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vol.227 遠すぎる影

 12月31日。

 午後11時50分。

 JHKホール。


 照明が、ふっと落ちる。

 ステージに残されたのは、深海のような薄暗いブルーのライト。


 中央にユージ。

 その背後、一段高いキーボードブースには白いスクリーンが張られ、黒い影——シルエットだけが浮かび上がっている。


 顔は見えない。

 輪郭だけ。

 その影が鍵盤に覆いかぶさるような姿勢で固まる。

 それは演奏の準備なのか。

 水底へ沈んでいく者が、最後に何かを掴もうとする動作に似ていた。


 影の指が、鍵盤を叩く。

 シンセサイザーの音が雨音になって降ってくる。

 ユージは息を吸う。

 いきなり、感情の頂点から始まった。


【Faraway Faraway】

【君の胸に飛び込みたい】

【何も聞こえない深い場所へ】

【隠してよこの震えを】


 声は掠れていた。

 普段の咆哮じゃない。

 喉を押し開く力を押し殺す。

 言葉が剥き出しで届く。


 シンセサイザーの繊細な連打音が、密閉空間に、寂しさを降らす。

 細い粒がポツポツと。

 同じ間隔で、同じ強さで、同じ冷たさで。

 それが不思議と、涙よりも生々しい震えに聞こえた。


 スクリーンの影は淡々と雨を刻む。

 手首の角度が変わらない。

 肩が上下しない。

 安定ではなく、どこか不自然な固定。

 観客は理由を言語化できない。

 薄い寒気だけを受け取る。


 サビが一周する。

 ユージは譜面台へ視線を落とす。

 次の言葉を拾う。

 歌が、少しだけ内側へ折れる。

 雨粒が近づく。


【速すぎる空に怯えてた】

【鉄の箱震えるノイズ】

【逃げたいよ今すぐに】


 あまりにも単純な歌詞。

 比喩も、気取った韻もない。

 まるで子供の日記だ。

 だが、その飾り気のない単純さが、飾る余裕すらない本音であることを残酷なまでに証明する。


 ホールのあちこちで、拍手のタイミングを失った手が止まる。

 観客は上手い歌を聴いているのではない。

 言ってはいけない弱音が、全国放送のど真ん中に置かれていくのを見ている。


 舞台袖では、MidnightVerdictの気配が薄く揺れる。

 さやかが、息を飲む。

「嘘……これ、本当にヘリの中で作ったの?

 シンセの音が……泣いてるみたい」


 あやは眉を寄せる。

 怒りじゃない。

 心配が歪んだ顔だ。

「……ユージのバカ。

 『3曲やる』なんて言うから。

 けんたろうちゃん、無理したんじゃないかな……」


こはるが、ぽつりと落とす。

「……この曲、泣いてる……」


その繊細な一言を、ひなたがいつもの悪ノリで軽く受け流す。

「こりゃあ、哀愁ユーロだもんな!」


 かおりは無言のまま、ただ目だけで認めていた。


 けいとも、声を出さない。

 ただ、歌詞が進むたびに、スクリーンの影が少しずつ遠くへ行ってしまうような錯覚を覚える。

 恋人の勘だ。

 捕まえたいのに、捕まえ方が分からない距離。

 彼女は、それを言葉にしない。

 言葉にしたところで、今ここでは届かない。


 ♪ ♪ ♪


 客席の上では、ネットの速度だけが先に悲鳴を上げた。


『サビから入るの反則』

『逃げたいって歌詞、リアルすぎる』

『雨音シンセが心臓に刺さる』

『譜面台なのに、魂だけはガチ』


 セブ直山の配信も、一度黙った。

 机に突っ伏し、鼻をすする音だけが入る。

 そして顔を上げた直山の目は真っ赤で、声が怒鳴り声になる。


「……ばっかやろう」


「おい、聞いたか?

 『逃げたいよ』だぞ。

 年末歌合戦で?

 勇気とか希望とかの正解じゃねえのかよ。

 なのにこいつら、泥だらけで譜面台にしがみついて、怖いって歌った。

 そんなの——一番人間らしいに決まってんだろ!!」


 コメント欄が追いかける。

『かっこつけないのが一番かっこいい』

『これ、今の自分の気持ち』

『雨が痛い』


 ♪ ♪ ♪


 ユージは最後のフレーズを、吐息みたいに落とす。


【Faraway……】

【もうどこにも行きたくない】


 雨音が、薄くなる。

 消えるのではなく、乾いていく。


 同じ連打が、音色だけを変えはじめた。

 冷たい雫が熱を帯び、蒸気になり、火花になる。

 まるで雨が空中で燃え始めるみたいに、シンセの粒がぱちぱちと弾ける。


 スクリーンの影が、一瞬だけ揺れた。

 顔を上げたのか、背中を反らしたのか。

 黒い輪郭がぶれる。

 崩れそうで、崩れない。


 次の曲のイントロが弾ける。

 雨粒が、炎の火の粉へと反転する。


 ギュイイイイイイン——!


 ギターの悲鳴みたいな歪み。

 弦ではない。

 だが弦より凶暴な、ギターのように加工された攻撃的なシンセリフが、会場を真っ二つに割った。


 照明が青から真紅へ反転する。

 雨が炎になる。


 ユージは譜面台すら見ない一瞬を作り、胸いっぱいに息を吸って叫んだ。


「BABY, ONTO THE FIRE!」


 その一声で、ホールが沸騰した。

 直山が配信で絶叫する。


「見たか!?

 雨を燃やしたぞ!

 いま雨が火になった!

 年末歌合戦が、いまライブになった!!」


 熱狂が次の曲へ雪崩れ込む。

 スクリーンの影は赤の中でも黒いまま、鍵盤を叩き続けていた。

 遠いまま、遠いまま——その距離だけが、なぜか消えなかった。

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