vol.229 神を演じた代償
12月31日。
午後11時56分。
JHKホール。
炎は燃え尽きない。
燃え尽きるどころか、その色は赤から青へと温度を変えていた。
『ONTO THE FIRE』の最後の和音が消えるか消えないかの刹那。
ザザザッ……ザザザッ……!
スピーカーから、不穏なノイズが漏れ出した。
機材トラブルではない。
それはまるで、脳内の神経回路がショートした時に聞こえる幻聴のような、電気的な悲鳴だった。
「……ッ」
ユージが息を呑む。
振り返らない。
だが、背後で何かが「臨界点」を超えたのがわかった。
スクリーンの影——けんたろうのシルエットが、奇妙な形に歪む。
両手を鍵盤の端から端まで広げ、人間工学を無視した角度で指を突き立てる。
そして、世界が壊れた。
パララララララララッ!!
イントロが鳴った瞬間、会場の時間が歪む。
超高速アルペジオ。
一秒間に何十もの音が詰め込まれ、もはや旋律というより、光の粒子が降り注ぐような音の奔流。
BPMは測定不能。
人間の指が物理的に動かせる速度ではない。
だが、音は正確無比に刻まれている。
「な……なんだこれ!?」
最前列の客が、耳を押さえて叫んだ。
悲鳴ではない。
理解が追いつかない脳が漏らした、拒絶と興奮の混ざった声。
ユージがマイクを鷲掴みにする。
叫びが、混沌に秩序を与える。
【創っては壊して積み上げては崩して】
【瓦礫の塔で僕はまだ息をする】
【終わりのない螺旋 出口のない迷路】
【それでも手は光を求めて動く】
歌詞は、単なる煽り文句ではない。
追い詰められた創作者だけが知る、業。
「作ることでしか生きられない」という呪いと祈りが、高速ビートに乗せて吐き出される。
♪ ♪ ♪
配信画面の向こうで、セブ直山が絶句していた。
いつもなら机を叩いて騒ぐ彼が、今はモニターに張り付き、瞬きも忘れている。
「……おい、嘘だろ」
直山の声が震える。
「指が見えねえ。
カメラのフレームレートが追いついてねえぞ。
これ、生演奏か?
人間が弾いてるのか?
それとも——人間を辞めた何かが弾いてるのか?」
コメント欄も、もはや言葉になっていなかった。
『早すぎワロタ』
『笑うしかない』
『ラスボス戦かよ』
『けんたろうの手首どうなってんの』
理解を超えた現象を前にして、人は笑うか、畏れるかしかない。
そして会場は、その両方で満たされていた。
恐怖に近い興奮。
観客は、自分たちが歴史的な「異常事態」の目撃者になっていることを本能で悟り、狂ったように頭を振った。
♪ ♪ ♪
舞台袖。
一条零は、その光景をまばたきもせずに見つめていた。
蒼白い照明の中、けいれんするように踊るシルエット。
そして、それに呼応して揺れる数万人の頭。
「……秩序は、壊れる直前が最も美しい」
零が、誰に聞かせるでもなく呟く。
彼女の瞳の奥が、熱く揺れる。
(いかないで)
言葉にならない祈りを、零は静かに握りしめる。
♪ ♪ ♪
隣にいたMidnight Verdictのあやが、唇を噛み締めていた。
「美しい」なんて言葉では片付けられない。
あれは自傷行為。
音を使って、自分自身の命を削り取っている。
でも、止められない。
今の彼らは、誰も触れられない高みにいる。
♪ ♪ ♪
曲はクライマックスへ。
ユージの声が枯れる。
喉から血の味がする。
それでも叫ぶ。
背後の怪物を、現世に繋ぎ止めるために。
【Create the Chaos!】
【この身が砕け散るまで】
【魂を削れ命を刻め】
【永遠に響くノイズになれ!】
最後のフレーズ。
それはもはや歌ではなく、断末魔の叫びだった。
【Create the Chaos!】
全ての音が飽和し、ホワイトアウトするような轟音と共に、曲が終わる。
一瞬の静寂。
ホール内の空気が全て吸い取られたような真空状態。
そして次の瞬間——爆発。
地鳴りのような歓声が、天井を突き破らんばかりに響き渡る。
「やった……!」
ユージが肩で息をしながら、ギターのネックを握りしめたまま膝をついた。
やり切った。
全部出し切った。
俺たちは終わらせたんだ。
彼は満面の笑みを作り、勢いよく振り返った。
「おいけんたろう!
見たか、今の——」
言葉は続かなかった。
スクリーンの向こう。
シルエットの影が、ゆらりと傾いた。
まるで糸の切れた操り人形のように。
抗うこともなく、静かに。
ガタンッ……。
鈍く重い音。
歓声にかき消され、観客には届かない。
だが、ユージの耳には、心臓が止まるほど大きく響いた。
影が消えた。
鍵盤の上に突っ伏すように、視界から落ちた。
「……けんたろう?」
ユージのギターが手から滑り落ち、床に叩きつけられて不協和音を鳴らす。
だが彼は、それに構うこともしなかった。
キーボードブースへ駆け上がり、シルエットの先へ飛び込む。
そこには、鍵盤に顔を埋めるようにして倒れている相棒がいた。
肩が、微かに上下している。
生きている。
だが、その震えは止まらない。
「おい!
大丈夫か!?」
ユージが身体を支え起こすと、けんたろうの虚ろな目が、わずかに開いた。
焦点が合っていない。
ただ、その唇が微かに動いた。
「……とど、いた……?」
それが観客になのか、けいとになのか、それとも音楽の神様になのか。
誰にもわからなかった。
返事をする前に、けんたろうのまぶたが再び落ちる。
身体から力が抜け、ユージの腕の中に重みが預けられた。
鍵盤が、汗で濡れていた。
華やかな歓声が、急に遠い世界の出来事のように聞こえた。
遠くで、年越しのカウントダウンが始まろうとしている。




