vol.241 深紅の宣戦布告
箱根の夜は深い。
だが、この一室だけは異様な熱気に包まれていた。
MacBookの画面には、生まれ変わった『Scarlet Desire』の波形が表示されている。
元アイドルであり、現在は辣腕プロデューサーの美咲は、グラスに残った赤ワインを揺らしながら、目の前の二人に問いかけた。
「いい?
今の音楽業界を分析するわよ」
彼女は長い指を一本ずつ立てた。
「Midnight Verdict。
圧倒的なパフォーマンスと『カッコよさ』で市場を制圧している。
Dream Jumps。
弾けるような明るさと『元気』で大衆を味方につけた。
一条零。
孤高の『芸術性』。
そして、Synaptic Drive。
魂を揺さぶる『魂』」
一呼吸置いて、口角が上がる。
「みんな、素晴らしいわ。
でもね、一つだけポッカリと空いている席がある。
分かる?」
長身のリサが、艶のある黒髪をかき上げて答える。
「……セクシー、ですよね」
「正解」
美咲が指を鳴らす。
「清純?
元気?
そんなのは子供たちに遊ばせておけばいい。
大衆はね、心のどこかで『毒』を欲しているのよ。
見てはいけないものを見たいという、背徳感。
そこが私たちのブルーオーシャンよ」
美咲の視線が、二人を射抜く。
リサ。
モデル並みの長身と、息をのむような曲線美。
動く彫刻のような妖艶さ。
ミナ。
小柄で童顔。
なのに目が合うと吸い込まれるような小悪魔的な引力。
このアンバランスな二人が並ぶだけで、そこには物語が生まれる。
「ユニット名は『Crimson Kiss』。
あなたたちは、優等生じゃない。
愛想も振りまかない。
ただ、そのフェロモンで男どもをひざまづかせる『ヒール』になりなさい」
ミナが舌なめずりをした。
「ヒールかぁ。
いいっすね。
いい子ちゃん演じるの、疲れるし」
「私たちで、その空いた席……奪い取るんですね」
リサの瞳にも、静かな野心が灯る。
美咲は満足げに頷き、再生ボタンを押した。
スピーカーから、あの少年——けんたろうの手によって凶暴化した『Scarlet Desire』が流れる。
低音が、獲物を狙う足音みたいに近づいてくる。
♪ ♪ ♪
美咲はテラスに出ると、スマートフォンを取り出した。
画面には「社長」の文字。
時刻は深夜。
躊躇はない。
『……なんだ美咲くん。こんな時間に』
不機嫌そうな社長の声。
だが美咲の声は、かつてステージで数万人を熱狂させた時よりも、高く、冷たく弾んでいた。
「社長。
プロモーション計画、全部書き換えてください。
当初の『可愛い小悪魔路線』じゃ弱すぎます」
『はあ?
もう枠は押さえてあるんだぞ。
それに、デビューは来週……』
美咲が力強くさえぎる。
「キャンセルして、もっとゴールデンにぶち込んでください。
……デビュー曲が、化けたんです」
『化けた?』
美咲は眼下に広がる闇を見下ろす。
ククク、と喉の奥で笑う。
「ええ。
『聴く』んじゃない。
『刺さる』曲になりました。
一度聴けば、耳から離れない。
致死量ギリギリの、中毒みたいなものです」
『曲をいじったのか』
「そんなことより社長、予算です。
倍、用意してください。
MVのクオリティも、広告の露出量も、全部です」
『倍だと!?
正気か』
「回収なんて一瞬で終わります。
Crimson Kissが動けば、生ぬるいアイドルごっこは終わりです。
今の平和なランキングを……真っ赤な血の色に染め変えてみせますよ」
通話を切る。
美咲は夜空を見上げた。
星はない。
底の見えない闇だけ。
けれど、その闇は怖くなかった。
むしろ居心地がいい。
あの少年は、自分が何をしたか分かっていないだろう。
彼はただの親切心で、迷い込んだ野良猫に餌をやったつもりかもしれない。
でも、餌を口にした猫は、もう同じ猫ではなかった。
「……さあ、戦争の時間よ」
美咲はグラスの赤ワインを一息に飲み干した。
その唇は、ユニット名と同じ、鮮烈な深紅に染まっていた。




