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vol.240 神様の置き土産

 旅館の部屋に戻るなり、美咲は浴衣の袖をまくってMacBookを開く。

 迷子の少年が残した言葉。

 あれは妄言か。

 今は指先だけが熱い。


「……何だったの、あの子」


 リサが畳に座り込み、ため息をつく。


「美咲さん。

 本当にやるんですかぁ?」


 ミナは缶チューハイをテーブルに置き、さっきの闇を思い出して軽口を叩く。


 美咲はサングラスを外し、40代とは思えない鋭い眼光で二人を制す。


「試すだけよ。

 もしデタラメだったら、笑い話にして忘れればいい」


 美咲はDAWソフトを立ち上げ、デビュー曲『ScarletDesire』のプロジェクトファイルを開いた。

 少年の指示は、録音された音声のように脳内で再生された。


 ——イントロのシンセ。

 EQで低域を削り、薄く歪ませる。

 ——ベースライン。

 グリッドから16分音符ひとつ分、後ろへズラす。

 ——サビのボーカル。

 リバーブとディレイで残響を深く埋める。


 作業時間はわずか10分。

 修正とも言えない、些細なマイナーチェンジ。


「……再生するわよ」


 美咲がスペースキーを叩く。

 ドンッ……!

 スピーカーから音が飛び出した瞬間、部屋の空気が変わった。


 違う。

 同じメロディ、同じ歌詞なのに、「殺傷能力」がまるで違う。

 ザラついたシンセが神経を逆撫でし、ズレたベースが心臓を無理やり掴んで揺さぶる。

 空間に溶けた声は、色気というより「毒気」を帯びていた。


 曲が終わっても、3人はしばらく言葉を発せなかった。


「……嘘」


 リサがやっと息を吐く。


「別物です。

 勝てる音になってる……」


 ミナも目を丸くして画面を凝視する。


「あの子、一回聴いただけでこれを思いついたんすか?

 そんなこと人間にできる?」


 リサが恐る恐る続ける。


「音大の子とか……ですかね。

 でも、レベルが……」


 ミナが、ようやく冗談めかして笑った。


「でもさ。

 即興でこんな修正できるなんて、年末のあれ級っすよね。

 譜面台置いて、出来立ての曲で仕掛けた――SynapticDriveみたいな」


 美咲の手が止まった。

 日本中が目撃した、ヘリの中で創った3曲。

 年末歌合戦。


「そうね……。

 即興で曲を化けさせるなんて、SynapticDriveのけんたろうじゃあるまいし」


 ミナが冗談めかして笑った。


「あんな冴えない迷子が『天才けんたろう』でしたー、なんてオチ、あるわけないですよね?」


 アハハ、と3人の乾いた笑いが重なった。

 ありえない。

 今、日本で一番忙しいユニットのプロデューサーが、こんな平日の箱根で、しかも一人で迷子になっているわけがない。

 それは「総理大臣がコンビニでバイトしてた」くらい荒唐無稽な話だ。


 そう、ありえない——はずだった。


 美咲の笑いが、ふっと消えた。

 脳裏で、恐怖のパズルが組み上がる。


 昨夜ロビーで見かけた、大柄の男。

 そしてさっき、闇の中で少年を呼んだあの野太い声。


『おーい!

 けんたろー!』


 けんたろう。

 ケンタロウ。

 そして目の前にある、プロのエンジニアが束になっても敵わないクオリティの音源。


 ガタンッ!

 美咲は椅子を蹴って立ち上がった。


「……当たりよ」


 心臓が早鐘を打つ。

 恐怖じゃない。

 武者震い。

 四十を過ぎても、こういう瞬間だけは血が若返る。


「ロビーの男……あれはユージだわ。

 そしてあの少年は、本物よ」


「えっ、マジっすか!?

 じゃあ私たち、SynapticDriveにダメ出しされてたの!?」


 ミナが素っ頓狂な悲鳴を上げる。

 リサも慌てて頷いた。


「美咲さん、これ……チャンスですよね」


「……聴きなさい、二人とも」


 美咲はギラついた目で、まだ若いリサとミナを見据えた。


「この曲には今、SynapticDriveの遺伝子が入った。

 分かるわね?

 これはもう、ただのデビュー曲じゃない」


 彼女は画面上の波形を、愛おしそうに指でなぞった。


「神様の置き土産よ」


 美咲は窓の外、闇に沈む箱根の山を見つめた。

 礼はいわない。

 これは戦争だ。

 拾った武器は、ありがたく使わせてもらう。


 静かな部屋に、進化した『ScarletDesire』のイントロが、今度は確信を持って鳴り響いた。

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