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vol.34 残酷な微笑

 一条零。


 芸術と神話の境界にいる、唯一無二のアーティスト。

 彼女の歌は神託であり、その存在は、音楽シーンにおける絶対的な「正解」そのもの。


 Rogue Soundの事務所が入る、古びた雑居ビル。

 ひび割れたコンクリートの階段を、場違いなほど洗練された一対のヒールの音が静かに上っていく。


 現れたのは、一条零。


 深い夜をそのまま織り込んだような、深紺のシンプルなコート。

 裾から覗く膝丈のプリーツスカートが、彼女の輪郭を柔らかく縁取っている。

 わずかな空調の風にも上品に揺れ、控えめな影を床に落とす。

 その立ち姿に宿る凛とした品格が、貼り紙だらけの壁や安っぽい蛍光灯さえも、一瞬だけ「舞台装置」に変えてしまう。


 迷いも淀みもない、定められた祭壇へと向かう巫女の足取り。

 確信に満ちたヒールの音だけが、このビルの時間をゆっくりと押し上げていく。


 事務所のドアが、そっと音もなく開いた。

 その瞬間、佐久良綾音は、言葉より先に全身で「事態」を理解した。

 呼吸が止まる。

 筋肉が動かない。


「い、一条……様……!」


 綾音はいつの間にか、立ち上がっていた。

 全身で警戒を露わにする。

 先日の、あの訪問。

 けんたろうの魂の在り処を、いとも容易く言い当ててみせた歌姫。

 今度は何を。

 何を奪いに来た。


「突然の訪問、大変失礼いたします。

 先日、お時間をいただきました一条でございます」


 綾音は一歩、前へ出る。

 背後に隠すべき秘密――けんたろう。

 けんたろうという「爆弾」を、この巫女に触れさせるわけにはいかない。



 事務所の対角、ガラス越しの奥の部屋。

 ユージは空気の密度が変わった瞬間に気づいた。

 息を呑む。

 けんたろうをラックの死角へ押しやる。

 指先で「待て」と合図する。

 視線は綾音、社長、そして入口へ激しく往復する。

 動悸が一発、強く、痛いほど。


 綾音はマネージャーとしての全神経を集中させる。


「一条様。

 わざわざご足労いただき恐縮です。

 ですが、あいにく本日、担当の者は不在でして……。

 どのようなご用件でしたでしょうか。

 私でよろしければ、責任をもってお伝えいたしますが」


 どんな手を使っても、この巫女をけんたろうに会わせてはならない。

 綾音のプロフェッショナルな抵抗。

 綾音がどうにかお引き取り願おうとした、その時だった。


「…会わせてください!」


 震えた声が、事務所の奥から響いた。

 それは、絞り出すような咆哮。

 その声の主は、けんたろうだった。

 けいとへの裏切りという罪悪感が、胸を焦がす。

 それでも、自分の音楽を、魂の奥底まで理解してくれたこの人と話さなければ、もう前に進めないという焦燥感。


 だがそれ以上に、自身の音楽の深淵を覗き込んだこの「理解者」への渇望が、理性を焼き尽くしていたのだ。


「僕も……一条さんに、会いたいです」


 その一言が落ちた瞬間、それまで一条零の全身を包んでいた氷のようなオーラが、ふわりと溶けた。

 クールでミステリアスな「歌姫」の仮面が剥がれ落ち、そこには、ただひたすらに純粋な喜びを浮かべた、一人の少女の笑顔があった。

 そこに現れたのは、歌姫ではない。

 崩れた仮面。

 あまりにも無防備純粋さ。


「スーパープロデューサー!」


 綾音の悲鳴。

 ユージの絶句。

 社長の苦渋の唸り声。

 それら全てを置き去りにして、零の瞳はけんたろうだけを映している。


「…公にはまだ秘匿している存在だ。どうするべきか…」


 一条零が口を開く。

 その瞳は、けんたろうだけを見つめる。


「もし差し支えなければ、二人きりで、静かな場所へ。

 少しだけ、お話がしたいのです」


 その瞳の引力に、抗える者などいなかった。

 けんたろうの顔を隠すこと。

 それが、許された唯一の条件だった。


 ♪ ♪ ♪


 事務所のドアが開く。

 変装したけんたろうと、その隣に並ぶ一条零が、薄暗い廊下から外気へと足を踏み出す。

 そこにいるのは、ステージの上で神託を降ろす巫女ではなかった。

 一条零は、もはや神聖なオーラをまとっていない。


 けんたろうと一条零がビルを出て、歩き出した。


 一台のタクシーが、ビルの前で静かに停まった。

 ドアが開き、Midnight Verdictのけいと、あや、さやかが降りてくる。

 先頭を歩くあやが、スマホの地図と目の前のビルを見比べる。


「けいと、ここだよね、Rogue Soundって…」


 あやが顔を上げた、その視線の先に。

 心配そうにけいとの顔を覗き込む、さやかの瞳に。

 そして、不安と、ほんの少しの希望を胸に、ようやく顔を上げた、けいとの目に――


 ――それが、映ってしまった。


 サングラスとマスクで顔を隠していても、見間違えるはずのない、愛しい人の姿。

 そして、その隣で、今までテレビでも雑誌でも、一度たりとも見たことのない、無防備で、あまりにも柔らかな笑顔を浮かべる、一条零の横顔が。


 けんたろうと一条零は、路地を曲がり視界から消えていく。


 時間が、止まった。


 その微笑は、けいとの世界を静かに、決定的に、壊した。


 街の喧騒も、メンバーの声も、全てが色を失い、遠のいていく。

 けいとの世界には、ただ、幸せそうに笑い合う二人の姿だけが、残酷なほど鮮やかな映像となって、網膜に焼き付いた。


 ドクン、と心臓が一度だけ大きく跳ねて、あとは氷のように冷たくなっていく。

 痛みはない。

 ただ、吸い込んだ空気が、どこにも届かずに漏れていく感覚。


 膝から力が抜けていく。

 立っているのか、崩れ落ちているのか、もう分からない。

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