vol.225 新時代の祈り
JHKホール。
けいとの最後のピアノが消えたあと——会場には、拍手の前に「沈黙」が落ちた。
それは失望じゃない。
観客が、いま自分の胸の中で起きた出来事に、名前をつける時間だった。
誰かが鼻をすする。
別の誰かが、慌ててマフラーを口元まで引き上げる。
涙の痕は、光に当たると目立つから。
そして遅れて、拍手が来た。
割れるような喝采ではなく、揃っていく拍手。
少しずつ波になり、やがて祈りのようにホールを満たす。
「盛り上げてくれてありがとう」ではない。
「ここで歌ってくれてありがとう」という、礼の拍手。
舞台袖でスタッフが一瞬だけ止まり、次の段取りを忘れたような顔をした。
すぐに現実に引き戻される。
進行表。
赤ペン。
無線。
怒鳴り声。
「まだです!まだ到着していません!」
「次、押します。押すしかない!」
祈りの余韻の上に、焦燥が重なっていく。
ネットはもっと早く泣いて、もっと早く燃えた。
『Reach out farじゃないの、強すぎ』
『女王ってこういうこと』
『泣いたけど今それどころじゃない、SynapticDrive来ない』
『#天使が舞い降りた日 トレンド上位』
『#ヘリどこ #けんたろう逃げて』
そして当然、セブ・直山の配信が回る。
いつもの大声が、今日は途中で途切れた。
喉が感情に追いついていない。
「……なあ。
聞いたか、今の。
バラードで“場を繋いだ”んじゃねえぞ。
場を止めたんだよ。
テレビでそれやれるの、怖いって……」
直山は画面の外を見て、すぐに戻ってくる。
現実を思い出した顔。
「でも、問題はそこじゃねえ!
まだ来ねえんだよ!
SynapticDrive!
公式も現場も、到着の一報が出てねえ!
ヘリの中継も、まだ入ってこない!」
コメント欄が短文だけになる。
『来ない』
『終わる』
『嘘だろ』
『零、出すしかない』
誰かが言葉にした瞬間、それは現実になった。
♪ ♪ ♪
一方、Midnight Verdict専門チャンネル。
ザッツ小泉は、泣いていた。
泣きながら、いつも通りやかましい。
「総員……総員、敬礼!!
今宵、陛下は安全策を捨てられた!
場を盛り上げるためではない。
己の誇りを証明するために歌われたのだ!」
小泉は鼻をすすり、急に声を落とす。
落とすと余計に熱い。
「……よいか。
女王とは、勝ち筋を選ぶ者ではない。
勝ち筋を捨ててもなお、勝ちに行ける者のことを言う」
コメント欄が騎士団の敬礼スタンプで埋まる。
だが、小泉は画面の隅——進行表が崩れていく速報に目をやり、顔色を変えた。
「……来ない。
まだ、来ないのか。
ならば次は——」
小泉はごくりと唾を飲む。
「歌姫だ」
舞台裏。
進行責任者が、唇を噛みしめたまま言い切る。
「……一条零さん、繰り上げます。
大トリ変更です」
空気が凍った。
絶対的歌姫。
十九歳。
ソロ。
ミステリアスで、礼儀正しく、所作に一片の乱れもない。
音楽の頂点にして、この時代に偶然生まれ落ちてしまった——音楽の巫女。
その彼女を、時間の都合で動かす。
それが何を意味するか、全員がわかっていた。
番組の格式を、番組自身が崩すということだ。
「零さんに伝達は?」
「……済みです」
「反応は」
「『承知いたしました』と。それだけです」
それだけ?
ざわめきが恐怖に変わる。
怒りもないのが、いちばん怖い。
司会者が引きつった頬のまま、カメラへ向き直る。
声の明度だけを維持して、慎重に言葉を選ぶ。
「続いては——今年、音楽チャートと売り上げの記録を更新し続けた、時代の歌姫。
一条零さんです」
歓声が上がる。
だがその歓声は、祝福というより、沈まないための声だった。
この場が沈まぬように、観客が必死に空気を支えている。
暗転。
白いスポットライトが一本、真下に落ちた。
そこに一条零は立っていた。
まず、立ち姿が【音】だった。
背筋の角度。
足先の揃え方。
指の置き場。
礼儀が、呼吸の速度まで支配していく。
彼女は客席を見ている。
しかし同時に、客席の外側を見ている。
会場の壁、カメラ、電波——その先にいる「見えない誰か」に対して、等しく礼を尽くしている。
イントロ。
『A NEW ERA』。
作曲者K。
世間はまだ、その正体を知らない。
零が息を吸う。
その一瞬で、会場の酸素が整列した。
【夜が終わる前】
【静かに立つ】
【誰のためでもなく】
【ただ歌のため】
一音目で、照明の色が変わったように錯覚した。
いや、変わったのは照明じゃない。
聴く側の身体だ。
スマホを掲げていた手が、ゆっくり下がる。
録る行為が、急に無粋になる。
彼女の歌は、記録に向かない。
今ここで受け取れと言ってくる。
【光の角度が変わる】
【世界が違って見える】
【その頂へ ただ高く】
【永遠を追い越して】
音程は刃のように正確。
声量は暴力ではない。
だが抗えない。
彼女の声が広がるたび、観客の中の余計な雑音——焦り、憶測、炎上の期待——が順番に剥がれていく。
残るのは、たったひとつ。
歌われるべき言葉だけ。
サビ。
【A NEW ERA】
【ここから始まる】
【古い自分をほどいて】
【新しい空を開く】
眩しい。
完璧だ。
なのに今日は、痛い。
同じ曲なのに、胸の中心に冷たい余韻が残る。
零は動揺しない。
ただ、歌の奥に【欠けているもの】を置く。
それが、切なさとして聴こえた。
【A NEW ERA】
【ここから始めよう】
【終わりは合図】
【始まりが歌】
【どこまでも届く声】
「届く声」
その一節だけ、ほんのわずかに長い。
人間の耳が「祈り」を聴き分けてしまう程度に、わずかに。
観客の誰かが息を漏らした。
泣く準備のない呼吸。
そして、その呼吸が連鎖する。
会場のあちこちで、同じ音がする。
零が最後の音を置く。
置く、という表現が一番近い。
歌が消えるのではなく、祭壇に納められる。
静寂。
そして拍手。
遅れて爆発する拍手。
悲鳴ではない。
畏敬の拍手。
ネットは、理解が追いつかずに震えていた。
『零様、今日……怖いくらい刺さる』
『A NEW ERAがこんなに祈りの曲だったっけ』
『歌が綺麗すぎて現実忘れた』
『#A_NEW_ERA トレンド急上昇』
直山は、叫べなかった。
声を張ることが、場違いに思えた。
「……これが、頂点。
上手いとか神とか、そういう単語、足りない。
零様って、歌で人を黙らせるんじゃなくて——
人の中の騒音だけを黙らせるんだよな」
小泉の配信も、珍しく静かになる。
「……歌姫とは、こういう方を指すのでしょう。
誰も責めさせない。
誰も煽らせない。
ただ、歌だけを残していく」
司会者が、そっと近づく。
いつもなら軽く回す場面だ。
だが零の前では、言葉が粗末になる。
「一条零さん……圧巻でした。
今のお気持ちを——」
一条零はマイクを受け取る。
その所作が、既に礼だ。
彼女は誰の名前も出さない。
誰の不在も暴かない。
代わりに、音楽そのものの心理を語る。
「本日は、時の流れが少々荒れておりますね」
声は柔らかい。
だが、背筋を正される柔らかさだ。
「けれど、歌は——時の荒波に溺れてはなりません。
歌は、いまこの瞬間の“心”を整えるために存在します」
観客が静かに頷く。
零は続ける。
格式高く、詩のように。
「ただ——音を裏切らぬこと。
音が、誰かの孤独に触れてしまったなら。
その孤独が恥にならぬよう、丁寧に抱いて差し上げること」
零は一度だけ目を伏せ、そして顔を上げた。
「どうか皆さま。
今夜の終わりを、焦りで汚されませんように。
——終わりは合図。
始まりが歌。
その言葉の意味を、私は信じております」
司会者は言葉を失い、ただ深く頭を下げた。
その瞬間。
舞台袖で無線が跳ねた。
スタッフの声が裏返る。
「屋上!入った!音、来た!」
「ヘリです!ヘリが到着しました!」
世界が一気に現実へ戻る。
舞台裏が走る。
スタッフが走る。
ケーブルが引きずられる。
カメラマンが位置を奪い合う。
【間に合わない】が【間に合うかもしれない】へ反転する瞬間は、足音の数でわかる。
そして——ホールの天井が、わずかに震えた。
低い振動。
空気を押す、回転翼の圧。
耳ではなく、肺が先に気づく音。
客席がざわつく。
観客が天井を見上げる。
【上】から来る音は、人間の本能を直接揺らす。
司会者がマイクを握り直す。
手が震えている。
笑顔も、もう作れない。
それでも声は、放送局のプロとして真っ直ぐだった。
「皆さま……お待たせいたしました。
ただいま——会場屋上に、ヘリコプターが到着したとの連絡が入りました!」
一拍。
理解が追いつく前に、歓声が割れた。
ホールが揺れる。
拍手が爆発する。
叫びが、祈りを突き破って空へ伸びる。
『来た!!!!』
『間に合った!?』
『本当にやるの!?』
直山が、ついに叫ぶ。
「来たぞおおおおお!!
おい!
伝説が今!
屋上に来た!!」
Synaptic Driveは、まだステージにいない。
だが——夜は、続きを要求した。




