vol.232 フェーダーダウン
スピーカーから流れる爆音だけが、僕の存在を許してくれている気がした。
音に包まれている間は、余計なことを考えなくて済む。
あの診断も、二重に見える信号も、けいとさんとの距離も。
全部、音の波がさらってくれる。
一秒でも長く、音の中に隠れていたい。
「……けんたろう」
ふいに、ボリュームが絞られた。
静寂が、冷たい水のように押し寄せる。
ビクリと肩を震わせて振り返る。
背後のソファにユージと綾音さんが座っていた。
二人は、いつからそこにいたのだろう。
ただ、壊れかけたガラス細工を見るような目で、僕を見つめていた。
「終わり終わり。
今日はもう、終わりにしよう」
ユージの声は、驚くほど静かだった。
いつもの荒っぽい口調ではない。
大きな声を出したら、僕が粉々になってしまうとでも思っているような慎重さ。
「え……でも、まだBメロが……」
僕は慌ててキーボードに手を伸ばす。
だけど、震えを隠すように手を引っ込めた。
「十分だよ。
もう、十分すぎるくらいだ」
綾音さんが、そっと僕の隣に来て、膝をついた。
目が合う。
涙が溜まっていた。
「けんたろうくん、顔色……ここ数日、ゼリー飲料しか口にしてないじゃない。
私たち、ずっと心配で……」
綾音さんの声が震える。
僕は反射的に、口角を持ち上げた。
「大丈夫だよ、綾音さん。
集中してて、ご飯忘れちゃっただけだから……あはは」
乾いた笑い声が、吸音材に吸い込まれて消えた。
二人は笑わない。
「無理すんなよ」
ユージが僕の肩に手を置いた。
優しい、綿毛のような重さ。
「わかってるよ。
お前が焦ってるのは。
次の曲もすげえの作らなきゃって、プレッシャーあんだろ?
でもさ……見てて辛いんだよ。
お前が削れてなくなっちまいそうで」
ユージは言葉を探すように、視線を泳がせた。
「なぁ、少しだけ休まねえか?
2、3日でいい。
温泉でも行って、美味いもん食って、泥みたいに寝てさ。
たった数日だ。
それで何かが変わったりしねぇよ。
ちょっと遊びに行かねえか?」
たった、数日。
頭では分かっている。
2、3日休んだところで、Synaptic Driveの人気が消えるわけじゃない。
でも。
(もし、今、止まったら)
今、僕は惰性と気力だけで回っている。
この回転を一度止めてしまったら?
あの重たい体と、鉛のような心が戻ってきたら?
二度と、再起動できないんじゃないか。
音楽を作っていない僕は、ただの「病気のけんたろう」だ。
そんな僕に、価値はあるのか?
そんな僕を、けいとさんは必要としてくれるのか?
怖い。
スイッチを切るのが、死ぬほど怖い。
「……でも、僕、今アイデアが湧いてて……」
言い訳を重ねようとした僕の手を、ユージが両手で包み込んだ。
温かかった。
「頼むから」
ユージの声が、懇願に変わった。
「俺のために休んでくれ。
俺が、お前のこと心配で、もう見てらんねえんだよ」
その真剣な眼差し。
僕の痛みごと受け止めようとする、切実な響き。
張り詰めていた糸が、音もなく切れた。
「あ……」
視界が滲む。
止めようと思ったのに、涙がボロボロと鍵盤を濡らしていく。
「う、ううっ……ごめん、なさい……ごめんなさい……」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。
「謝らないで!
けんたろうくんは何も悪くない!」
綾音さんが僕の背中に抱きついた。
彼女も泣いていた。
ユージは何も言わず、ただ強く僕の手を握り続けていた。
彼らは優しい。
本当に優しい仲間だ。
彼らは信じている。
僕がただ「疲れている」だけだと。
少し休めば、また元の元気なけんたろうに戻ると。
その誤解が、ありがたくて、そして残酷だった。
僕は泣きながら、心のどこかで冷たく理解していた。
休んでも、きっと治らない。
一度止まったら、僕はもう、戻れないかもしれない。
それでも、二人の温かさに抗う力は、もう僕には残っていなかった。




