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vol.35 女王の崩壊

 目の前の光景が、けいとの脳裏に焼き付いて離れなかった。

 サングラスをかけた、彼の姿。

 その隣で、まるで普通の少女のように無邪気に笑う一条零。

 ミステリアスで、神聖で、誰も近づけないはずだった歌姫。

 その彼女が、私の知らない顔で、笑っている。


 二人の関係性は?

 問うことすら、怖い。


 どこへ向かうのかさえ分からない。

 ただ、その背中が遠ざかっていくのを見送るしかなかった。


「行きましょ…」


 声が、震えた。

 自分の声だと、一瞬分からなかった。


 あやが息を呑み、さやかが私の顔を覗き込む気配がした。

 けれど、視界が歪んでうまく焦点が合わない。


 絶望した。


 なぜ?


 なぜ?


 そんなはずは。


 ・・・言葉が出てこない。


 Midnight Verdictを選び、彼から手を離したのは私だ。

 成功という階段を駆け上がりながら、私はどこかで信じていたのだ。

 彼だけは、踊り場で私を待っていてくれると。

 会える時間がなくても。

 私が彼を突き放しても。

 それでも彼は、私を追いかけてくれるものだと――

 どこかで、傲慢にも、当たり前のように信じていたのかもしれない。


 それが、裏切られた。


 いや、違う。

 裏切ったのは、私の方だ。


 私の、傲慢が。

 この結果を、招いた。

 私が、彼を――


 あの時、「寂しい」と、ただ一言、素直に言えていたら……


 思考がそこで途切れ、熱いものがこみ上げてくる。

 膝に力が入らない。

 両手で顔を覆う。

 涙が、指の隙間からこぼれ落ちた。


 さやかが隣に膝をつく。

「大丈夫」と言う声が、震えている。


 あやが背中に手を当てる。

 支えようとしている。


 でも、もう。


 何も考えられなかった。


 ♪ ♪ ♪


 涙のしずくが地面に吸い込まれた、その刹那。


 僕と一条零が向かった場所は、街の喧騒から離れた、ひっそりとした路地の奥。

 古いレンガ造りの建物の前にたどり着くと、一条零は僕を促すように中へと入っていった。

 そこは、表からは想像もつかないほど静かで、しかし上質なプライベートスタジオだった。

 最新の機材が整然と並ぶ中、部屋の中央には、使い込まれた跡のある、美しい木目のグランドピアノが静かに鎮座している。

 壁の一角には、クラシックから最新のエレクトロニカまで、膨大な数のレコードが図書館のように並んでいた。

 彼女の完璧な音楽は、突然空から降ってきたわけではない。

 地道な探求心と、楽器への深い愛情と、膨大な試行錯誤。

 この空間のすべてが、そのことを雄弁に物語っていた。


 背筋を這い上がるような背徳感。

 胸の奥で微かに疼く、誰かを傷つけているかもしれないという予感。

 けれど、それらをすべてねじ伏せてしまうほど、音楽家としての本能が歓喜に震えていた。


 一条零が、無言のまま奥へと僕を招く。

 なぜ、僕をここへ連れてきたのか。

 その真意は、まだ分からない。

 ただ、この静謐な空間で、僕の音楽を誰よりも正確に、そして残酷なまでに美しく理解したこの歌姫と、二人きりでいる。

 その事実だけが、背徳的なほどの緊張と、ほんの少しの期待を連れてきていた。


 僕と一条零の間の空気が、もう以前とは違うものに変わってしまったことだけは、確かだった。

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