vol.230 まだ、大丈夫
年始。
けいとさんのマンション。
窓の外は静かで、年末が遠い日のように思える。
カーテンの隙間から、穏やかな冬の日差しが差し込む。
世間はまだ、僕たちSynaptic Driveが巻き起こした「年末の奇跡」の話題で持ちきりらしい。
だけど、僕たちの目の前にあるのは、もっと平和で、静かな時間。
「はい、お待たせ。
私の特製お雑煮よ」
けいとさんが振り返って笑う。
エプロン姿。
ステージの女王より、こっちの方が眩しい。
キッチンから、お盆を持って現れる。
以前、「美味しいお雑煮、作ってあげるから」と約束してくれていたのを、ちゃんと覚えていてくれた。
湯気が立つお椀からは、柚子のいい香りが漂ってくる。
「わあ……!
ありがとう、けいとさん」
僕はこたつから身を乗り出し、笑顔を作った。
嬉しい。
本当に嬉しいはずなんだ。
大好きな人と、二人きりのお正月。
これ以上の幸せなんてない。
でも、箸を持つ手が、鉛のように重い。
「……いただきます」
お餅を口に運ぶ。
味付けは完璧。
上品な出汁の味。
なのに、喉を通る感触がザラつく。
「どう?おいしい?」
「うん、すごくおいしいよ」
僕は嘘をつかずに済むよう、必死に頬張った。
半分ほど食べたところで、胃が苦しくなり、そっと箸を置いた。
ここ数日、まともに眠れていないせいかもしれない。
布団に入っても、心臓が早鐘を打って、意識だけが冴えてしまう。
「あら、もういいの?
いつもは食いしん坊なのに……疲れてる?」
けいとさんが、心配そうに僕の顔を覗き込み、隣に座って肩を寄せてきた。
甘いシャンプーの香り。
柔らかい体温。
普段なら飛び上がるほど嬉しいスキンシップなのに、今の僕は、彼女の体温を分厚い壁越しに感じているようだった。
「ごめん、ちょっと寝不足気味でさ」
「もう……無理しすぎよ。
ほら、こっちおいで」
けいとさんは僕の頭を抱き寄せ、膝枕をしてくれた。
彼女の指が、僕の頭をなでる。
「よしよし」とあやすような優しい声。
僕はその温もりにすがりついて、目を閉じた。
でも、頭の芯にある「重り」は消えない。
怖い。
このままじゃ、曲が作れなくなる感覚。
僕は、けいとさんを追いかけるために音楽を始めた。
僕の才能が、自分をここまで連れてきたんだ。
もし、僕から音楽がなくなったら?
ただの空っぽな僕を、彼女は愛してくれるだろうか?
(また遠くへ行っちゃう……)
冷たい恐怖。
胃の奥が締め上げる。
弱音なんて吐いてはいけない。
「辛い」なんて言ったら、彼女は僕に失望するかもしれない。
作り続けなきゃ。
もっと、もっと凄い曲を。
「……ねえ、けんたろうちゃん」
「ん?」
「なんか……心ここにあらず、よ?」
けいとさんの鋭い言葉が、僕の心臓を強く打たせる。
僕は慌てて彼女の腰に腕を回し、顔を埋めた。
「そんなことないよ。
幸せすぎて、夢の中にいるみたい」
……違う。
幸せなのに、涙も出ないくらい心が乾いている。
その夜。
洗面所の鏡の前で、僕は自分の顔を見つめた。
(……明日、病院に行こう)
きっと風邪だ。
あるいは、ただの疲れ。
年末の無茶が、今になって遅れてきただけ。
そういうことは、よくある。
薬をもらって、ぐっすり眠れば、また元通りになるはずだ。
そうしなきゃいけないんだ。
僕は冷たい水で顔を洗い、「大丈夫」と自分に言い聞かせる。
どこか他人事。
自分の顔が、知らないやつの目でこっちを見てた。
それはきっと鏡のせいだ。
そう。
何もおかしくない。
まだ、大丈夫。




