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vol.243 Crimson Kiss

 旅館に戻る廊下は、畳と湯気の匂いがする。

 箱根の匂い。

 ここ数日で、少しだけ好きになった匂い。


「……結局、何日いたんだっけ」


 ユージが鍵を回しながら言う。


「四泊目ですよ」


 綾音さんが即答した。


 夜。

 旅館の畳の上で足を伸ばす。

 数日前、死にそうな顔で東京を出たのが嘘みたいに平和だ。


「なあ、けんたろう。

 ゆっくりできてるか?」


 ユージがあぐらをかいて尋ねてくる。

 僕は深くうなずく。


「うん。

 だいぶ、体が軽くなったよ。

 頭の中も……軽くなったかな?」


「そっか、よかった」


 ユージが心底安堵したように息を吐く。

 この温かい空間があれば、僕はもう一度立ち上がれる。

 そう信じ始めていた。


「お、時間だ。

 『ミュージック・フォレスト』見よーぜ」


 ユージがリモコンを操作する。

 パッ。

 画面が光り、スタジオが毒々しい赤と青のライトに染まっている。


『緊急生出演!

 大型新人、Crimson Kissの登場です!』


「……あれ?」


 イントロが流れた瞬間、僕の耳が反応する。

 歪んだシンセ。

 独特のグリッド感。


「この曲……聴いたことある」


「え?

 まさか。

 これ、今日が初披露のデビュー曲ですよ?」


 綾音さんが首を傾げる横で、ユージが身を乗り出した。


 画面には、妖艶な衣装をまとった二人の女性。

 燃えるような赤のミナ。

 冷たく睨むようなブルーのリサ。


「こりゃー男はみんな好きだぞ!

 スタイル抜群!

 目の保養以外の何物でもねーだろ!」


「……確かに。

 このビジュアルと雰囲気、嫌でも目を引きますね。

 これは売れそうです」


 二人は視聴者として興奮している。

 けれど僕は、画面から目を離せなかった。

 ベースが入る。

 16分音符ひとつ分、後ろにズレたシンコペーション。

 間違いない。

 僕が、言った通り。


 二人が歌い出す。

 リサの氷のような低音と、ミナの甘く絡みつく高音。

 相反する二つの声が、歪んだトラックの上で強烈な化学反応を起こしている。

 計算され尽くした色気。

 カメラワークすら味方につけて踊る。


「……なんだこれ。

 ただのアイドルじゃねえな」


 ユージの声から笑みが消えた。


「音がえげつねえ。

 わざと気持ち悪くして中毒性を作ってやがる。

 ……すげえセンスだ」


 ユージの分析が胸を刺す。

 そうだよ。

 その「えげつなさ」の種を撒いたのは、僕だ。


 曲が終わる。

 画面が切り替わり、二人のアップ。

 赤と青が、カメラを刺す。


 司会者が笑う。


『Crimson Kissさん、デビューおめでとうございます!

 最後に一言——』


「はじめまして、Crimson Kissです。

 ……ねえ、リサ。

 今日の他の出演者、いなかったけど……最近の音楽シーン、どう思う?」


「……」


 青のリサは、冷たく睨む。


「そうね。

 なんか……お遊戯会みたいだわ」


 リサが冷ややかに言い放つ。

 スタジオがざわめく。

 旅館の部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。


「例えばDream Jumps?

 あんなピュアピュアな笑顔で、大人の世界が渡っていけるとでも思ってるの?

 私たちの前では、幼稚園児にしか見えないわ」


「Midnight Verdictもそう。

 クールで知的な美人?

 ふん、ただ気取ってるだけでしょ。

 私たちの炎で、その厚化粧ごと溶かしてあげる」


 ユージの手の中で、ビールの缶がギシッと音を立てて歪んだ。


「……言いやがったな」


 画面の中の二人は止まらない。


「一条零。

 芸術って言葉に隠れてない?

 こっちは全部晒して勝つから」


「そして……Synaptic Drive。

 天才だとか持てはやされてるみたいだけど。

 私たちが踏み台にしてあげる」


 ドキリとした。

 僕のアドバイスをバラされる——?

 だが、ミナは妖艶に微笑んだだけだった。


「せいぜい良い曲書いて待ってなさいよ。

 どうせすぐに、私たちに貢ぎたくてたまらなくなるんだから!」


 ウインク。


「メロメロにしてあげる。

 覚悟、してて?」


 テレビの中の二人は笑っている。

 でも、その笑みは愛嬌じゃない。

 宣戦布告。

 CMへ。

 旅館の部屋に、重苦しい沈黙が落ちた。


 ユージは無言でテレビを消した。

 怒りで肩が震えている。

 でも、僕の心にあったのは、怒りよりも深く、暗い絶望だった。

 彼女たちは隠した。

 「自分たちの実力」として、僕の技術を盗んだまま、世界へ打って出た。


(僕が、武器を渡してしまった……)


 僕は今まで、誰かを幸せにしたくて音を紡いできたはずだった。

 なのに。

 僕の感性が、今は大切な仲間たちを傷つけるための刃として使われている。


「……けんたろう」


 ユージが低く唸るように言った。

 僕は顔を上げられなかった。

 鬱の霧は晴れていない。

 むしろ、もっと濃い闇が足元に広がった気がする。

 逃げたい。

 だって僕は病気なんだから。


 ……でも。


 ドクン。

 心臓が、痛いくらいに打つ。


 このままじゃいけない。

 僕が撒いた種なら、僕が刈り取らなきゃいけない。

 僕の音楽が、誰かを不幸にする道具に使われたまま終わるなんて。

 死んでも許せない。


(……戦わなきゃ)


 僕の「鬱」は、まだそこにある。

 体はまだ鉛のように重い。

 指先も震えている。

 それでも、魂の奥底についた火だけは消せない。

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