第一話 二回目の一目惚れ?
「綺麗なんだけど」
それは誰に聞かれることもない、ただ口から零れ落ちた言葉だった。入学式を終えて最初に発した一言がこれであることを、無我はすぐに悔やんだ。三年間の始まりにふさわしくない。彼はそう思った。だが、口は勝手に動いていた。可愛い、よりも先に浮かんだのが綺麗だった。その響きがどうしても口許に残り、彼自身を嘲る。
無我はかつてLOVELESS PEACELESSという顔出しNGのアーティストを推していた。頭文字を取ってLOPEと呼ばれるその存在の素顔を、幾度となく妄想した。今では黒歴史としか言えない代物だった。だが目の前に立つ少女は、その虚像の生き写しのように思えた。論理的な思考は存在しなかった。ただ激情が核爆発を起こし、体内で連鎖反応を起こし、どうしようもない永久機関となって少年を弄んでいた。
「もしかして、私に言った?え、ありがと〜!」
肩までの髪を半分結い上げたハーフアップの少女が振り返り、冗談めかした声で囃し立てた。息が止まった。無我は開いた口を閉じることもできず、言葉を詰まらせた。その様子を見て、少女はさらに声を重ねる。
「え、口籠らないでいいのよ?素直でいいじゃん!まあ、そういうとこも可愛いけどさ」
からかうような言い方だった。胸が触れるほど近づいてきた彼女には計算されたあざとさがわざとらしく混じっていた。無我は小さく拳を握りしめ、奥歯をかみしめる。高い声に過敏に身体が震える。その声はかつて推していたLOPEの声に、あまりにも酷似していた。
教室に再び静けさが戻る。自己紹介の時間が始まったのだ。担任に名前を呼ばれ、少女はふわりと立ち上がる。気だるげに歩みを進め、教壇に立つ。その姿はどこか覚束なく、それでいて舞台に上がる役者のようでもあった。少年の目には、彼女が天界から外界を見下ろしているように映った。
「愛無在音です」
その瞬間、無我の時間は止まった。水面に小石が投げ込まれたかのように、教室の空気に波紋が広がる。透き通った声だった。声量は控えめなのに、一言で世界を変えてしまうほどに強い響き、鋭さを含んでいた。無我の知る限り、こんな声を聞いたことがあるのは二人目だ。あるいは一人目かもしれない。もし愛無在音=LOPE本人であるのなら。
「趣味は絵を描くことです。一年間よろしくお願いします」
自己紹介はすぐに終わった。愛無はペコリとお辞儀をして、何事もなかったように少年の隣へ戻ってきた。少年の胸に残されたのは、判断のつかない動揺だった。彼女がLOPEなのかどうか。その問いに答えられないまま、ただ声に魅了され、思考が整理されぬまま時は流れた。
放課後を迎える。気づけば一日が終わっていた。彼は机に突っ伏すようにしてぼんやりと座っていた。
「何ぼーっとしてんの?」
隣から声が飛ぶ。彼は慌てて姿勢を正し、平常を装った。
「い、いやー別に何でも」
頬は赤らんでいた。彼は頭を冷やそうと深呼吸する。愛無の笑みを思い浮かべ、吐息とともにそれを消そうとした。ふっと自分を嘲りながら、詰まっていた息をようやく吐き出した。
「顔赤いけど、どしたの?あ、もしかして近すぎた?うぶなのにごめんね〜」
愛無は悪戯っぽく微笑む。少年は答えない。胸の内で整理をつけようとしていた。彼女がLOPEに似ているから好きなのか。それとも彼女自身の美しさに惹かれたのか。理由など、どちらでもよかった。議論する意味はなかった。ただ好きになってしまった。それが事実だった。だから身体を恋心に任せてしまおう。そう思った矢先、彼女の声がまた耳を打った。
その声は、かつての推しの声と重なった。思考の隙間に入り込み、余計な神経を刺激した。
少年は小さく呟いた。
「最悪だ」