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vol.233 Tacet

 その夜、ユージと綾音は事務所の廊下の突き当たり、自販機コーナーにいた。

 低い駆動音だけが、重苦しい沈黙を埋めている。

 ユージは飲み干した缶コーヒーを握りしめる。

 壁に背中を預けたまま天井を仰いだ。


「……あいつ、限界だな」


 バキッ、とスチール缶を潰す。

 綾音は無言でうなずく。

 彼女の手にも、冷めきったカフェオレ。

 二人の脳裏には、スタジオで鍵盤に突っ伏して泣くけんたろうの姿が焼き付いていた。

 あれは単なる疲れじゃない。

 べっとりと肌に吸い付く、嫌な不安。


「休ませねーと。

 でも、普通に『休め』って言っても聞かねえぞ」


「そうですね。

 『僕が止まったら迷惑がかかる』って、また自分を追い込むだけです」


 二人は、けんたろうという人間を痛いほど理解していた。

 ユージが潰れた空き缶をゴミ箱に捨て、決意の目で綾音を見た。


「こうなったら、上を動かすしかねえ。

 業務命令にしちまえばいい」


 ♪ ♪ ♪


 翌日。

 Rogue Soundの社長室。

 恰幅のいい社長は、年末の売上データを見て上機嫌だった。


「いやあ、Synaptic Driveの数字は素晴らしいな!

 これなら次の——」


「社長!」


 ユージが遮るように声を上げ、デスクに身を乗り出した。


「けんたろうを、休ませてください」


 社長の動きが止まる。


「なんだ急に?

 彼は今、ノリに乗ってるじゃないか」


「意欲じゃありません、焦燥感です!

 あいつは今、燃料切れのままエンジン回してるんです。

 このままじゃ本当に壊れます!」


 ユージの剣幕に、社長がのけぞる。

 綾音も一歩前に出た。


「お願いします。

 もし彼が倒れたら、楽曲をつくれません。

 その損害は計り知れません」


 情と、損得勘定。

 二つの側面から攻められ、社長は唸った。

 彼はビジネスマンだ。

 金の卵を潰す愚は犯さない。


「……分かった。

 ただし、完全なオフにすると世間がうるさい。

 『次作のためのインスピレーション休暇』……つまり、研修合宿という名目にしろ」


 社長の条件に、ユージはニヤリと笑った。

 それこそが、狙い通りの「口実」だった。


 ♪ ♪ ♪


 数日後。

 事務所の片隅にある、狭い作業部屋。

 僕は、パソコンの前で呆然としていた。

 画面には、真っ白な譜面。

 一時間、カーソルが点滅しているだけ。


 ガチャリ。

 ドアが開き、ユージと綾音さんが入ってきた。

 二人はやけに明るい顔で、パンフレットを機材の上に広げた。


「けんたろう!

 朗報だ!

 社長から特別予算が出たぞ!」


 ユージが僕の背中を叩く。


「『次曲のためのインスピレーション強化合宿』だ!

 場所はここ、高級温泉旅館!」


 合宿。

 インスピレーション。

 聞こえはいいが、意図は明らかだった。

 綾音さんが、優しく補足する。


「環境を変えて、良い景色を見て、リフレッシュするのも『仕事』のうちですよ」


 仕事。

 その言葉が、僕への配慮だとすぐに分かった。

 ただの「休み」なら、僕は罪悪感で押し潰されていただろう。

 でも「仕事」なら、行く理由ができる。


 僕は二人の顔を見た。

 その笑顔の裏で、どれだけ頭を下げてくれたのか。

 想像するだけで胸が痛い。

 行きたくない、とは言えなかった。

 拒絶するエネルギーすら残っていないし、環境を変えれば、この鉛のような心が軽くなるかもしれないという期待もあった。


「な、いいだろ?

 俺と綾音ちゃんの3人で行くんだ。

 ぜってー面白いぞ!」


 ユージが勢いよく手を差し出す。


「……分かった。

 行くよ。

 インスピレーション、湧くといいな」


 僕が答えると、二人は心底ホッとしたように笑った。


 彼らは僕が「疲れているだけ」だと信じようとし、僕は「休めば治る」と信じているフリをする。

 場所を変えたくらいで消えるような闇ではないことを、僕は知っているのに。


 それでも、僕は彼らの差し出した手を取った。

 自分一人では、もう立ち上がることさえできなかったから。

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