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vol.56 いたずらと愛情と

「けいとさん……」


 テレビの夜が明けても、世界はまだ歌の中にいた。

 タイムラインもニュースも、「女王の帰還」だの「魂の告白」だの、そんな言葉で溢れている。

 でも、僕が欲しいのは称賛じゃない。

 あの歌の奥にあった、彼女の心の音。


 気づけば、マンションの廊下に立っていた。

 足音が響く。

 今日の鼓動がやけに大きい。

 インターホンを押す。

 短い電子音。


 返事はすぐだった。


 扉の先に、けいとさんがいる。

 昨日のステージの人と同じ顔なのに、ここでは光が柔らかい。

 僕の体から、力が抜けた。


「入って」


 それだけ言って、彼女は僕を中へ招いた。

 リビングの空気は、少し甘い。

 紅茶の残り香だろうか。

 理由は分からない。

 けど、安心した気もちだけは、先に分かる。


 僕は靴を脱ぐのももどかしくて、彼女の腕の中に飛び込む。

 昨夜の余韻と、会えたことの安堵が一緒になって、心臓が忙しい。


 けいとさんは、何も言わずに抱き返してくれた。

 強くもなく、弱くもなく。

 逃げ道だけは塞ぐ抱き方。

 その腕の中で、世界の音量が下がっていく。


 ソファに並んで座って、他愛ない話を少しする。

 それから彼女が、いたずらっぽく僕を覗き込む。

 子どもみたいな目をする時がある。

 テレビ越しでは見せない目。

 なんかずるい。


「私のこと、好きって言って?」


 顔が熱くなる。

 逃げたいのに逃げられない。


「……好き」


 自分の声が、情けないくらい小さい。

 けいとさんは首を傾げた。


「聞こえない!」


 僕は喉を整えて、もう一度。


「好き」


 彼女はふふっと笑い、耳に手を当てる仕草をした。


「なんか言った?」


 分かってる。

 分かっててやってる。

 でも、その意地悪が可愛くて、悔しい。


「好き!」


 今度は絞り出す。

 けいとさんは満足そうに頷き、採点するみたいに言う。


「よし!」


「なにそれ……」


 呆れたふりをして、僕は笑ってしまう。

 たぶん、これからずっと、この人にはかなわない。


 今度は僕の番。

 胸の奥を指でつつくみたいに、確かめたくなる。


「けいとさんは、僕のこと好き?」


 けいとさんはわざと腕を組み、考えるふりをする。


「どうかな〜」


 その一言で、胸がきゅっと縮む。

 自分がこんなに単純だってことが、ばれてしまうのが恥ずかしい。


「う〜ん」


 間が長い。

 僕の顔から、冗談に付き合う余裕が消えていく。


「好きじゃないかな……」


 世界が冷える。

 心臓が落ちていく感覚がして、目の奥が熱くなった。

 泣くつもりなんてなかったのに。

 視界が滲む。


 その瞬間、けいとさんが堪えきれないみたいに吹き出した。

 僕の頬を両手で挟み、笑顔で言う。


「なーんてね!

 好きじゃないよ。

 大好きだもん」


 それを聞いた途端、涙が決壊した。

 悔しい。

 嬉しい。

 怖かった。

 全部が一緒に溢れて、声にならない息が漏れる。


 けいとさんは僕の頭を撫でながら、くすくす笑う。


「ほんと、かわいい♪」


 心からすべて、まるごと抱きしめる声。

 僕はその腕の中で、やっと息を思い出す。


 少し落ち着いたころ、けいとさんが言った。


「私の歌、聴いてくれた?」


 僕は頷く。

 涙でぐしゃぐしゃのまま、正直に。


「うん……最高だった。

 でも、びっくりしたよ。

 あんな……僕たちのこと、歌にするなんて……」


 けいとさんは僕の頬を撫で、悪戯っぽく笑った。


「どうして分かったの?

 私が歌ってたのは『君』じゃなくて、どこかの『キミ』かもしれないじゃない」


「そういう意地悪言う……!」


 僕が拗ねると、彼女は少しだけ目を細めた。

 からかう目じゃない。

 まっすぐな目。


「私の歌は、いつだってけんたろうちゃんのためだけに歌うんだよ。

 ……伝わった?」


 言葉が胸に落ちて、静かに光る。

 僕は小さく、何度も頷いた。

 声を出したらまた泣きそうだった。


 けいとさんは、涙の跡を指で拭って、微笑む。


「天使は今、舞い降りてるかな?」


 僕は彼女の瞳を見つめた。

 答えはひとつしかない。


「きっとそこで見てるんじゃない?」


 それ以上は言わなかった。

 言う必要がなかった。


 僕たちは、どちらからともなく体を寄せ合う。

 窓の外で夕焼けが滲んで、部屋の輪郭を柔らかく溶かしていく。

 二人の影が重なり、ひとつになる。


 なぜだろう。

 言えなかった言葉がひとつ、胸の底で光った気がした。


 世界が遠のく。

 代わりに、彼女の呼吸だけが近づく。

 僕は、その温かさの中で、昨夜の歌がまだ終わっていないことを知った。

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