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vol.231 二つの信号

「鬱です。

 過度なストレスが原因でしょう」


 医師は、決めつけるでも慰めるでもなく、ただ診断名を置いた。

 診察室の白い壁が、迫ってくるようで怖い。

 先生が叩くキーボードの音がうるさい。


「……え?」


 自分の声が、遠い。

 鬱。

 その音が胸の底に落ちて、鈍い音を立てた。


「……そんな。

 僕が?」


 疲れなら、まだ格好がついた。

 無理した反動だって言えば、戻れる気がした。

 休養、睡眠、投薬、通院。

 医師の説明は淡々としているのに、「休みましょう」だけがトンネルの向こうから反響してくる。


 休む?

 止まれって?


 僕の中では同義だ。

 止まる=終わる。


 ♪ ♪ ♪


 ここに辿り着くまでが、長すぎた。


 最初は内科。

「胃が重い」。

 次は循環器科。

「心臓が暴れる」。

 呼吸器科。

「息が吸えない」。


 聴診器、採血、レントゲン。

 どこへ行っても「異常なし」「きれいな数値です」と突き返される。

 まるで不良品が出荷ラインから弾かれて、あちこちの検査機を通されているみたいだった。

 

 最後に受付で小さく言われた。


「心療内科、受診されますか」


 背中が冷える。

 行きたくない。

 行ったら決まってしまう。

 そして今、「鬱です」と言われている。


「周囲の方に、状況は伝えられますか?」


 医師の問いに、胃が縮む。

 脳裏に浮かぶのは、あの地下の楽屋だ。

 『あとは全部、俺が何とかする』と笑ったユージ。

 『必ず届くから』と手を握ってくれた綾音さん。


 言えるわけがない。

 「鬱になりました」なんて。

 言った瞬間、僕を見る目が変わる。

 心配になる。

 遠慮になる。

 管理になる。

 何より、Synaptic Driveはどうなる?


 そして何より——けいとさん。


 雨の日の喫茶店。

 『住む世界が、変わるの』と告げられた絶望。

 その距離をゼロにするために、僕は音楽という切符を手に入れた。

 もし僕が壊れたら?

 音楽を作れないただの抜け殻を、彼女は愛してくれるだろうか?


 また遠くへ行ってしまう。

 もう、届かなくなってしまうのではないか。

 今度こそ。


「……誰にも、言えません」


 僕が絞り出すと、医師は眼鏡の奥で静かに言った。

「少なくとも、あなた自身には嘘をつかないでください」


 ♪ ♪ ♪


 病院を出ると、冬の空は鉛色だった。

 ポケットの中で、処方箋が軽い。

 カサリと乾いた音が怖い。

 この紙切れ一枚が、僕の敗北の証明書。

 薬にリチウムなんて、電池だけだと思ってた。


 隠そう。

 笑顔を作って、曲を作って、Synaptic Driveのけんたろうを演じ続けよう。

 気合いが足りないだけだ。

 家に帰って眠れば、きっと元通りになる。


「大丈夫」


 自分に言い聞かせ、横断歩道の前で足を止めた。

 信号は赤。


 ぼんやりと見上げる。

 目をこすって、もう一度見る。


 二つ。


 赤い丸が、左右にブレて二つに見えた。

 信号機が増えたわけじゃない。

 僕がどこかにはみだしていたのだ。

 一つは「止まれ」。

 もう一つは「戻れない」。

 分裂した赤色が、僕を睨みつけている。


 ああ、そうか。

 僕はもう……


 絶望は、悲鳴を上げなかった。

 ただ静かに、納得するものだった。


 信号が青に変わる。

 周囲の人たちが歩き出す。

 僕だけが、その場から一歩も動けずにいた。

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