分の影を映していた。


 平無我は、机の上にスマートフォンを置いたまま、しばらく触れなかった。窓の外では車が一台だけ通り過ぎた。音は短かった。


 指が静かに動いた。ロックを解除し、別のアカウントに切り替えた。

 アイコンは何も設定されていなかった。名前も文字ではなかった。

「_」とだけ表示されていた。


 コメント欄は静かだった。古い動画に投稿された最近のコメントが、画面に縦一列で並んでいた。


「あなたの声が好きでした」

「今も聴いています」

「また戻ってきてほしい」


 無我は、言葉を打ち込んだ。 文は一行だった。打ち直しはなかった。


──あなたの声が、僕の中で鳴ってる。それだけで生きてる意味があるって、信じたかった。


 投稿ボタンを押したあと、通知設定を外した。アプリを閉じ、画面を真っ暗にした。 スマートフォンは伏せられた。部屋の空気は動かなかった。時計の針が音もなく進んでいた。 それでも、無我はしばらく身じろぎをしなかった。座ったまま、耳に触れた。


 イヤホンをつけた。 何も再生していなかった。


 沈黙の中で、彼は呼吸を一つだけ深く吐いた。 その吐息のあと、遠くの空に雷光が走ったが、音は届かなかった。 彼は立ち上がり、部屋を出た。階段をゆっくり降り、玄関まで行き、靴を履いた。ドアを開けると、外の空気が湿っていた。


 夜の街に人影はなかった。


 けれど、風が少しだけ吹いていた。


 歩いた。


 どこかで自転車のベルが鳴った。犬の吠える声が、二軒先の角から聞こえた。


 その音もすぐに消えた。


 彼は立ち止まり、耳を澄ませた。


 誰もいなかった。

 声もなかった。


 だが、ふとした瞬間、どこか遠くから音が届いたような気がした。

 それが何の音か、わからなかった。


ただ──


《誰もいなかった 最初から いたように見えただけ》


その一節が、風のように通り過ぎていった。


 彼は振り向かなかった。

 そのまま、また歩き出した。


LOVELESS PEACELESSの姿は、どこにもなかった。

けれど、いなかったからこそ、“推す”という行為は可能だった。


それは、

触れられない声を、

決して掴めないまま、それでも抱きしめようとする。


不器用で、確かで、言葉にはならないまま、

崇拝に近い行為だった。


彼の中にだけ在る音だった。

もう誰にも再生されない音だった。


それでもその声は、彼の中に、鳴っていた。


1ヶ月後


教室の窓はすべて開いていた。風が入り、カーテンが少し浮き、外のざわめが並んでいた。


《新曲 "STAY DEAD FOREVER" 4.19 配信開始》


 画面はすぐに消えた。彼は電源ボタンを押した。 ホーム画面に指が触れ、そこで止まった。次の動作に進まないまま、スマートフォンは指先の温度を受け取っていた。


 チャイムが鳴った。新しい教師が入ってきた。廊下の声が遠ざかり、ドアが閉まった。 席の周囲では、教科書の名前欄がめくられていた。筆記用具が揃えられ、何人かはまだ夏服のシャツの袖をまくっていた。


 無我は教科書を出さなかった。鞄のファスナーも開けなかった。


数時間後


 部屋の照明はつかなかった。窓は閉じられていた。カーテンも閉じていた。 彼はベッドの上で膝を立て、スマートフォンの画面を見つめていた。バッテリーは少なかった。 イヤホンを挿し、音楽アプリを開いた。新曲のジャケットには、シンプルなタイポグラフィと黒い影が描かれていた。 指が再生アイコンに触れた。


イントロは低く始まった。以前の楽曲よりも音が多く、密度があった。息継ぎの音がかき消されるほどに、声は背景と溶け合っていた。


《死にたいって言わないだけで 死にたいって思ってないわけじゃない》


 フレーズの終わりで、彼は微かに身体を動かした。 イヤホンのコードが揺れ、左側のイヤホンが一度だけ耳から外れた。すぐに戻された。 歌は続いた。 サビもブリッジも、感情の起伏はほとんどなかった。テンポは一定で、メロディには装飾がなかった。


 彼は再生中にスマートフォンを伏せた。画面の光は消え、コードだけが胸元を横切っていた。

 曲の終わりが近づいても、動きはなかった。そのまま、夜が過ぎた。


翌日


 昼休みの教室は、弁当と笑いと水筒と匂いに満ちていた。箸の音があちこちで響き、誰かの名前が何度も呼ばれていた。 椅子の足が床を擦る音が絶えず、話の途中で誰かが席を立つと、周囲がその動きを一瞬見送った。


 平無我は一人で弁当の蓋を外した。小さな米の粒が蓋に貼りついていたが、彼はそれを払わなかった。

隣の席では、赤いシュシュをした女子が弁当を広げていた。反対隣では、男子が動画を観ていた。イヤホンはつけていなかった。


「これ、観た? LOPEのやつ。昨日のインスタライブ。」


 誰かが言った。「泣けるやつ」「ガチだった」と続いた声に、別の声が「演技でしょ」と重なった。


「え、あれ素だよ」「絶対演技」「演技に見える演技って、逆に凄くない?」


 声が交錯した。笑いが追いかけてきた。 無我は箸を止めた。きんぴらごぼうの端が宙ぶらりんになり、箸の先から落ちかけた。


 動画の音が小さく流れた。


それは、LOVELESS PEACELESSの配信だった。画面の中で彼女は、照明の当たらない部屋で話していた。

「……ほんとはね、全部、怖かったんだよ」と声が言った。

 

 一瞬、周囲の笑いが止まった。すぐに戻った。


「やば、ガチ泣き」「でも泣いても可愛いとか、ずるいわー」


 無我はスマートフォンを出さなかった。音も画面も、ポケットの内側で沈黙していた。


 午後の授業が始まるまで、教室は騒がしかった。チャイムの一音目が鳴ると、空気が引き戻されたように一瞬だけ静まり、またざわめいた。


 放課後、彼は下校しなかった。体育館裏の段差に腰を下ろし、靴紐をいじっていた。

校庭にはもう人影はなかった。桜の花弁が地面に溜まり始めていたが、それを踏みつける人はなかった。


 スマートフォンの画面を開く。インスタのライブ履歴が残っていた。

 彼は再生ボタンを押さず、ただサムネイルを見ていた。


 サムネイルの中で、彼女のイラストは泣いていた。

 下を向いていたが、口元は笑っていた。涙が光り、背景のカーテンがほとんど閉まっていた。


 再生せずに画面を閉じた。

 イヤホンは挿していなかった。音楽も流さなかった。


 そのまま、靴紐を結び直した。結び目は無駄に固くなった。


 帰宅してからも、部屋の明かりは点けなかった。

 窓の外の街灯が、部屋の壁に細く光を走らせていた。

 

 机の上には、何枚かの印刷された歌詞カードがあった。彼はそれらを順番に並べた。

 古い順に。歌詞の変化を見つけるために。


 初期の曲には、明るさと絶望が交互にあった。

 最近の曲には、沈黙と諦めが残されていた。


 無我は、最後の一枚に目を止めた。

 そこにあった言葉は、彼が以前、コメント欄に書き込んだ言葉と酷似していた。


 彼女の声は、それを拾ったのか。真似たのか。演技に使ったのか。


 どれでもよかった。どれでも構わなかった。 けれど、自分の声が消費されたことだけは、たしかだった。


 彼は明日の支度を終えてから、机の上に一枚の紙を置いた。

 その紙には、歌詞ではなく、自分が書いた短い文章があった。


「全部演技だったんですね」


 それは誰に見せるでもないまま、部屋に置かれた。

 彼は制服のポケットにイヤホンを入れたが、その日は一度も使わなかった。


 投稿フォームの入力欄は、白く空白だった。カーソルだけが点滅していた。まるで、入力を待っているというより、言葉を強要してくるようだった。 部屋には冷房の音だけが漂っていた。 壁の時計が針を動かすたびに、小さく「カチ」と音を立てる。そのたびに、指は止まり、視線は入力欄から逸れていった。


平無我の手元には、スマートフォンとノートパソコンの両方があった。

スマートフォンの画面には、LOVELESS PEACELESSの最新動画。

タイトルはシンプルだった。『いつも応援ありがとう。』


 動画の再生は途中で止まっていた。

 彼女の声が、「ありがとう」と言った直後だった。画面の中の彼女は、軽く笑っていた。目元は腫れていた。 動画の時間は二十四分。再生されたのは、そのうち六分。


 彼は、手を止めたまま、数分間画面を見続けていた。


 カーソルはまだ点滅していた。

 彼はようやく、キーボードに手を置き、ゆっくりと一文を打ち始めた。


 あなたの涙は全部演技なんですか?


 一文だけだった。


 送信ボタンにカーソルを合わせ、少しの間止まってから、クリックした。


 確認画面は表示されなかった。

 「コメントを送信しました」の文字が、画面下部に浮かび上がった。


 無我は椅子にもたれかかった。

 動画はそのまま再生されず、ページは静まり返ったままだった。


 夜は深まっていた。部屋の外では、虫の声がわずかに聞こえていた。

 彼は画面を閉じ、パソコンを静かに閉じた。


 その日の夢を彼は覚えていなかった。

 ただ、翌朝、目覚めたとき、指先に力が入っていた。夢の中で何かを掴もうとした名残かもしれなかった。


 学校では、誰もその話をしなかった。

 彼の投稿は特定されていなかったし、誰の目にも留まらなかったかのようだった。


 それでも、彼の指はときおり震えた。

 ロッカーを開けるとき、教室の扉に触れるとき、プリントを受け取るとき。


 コメント欄を開いたのは、投稿から三日後だった。 そこには、数百のコメントが並んでいた。ほとんどが好意と慰めに満ちていた。


「ずっと応援してます」「あなたの強さに救われました」「これからも無理せず頑張って」


 彼の投稿も残っていた。

 返信はなかった。ただ、いくつかの「いいね」が付いていた。


 その数は、七だった。


 彼は画面を指でスクロールし続けた。何を探していたのかは、わからなかった。


 それから数日後、彼女がまた動画を投稿した。

 タイトルは『たまには、弱音を。』


 無我はその動画を再生しなかった。

 代わりに、もう一つコメントを投稿した。


 もうやめてください。見てられません。


 今回は、送信ボタンをすぐに押した。

 その指の動きに迷いはなかった。


 それでも、送信後の白い画面の冷たさは、指先を刺すようだった。


 夜、彼はパソコンを再び開き、過去の動画をいくつか再生した。

 初期の彼女は、もっと饒舌だった。もっと早口で、もっと無防備だった。


 編集の粗さ、音割れ、カメラの揺れ。

 無我はそれを「真実」だと感じていた頃を思い出した。


 だが、その「真実」は、どこから「演技」へ変わったのか。


 それは、彼にはわからなかった。


 演技が上達したからか。人気が出たからか。彼女が変わったからか。


 それとも、自分が変わったからか。


 朝になっても答えはなかった。

 彼は、制服に袖を通しながら、自分の胸ポケットを撫でた。


 そこにはイヤホンが入っていた。

 再生されることのない音声を、ただ忍ばせたまま。


 学校の門をくぐったとき、春の風が少しだけ強く吹いた。

 花びらがスカートの裾を揺らし、髪に絡まり、地面に貼りついていた。


***


 悪夢を観た無我は、口から血どころか魂すら飛び出そうな勢いで、父の元へ行ってしまいそうな勢いで飛び起きて、過呼吸気味になった。心臓あたりに手を当て、落ち着け落ち着けと、必死で自分に言い聞かせる。汗を拭う。無我は慰めが欲しかった。そして、重い瞼を鈍く閉じた。


翌朝


「最低だな」


 ベッドから重たい体を起こすなり、自己嫌悪に陥り、罪悪感に耽るのだった。


 無我は顔を顰めて、それを拭き取った。臭いまでは消せなかった。そして、それを拭き取った紙の首根っこを掴んで、宙ぶらりんにして、ただただ睨みつけた。

 無我は一瞥だけして、引き出しの奥からライターを取り出した。無我の父が欠かさず吸っていたタバコと同類の臭さは空に逝ってしまったはずだが、無我には香れた。無我は手先でぶら下げた塵紙と父の形見のライターを蔑視する。カチッと鉛が抜けた音がした。一瞬臆した。ほんの一瞬だけ。

 塵紙は燃える。跡形もなくなっていく。


「汚な」


 無我による、赤の絵の具と青の絵の具と少しの黄色の絵の具とちょっとだけの白の絵の具をぐちゃくちゃに混ぜ切った、ドス黒い想いでは、その言葉しか捻り出すことができなかった。







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