vol.239 通りすがりの迷子
『美咲くん、分かっているね?』
電話の向こうの声は、低い。
笑っていない。
箱根の老舗旅館。
庭園の見える廊下の隅。
握り潰しそうになっているスマートフォン。
『デビューは来週だ。
広告費だけでいくら溶かしたと思っている?
元アイドルの君をプロデューサーに抜擢した私の顔に、泥を塗るなよ』
「……はい。
必ず当てます。
期待以上をお見せします」
切れた通話の残響。
耳の奥にへばりつく。
大手レーベルの巨額資本。
失敗は許されない。
美咲は息を吐いた。
かつてステージで頂点を夢見て、届かなかった。
だから今、別の形で届きたい。
これが最後のリベンジマッチだ。
顔を上げると、ロビーを横切る三人組が見えた。
大柄で騒がしい男と、地味な女、そして線の細い少年。
浴衣姿で「温泉最高!」と笑い合う彼らは、平和そのものだ。
「……フン。
一般人は気楽でいいわね」
美咲はサングラス越しに、冷ややかな視線を投げた。
彼らには一生分からないだろう。
私たちが今、どんな断崖絶壁を歩いているかなんて。
♪ ♪ ♪
旅館の裏手にある、ひと気のない広場。
冷たい夜風の中、ラジカセから攻撃的なビートが流れている。
「違う!
もっと腰を使って!」
「目線が死んでる!
カメラの向こうの男を食い殺すつもりで!」
美咲の声が荒れる。
リサとミナは汗だくになりながら、何度も同じフレーズを繰り返していた。
デビュー曲『Scarlet Desire』。
悪くはない。
けれど、金と枠をぶち込んだぶんだけ、勝ち切らなきゃ意味がない。
焦る。
「はぁ、はぁ……美咲さん、一回水飲ませて……」
長身のリサが膝に手をついた、その時だった。
ガサッ。
生垣が揺れ、一人の人影が現れた。
昼間見かけた、あの気弱そうな少年だった。
キョロキョロして、完全に迷っている。
「あら、迷子?」
小柄なミナが、面白そうに声をかけた。
少年はビクリと震え、小動物のように縮こまった。
「はい……道に迷ってしまって」
リサがタオルで汗を拭きながら近づき、少年の顔を覗き込む。
整っているが、覇気のない顔。
格好のからかい相手だ。
「ふふ、可愛いわね、坊や。
こんな夜中にウロウロしてると、悪いお姉さんに食べられちゃうわよ?」
「リサ、やめなよ。
怯えてるじゃん」
ミナが猫のように目を細めて近づく。
「食べたりしないよ。
……ふふ、ちょっと味見するくらいで許してあげる」
少年は顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。
その初々しい反応に、殺伐としていた場の空気が少し緩む。
ミナがニヤリと笑い、ラジカセの再生ボタンに指をかけた。
「ねえ、せっかくだから聴いてってよ。
私たちの新曲」
「ちょっとミナ、素人に聴かせても……」
リサが止めようとするが、ミナは「いいじゃん、気晴らし気晴らし」と曲を流し始めた。
少年が、困ったように立ち尽くす。
曲が終わった。
美咲は腕を組み、少年の反応を待った。
どうせ「すごいですね」とか、ありきたりな感想だろう。
だが、少年は少しの間、無言で宙を見つめていた。
少年の瞳が、カメラのレンズがピントを合わせる時のように、無機質な収縮をする。
そして、ポツリとこぼした。
「……イントロのシンセ、上品すぎます」
「は?」
美咲は耳を疑った。
「もっと波形を歪ませて、低域を削った方がいい。
あと、Bメロのベースライン。
今は8分で刻んでますけど、あそこは16分でシンコペーションさせた方が、サビへの疾走感が出ます」
気弱な迷子の声ではない。
まるで、精密機械の設計図を読み解くエンジニア。
冷徹で的確な響き。
「サビの声、ほんの少し引っ込めて。
代わりに残響を深く。
そうすると艶が空間に伸びて、もっと……色気が出ます」
広場が凍った。
リサとミナが、ポカンと口を開けている。
美咲の背筋に悪寒が走る。
言われたことは全部、正しい。
しかも、美咲が喉元まで掴みかけていた違和感の正体を、一聴で言語化している。
「あんた……何者?」
少年が、ビクリと反応したように見えた。
美咲がさらに問い詰めようと手を伸ばした、その瞬間。
「おーい!
けんたろー!
どこだー!」
野太い声が闇を切り裂いた。
少年はハッとして振り返る。
「あ、連れが呼んでるんで!
失礼します!」
少年は逃げるように頭を下げ、その場を走り去った。
闇の中へ消えていく背中は、やはり頼りなさげな少年のそれだった。
残された広場には風の音だけ。
美咲も、リサも、ミナも。
少年が消えた暗闇を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ミナが、ふっと笑った。
それは獲物を見つけた肉食獣の笑みだった。
「あの子……やっぱり可愛いわね。
ペットにしたいかも」
隣で、リサが静かに首を振った。
彼女の目は、獲物を見る目ではなく、もっと深いものを見る目だった。
「……そう?
私には、壊れかけの人形に見えたけど。
あの目、中身が空っぽだったわよ」
美咲は何も言わず、ただ少年が消えた闇を見つめていた。
背筋に残る悪寒が、消えない。




