vol.228 涙も蒸発する
12月31日。
午後11時53分。
JHKホール。
青い雨は、一瞬で蒸発した。
破壊的な電子音が、静寂を切り裂く。
照明が真紅に染まり、ステージ上の空気が沸騰する。
さっきまで降っていた雨は、もう蒸気になっている。
焦げたような熱が、客席の喉に残る。
ギュイイイイイイイン!!
ユージの右手が動く。
ギターのカッティングが、乾いた刃で空気を切る。
シンセサイザーのイントロが燃え上がり、観客の肌を焼く。
それはユーロビートという枠を超えた、攻撃的なロックサウンドだった。
一発一発が短く、速く、痛いほど明確。
譜面台のタブレットが、爆音の振動でビリビリと震えている。
だが、もう見る必要はない。
この曲に必要なのは「言葉」じゃない。
「衝動」。
【BABY, ONTO THE FIRE!】
ジャアアンッ!!
ユージがパワーコードを叩きつける。
その音圧が、物理的な風圧となって最前列の観客を直撃した。
【準備はいいか? 覚悟はいいか? 灰になるまで】
【BABY, ONTO THE FIRE!】
【迷いは捨てろ 躊躇は捨てろ 熱に変えるまで】
【BABY, ONTO THE FIRE!】
観客は、感情のジェットコースターに振り落とされまいと必死だ。
涙を拭く暇もなく拳を突き上げ、悲鳴のような歓声を上げる。
客席が跳ねる。
叫びが起きる。
手が上がる。
今夜のJHKホールが、番組じゃなくライブハウスになる。
♪ ♪ ♪
だが、ステージの「中心」にいるユージだけは、違和感を感じ取っていた。
(……おい、けんたろう?)
ギターを弾きながら、背後の気配を探る。
イヤーモニターから聞こえてくるけんたろうの演奏が、妙だ。
ミスはない。
リズムも正確だ。
だが、「人間が弾いている感じ」がしない。
(限界なのか……?)
ユージの胸に、冷たい焦りが走る。
福岡からの強行軍。
ヘリでの作曲。
そしてこのステージ。
普通の人間ならとっくに倒れている。
今、あいつを立たせているのは、精神力ですらない。
もっと危うい何か。
命の前借りみたいなエネルギー。
助けに行きたい。
肩を叩いて「大丈夫か」と聞きたい。
だが、できない。
止まれば終わる。
俺ができることは、あいつの出した音を、全力で歌に変えることだけだ。
「うおおおおおッ!!」
ユージは咆哮した。
焦燥をごまかすように、ギターを掻きむしる。
相棒を死地へ置き去りにして走らなければならない、悔しさ。
♪ ♪ ♪
配信のセブ直山が、画面の向こうで椅子を蹴りそうな勢いで立ち上がる。
「来た来た来た!
これだ!
さっき雨で心臓ぶち抜いといて、今度は火で焼く気かよ!
ONTO THE FIRE!
これ年末歌合戦だぞ!?
最高かよ!」
コメント欄が火の粉のように流れる。
『カッティングえぐい』
『出来立て新曲でこの密度は何?』
『さっき泣いて今跳ねてる、情緒どこ』
舞台袖では、反応が分かれていた。
Dream Jumpsのめぐみは、パイプ椅子から飛び上がってタオルを振り回している。
「やばい!
イケイケロック・ユーロだ!
こういうの大好物!
うわ、ギター気持ちいい!」
彼女の目には、ステージの輝きしか映っていない。
純粋な興奮。
それが大多数の観客の反応だった。
だが、その少し奥。
一条零は、静かにステージを見つめていた。
彼女の表情に、熱狂の色はない。
あるのは、沈みゆく船を見るような、静謐な眼差しだけだ。
「……美しい」
零が独り言のように呟く。
「あの光は、身を削ることでしか出せない色……」
隣にいたスタッフが「え?」と聞き返すが、零は答えなかった。
ただ、スクリーンの影——もはや人としての輪郭を失いかけているけんたろうの姿を、悲しげに見つめるだけだった。
♪ ♪ ♪
曲は終盤。
ユージは歌いながら、背後に視線を送る。
スクリーンの影が、ほんの一拍揺れた。
顔を上げたのか、背中が反ったのか。
黒い輪郭がぶれる。
次の瞬間、何事もなかったように固定される。
カメラは気づかない。
観客も多くは気づかない。
だがユージは気づいた。
気づいてしまった。
——やばい。
喉の奥が、別の意味で熱くなる。
助けに行けない。
止められない。
今、彼にできるのは、曲を落とさないことだけだ。
ユージはギターのネックを握り直した。
強く握って、震えを誤魔化す。
譜面台の光が滲んで、文字が一瞬読めなくなる。
自分でも信じられないタイミングで、頬に熱いものが落ちた。
だが拭う暇はない。
拭ったら歌が崩れる。
崩れたら——背後の影が、もっと沈む気がした。
だからユージは笑うように叫ぶ。
泣きながら、煽る。
【鼓動がずっと早すぎるんだ
壊れるほど生きてる証
「まだ行ける」って叫ぶたび
闇が少し明るくなる】
【BABY, ONTO THE FIRE!】
【準備はいいか? 覚悟はいいか? 一緒に灰になるまで】
【BABY, ONTO THE FIRE!】
【止まるな 振り向くな 燃え尽きるその日まで】
【BABY, ONTO THE FIRE!】
ユージの絶叫と、けんたろうのシンセが激突し、爆発しきる寸前まで熱が張り詰める。
ドンッ!!
最後の音が叩きつけられる。
地鳴りのような歓声が拍手になりかけて、次の音に飲み込まれる。
だが、彼は前を向いたままだ。
唇だけで「大丈夫か」と言う。
マイクには乗らない。
返事はない。
振り返りたい。
今すぐ振り返って、あいつを確認したい。
だが、その一瞬の隙さえ、今のけんたろうは許してくれない気がした。
代わりに、スピーカーの奥から違う音が滲み出す。
さっきまでの熱い歪みじゃない。
温度のないノイズ。
金属の縁を爪でなぞるような、不吉な摩擦音。
「——次、来るぞ」
観客が息を吸う。
世界が、ほんの一拍だけ静かになる。
その静けさの底で、何かが加速を始めた。




