vol.25 苦い決意
渋谷の熱が、まだ皮膚に残っている。
だが、Rogue Soundの小さな事務所は、妙に冷えていた。
パーテーションで区切られただけの簡素な打ち合わせスペース。
安いテーブルを挟んで、けんたろうとユージが向かい合っている。
薄い壁の向こうでは、キーボードを叩く音。
綾音さんが何かの資料をまとめているのだろう。
「なぁ、一条零、どうすんだよ?」
ユージの声が低い。
日本の頂点からの、あまりに真っ直ぐなラブコール。
無視できるはずもなかった。
「……わかんない」
俯いたまま、けんたろうは呟く。
「俺たちも最初は、追いかける側だったもんな」
ユージが遠い目をした。
「けいとちゃんとあやがデビューして、向こうから距離を置いていった。
あの時は、マジで寂しかったよ」
スターになった恋人たちが、自分たちを守るように離れていった、あの日。
「でも、お前が『バンド作って、追いかけよう』って言った時、最高だと思ったぜ。
……少しくらいは、追いついてきたって思っても、いいよな」
ユージの声に誇りが滲む。
Synaptic Drive。
匿名のインディーバンドだった彼らは、いまやMidnight Verdictの名と並べて語られることもある。
「で、どうなんだよ」
急に、ユージが目の前にピントを戻す。
「けいとちゃんとは、うまくいってるのか?
俺はまあ、あやとは……それなり。
最近ちょい怒られてるけどな」
その問いに、けんたろうの表情が曇る。
すれ違う心。
会えない時間。
募る孤独。
「それで……『あなたは知らない』ができたんだ」
力なく笑った声が、パーテーション一枚の向こう側まで届いていた。
――Midnight Verdictのメンバーが、恋人?
綾音は、モニターの文字を見つめたまま、手を止めた。
あの叫ぶような歌が、単なるフィクションじゃなく、たったひとりの女性に向けられたものだったなんて。
その相手が―――
胸の奥が、熱くなる。
嫉妬か、羨望か、感動か――
編集していたメールの文面が、急にどうでもよくなった。
椅子を蹴るように立ち上がり、パーテーションの影から顔を出す。
「ねぇ、ユージくん、けんたろうくん」
ふたりがビクリとこちらを向く。
綾音は、あえて、さらりとした口調を選んだ。
「さっきのけいととかあやって……
今をときめくMidnight Verdictみたいね?」
探るような声に、二人は顔を見合わせた。
「そう……なんだ」
ユージが観念したように答えた瞬間。
「えええええええええええええ!!!」
悲鳴にも似た声が、狭いオフィスを揺らした。
隣の社長室のドアが、内側から突き破られそうな勢いで開く。
「ど、どうしたんだい綾音くん!?」
シャツの裾をズボンから出したままの社長が、転がるように飛び込んでくる。
「社長……!」
振り向いた綾音の焦点はどこかへ飛んでいき、目は潤んでいた。
「けんたろうくんとユージくんが……!
Midnight Verdictの、けいとさんとあやさんが――
その、その、そういう関係で!!」
言い終わる前に、社長の膝から力が抜けた。
「な、なんだってえええええ!!」
薄いカーペットに尻もちをつき、そのまま崩れ落ちる。
顔色から、一枚一枚、色が剥がれていく。
弱小レーベルの頭を、現実的なリスクが一気に走り抜けた。
国民的ガールズユーロビートバンド。
大手事務所の圧力。
スポンサー撤退。
週刊誌の見出し。
ネット炎上。
そして、一番小さなフォントで書かれた、決定的な宣告。
——倒産。
「ど、どうするんだい綾音くん!
メディア対応は!?
うちは、火消しなんてできないぞ……!」
早口でまくし立てる社長を、綾音は正面から見据えた。
「私が守ります。彼らを――
彼らの音楽を、絶対に」
マネージャーの覚悟が、震える声に宿る。
「なんとかなるっしょ!」
ユージが、いつもの調子で軽く言う。
「ならないわよー!!」
間髪入れずに飛んだ綾音のツッコミで、ほんの少しだけ場の緊張が弾ける。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
誰も、次の一手を言い出せないまま、数秒が長く伸びた。
――誰かが、何か言わなくちゃいけない。
沈黙を破ったのは、テーブルの木目をじっと見つめていた、けんたろうだった。
「僕が……けいとさんと距離を取ります」
全員の視線が突き刺さる。
彼女を守るため。
そう言い訳しているだけで、本当は――あの夜から続く気まずさから、ただ逃げたいだけなのかもしれない。
本当に、それでいいのか?
答えの出ない問いを胸にしまい込み、彼は唇を結んだ。
その時、綾音がふと呟いた。
「でも……数日後のテレビ、一条零さんとMidnight Verdictの初共演でしょ?」
ユージが目を輝かせた。
「今ノリにノってんの、Midnight Verdictだろ。
マジで一条零ひっくり返すかもな」
けんたろうは何も言わなかった。
ただ心の中で、けいとの勝利を願った。
これから距離を置くことになる。
もう隣にいられないかもしれない。
それでも、彼女には勝ってほしい。
その切なさが―――
暗い砂の中で、まだ言葉にならないメロディで鳴っている。




