vol.36 歌姫の裏面トラック
一条零に促され、僕はプライベートスタジオのソファに腰を下ろした。
まだ顔を明かすわけにはいかない。
「一条さん、ごめんなさい。
まだ、サングラスは外せないんです…」
申し訳なさそうにそう告げると、一条零はふわりと微笑んだ。
それは、先ほど街で見せた無邪気な笑顔とは違う。
すべてを受け入れるような、穏やかで深い光。
「いいんです。
それは、あなたが守らなければならない大切なものなのでしょう?」
その一言で、張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ。
一条零は、僕の事情を察するだけではない。
理解しようとしてくれている。
その姿勢が、静かに胸に染みた。
「でも、こうして近くでお話しすると…
もしかして、私よりずっとお若い…?」
真っ直ぐな瞳が、サングラスの奥を探るように見つめる。
熱い視線に、少しだけ言葉を選んだ。
「詳しくは言えないんですけど、一条さんの方が、お姉さんかな…?」
僕の言葉を聞いた途端、一条零は「えええ!」と、まるで年相応の女の子のように声を上げた。
そのリアクションに、僕の方が驚いてしまう。
「お若いのは感じていたけど…こんなに若いなんて…!
かわいい…♪」
彼女の言葉に、僕は動揺を隠せない。
こんな一条零は、見たことがない。
いつもはクールで神秘的で、近寄りがたいオーラを纏っていた彼女が、まるで無邪気な少女のように笑い、僕を「かわいい」と評する。
その意外な一面に、僕の心臓は不覚にも高鳴った。
それから僕たちは、時間を忘れて語り合った。
一条零は、僕の曲に込められた想いや、音楽を通して何を伝えたいのかを熱心に尋ねてきた。
作曲や作詞のプロセス。
音楽に込めるメッセージ。
音楽を通して何を伝えたいのか。
どうしてその和音を選んだのか。
どんな景色を見せたかったのか。
そして、アーティストとしての葛藤や喜び。
あらゆるテーマについて、僕たちは言葉を交わした。
驚くべきことに、彼女は僕が言葉にする前から、僕の音楽の深部にある感情を、正確に理解していた。
「あなたのメロディは、深海の孤独。
暗くて、冷たくて……
でも、誰かに見つけてほしくて必死に光っている」
「特に『あなたは知らない』のBメロ。
あの一瞬の転調は、叫びでしょう?
『少しだけでいい、僕を見て』という、祈りのような」
鳥肌が立った。
彼女は僕の楽譜を読んだわけではない。
ただ音を聴いただけで、僕が五線譜の隙間に隠した「孤独」を、正確につまみ上げてみせたのだ。
議論は熱を帯び、共鳴し、加速する。
僕が「A」と言えば、彼女は即座に「Aダッシュ、あるいはB」と返してくる。
思考の速度が合う。
感性の波長が合う。
あぁ、楽しい。
なんて、恐ろしいほどに心地いいんだろう。
(ああ、この話を、本当はけいとさんとしたかった。
僕のこの寂しさを、一番に理解してほしかっただけのに……)
ふいに、冷や水を浴びせられたように思考が止まる。
僕が一番理解してほしかった寂しさを、恋人ではなく、この歌姫が解き明かしてしまっている事実。
それは、裏切りではないのか。
僕の微かな陰りを見逃さなかったのか、零がふっと表情を緩めた。
「けんたろうさん…いえ、けんたろうくん、と呼ぼうっと」
その瞬間、僕の心臓はドキリと跳ねた。
神聖なオーラを纏うはずの彼女の、少女のような無邪気な表情。そのギャップに、思わず動揺してしまう。
「ねぇ、けんたろうくん。
どうして、あんなにも魂を削った音楽を創れるのですか?
何を犠牲にして、誰のために歌っているのですか?」
一条零の問いかけは、僕の心の最も深い部分に、触れるものだった。
正直に答えるべきか一瞬迷う。
しかし、彼女の真剣な瞳に、ごまかしは通用しないと感じた。
「どうしても、追いかけたい人がいるんです…
その人に追いつきたくて、もっと自分の音楽を届けたくて…」
僕の言葉に、一条零は少しだけ顔を伏せた。
考え込むように、沈黙した。
その表情には、どこか複雑な感情が滲んでいるように見えた。
そして、ゆっくりと顔を上げた彼女の口から、僕が一番触れられたくなかった名前が、静かに落ちる。
「…その方というのは、もしかして、Midnight Verdictの……けいとさん、ですか?」
全身が、凍り付いた。
どうして。
どうして、一条零が。
肯定も否定もできない。
ただ目を見開いて硬直する僕の姿が、何よりの答えだった。
そんな僕の反応を見て、一条零はふわりと微笑んだ。
その表情は、僕のすべてを「知っている」とでも言うかのようだった。
「Midnight Verdictの音楽と、あなたの音楽。
音の粒子が、呼び合っているような響きがありました。」
「これで、すべて理解できました。
あなたの音楽の根源にある情熱、そしてその魂の叫びの意味が。
そして、あなたがこれまでサングラスの奥に隠してきたものが」
彼女は、僕の秘密を知ったことに一切の動揺を見せず、むしろ穏やかな口調で続けた。
「ご安心ください。
お二人の関係は、誰にも言いません。
あなたの音楽に、けいとさんの音楽に、そしてMidnight Verdictの活動に、私が余計な悪影響を及ぼすようなことは望みません」
その言葉に、僕は安堵と同時に、一条零という人間の持つ器の大きさに、ただただ圧倒された。
「それでも、あなたの作った曲を、私が歌える日が必ず来ると信じています。
その日が来るまで、私もあなたの音楽を追いかけ続けますから…
覚悟してくださいね」
そして、最後に彼女は、いたずらっぽく僕に視線を向けた。
「…けんたろうくんは、年上好きなのね。
ふふ。
私にも、チャンスあるかな?」
その言葉に、僕はまたしても動揺する。
冗談めかしているのはわかるが、あまりにもストレートで、まるで神聖な存在だったはずの彼女とのギャップに、僕は困惑するしかなかった。
「あの、一条さん…!
どうしてあなたは、あんなに神聖な雰囲気なのに、今は全然違うんですか?」
僕が思わず尋ねると、一条零は楽しそうにクスクスと笑った。
「ふふ。
それはね、けんたろうくん。
私は、あなたの音楽の前では、ただの『一条零』だからですよ。
あなたの音楽は、私の心の鎧を、あっという間に剥がしてしまうんです。
それに…」
彼女はそこで言葉を区切り、僕のサングラスの奥を覗き込むように、真っ直ぐに視線を合わせた。
「…誰にも言えない秘密を共有できる相手といると、人は少しだけ、素顔を見せてしまうものなんですよ。」
その言葉に、僕の顔はみるみる熱くなった。
完全に一本取られてしまった感覚だ。
僕は、ただただ困惑するしかなかった。
会話を終え、僕は一条零とのプライベートスタジオを後にし、帰路についた。
けいとさんは僕を愛してくれている。
でも、僕の理解してほしい孤独な部分を、本当に理解してくれているだろうか。
一条零のように、僕の魂の奥底にある想いを、言葉にする前から察してくれるだろうか。
そんなことを考えてしまう自分に、吐き気がするほどの罪悪感を覚える。
見上げた夜空には、月も星もなく、ただ無限の闇が広がっていた。
僕の音楽は、僕の人生を、どこへ導いていくのか。




