vol.224 天使が届けた夜
JHKホールのステージ。
イントロが流れる。
それは、誰もが予想していた激しいダンサブルなサウンドではなかった。
透明で、どこか懐かしいピアノの旋律。
けいとはマイクに向き合う。
Synaptic Driveはまだ来ない。
けんたろうはいない。
彼が作った『Reach out far』を歌えば、会場は盛り上がったかもしれない。
でも、あえて選んだ。
この静かなバラード。
歌い出し。
静寂を震わせる、けいとの声。
【まだ声があどけなくて ふいに見せる 真剣な顔に】
【胸の奥 かすかに響いた 知らない音がしたの】
会場のざわめきが消える。
焦燥も、不安も、彼女の声に吸い込まれていく。
そこにいるのは、華やかな「女王」ではない。
恋をする、等身大のひとりの女性だ。
けんたろうちゃん、聴こえてる?
私はここで歌ってるよ。
あなたがくれた曲じゃなく、あなたへの想いを。
空の彼方へ届けとばかりに、けいとの歌声が熱を帯びていく。
それは宣誓。
何より深い愛の証明。
♪ ♪ ♪
上空1000メートル。
ヘリコプターの機内。
耳の奥で、世界がずっと唸っている。
プロペラの轟音が骨に残り、機体の振動が膝の上のノートPCを細かく揺らす。
画面には五線譜。
打ち込んだ音符。
曲の断片が、何度も崩れる
そのとき。
機内の小さなモニターに、Midnight Verdictが映った。
司会者の声。
歓声。
そして——ピアノ。
「……え?」
僕の指が止まる。
ありえない。
この状況で?
今、会場は「時間稼ぎ」を求めてる。
盛り上がりを求めてる。
『Reach out far』なら、確実だった。
なのに。
ピアノは、優しい。
どこまでも優しい。
優しいから、心の奥まで入り込む。
残酷なのは、僕が今、優しさを受け取れる状態じゃないからだ。
けいとさんの声が聞こえた瞬間。
機内に響く轟音が、ただの「背景」に退く。
鼓膜じゃない。
身体全体に直接、彼女の声が響いてくる。
【季節はたぶん 春の終わり
誰もいない あの公園で
名前を呼ぶ その声に
天使が そっと舞い降りた】
それは、僕らの記憶。
本人しか書けない角度。
あの時の僕の時間。
「僕が作った」歌じゃない。
彼女が、自分の手で、僕を抱きしめにきた歌だ。
喉の奥が詰まる。
熱いものが鼻に上がる。
泣くな。
今は泣くな。
泣いたら、止まる。
止まったら、終わる。
でも、止まらなかったのは作業じゃなかった。
涙だった。
ぽろ、と落ちた。
膝の上。
暗い機内灯の下で、水滴が小さく光る。
自分でも驚いた。
僕にはもう、泣く余裕なんて残ってないと思っていたのに。
残っていた。
彼女が、残してくれていた。
【何も言わずにそばにいた
ただ それだけで苦しくて
気づかれたくない気持ちが
影のように揺れていた】
僕は口を押さえた。
泣いてもいい。
ヘリの轟音が、僕を隠してくれる。
向かいの席。
ユージが、モニターを見ていた。
そして、僕を見た。
ほんの一瞬だけ、視線が重なる。
彼は何も言わない。
慰めもしない。茶化しもしない。
ただ、静かに目を逸らした。
窓の外へ。
漆黒の空へ。
まるで「見なかったこと」にするみたいに。
違う。
あれは、見なかったことにしてくれてるんだ。
僕の弱さを、僕のままにしてくれる。
泣いている僕を、天才としても、相棒としても、商品としても扱わない。
ただ、人間として守る目の逸らし方。
やさしさが、胸の内側に沈んでいく。
重いのに、温かい。
JHKホール。
けいとの歌は、サビへ向かっていく。
【ふたりの間に降りてきた天使は
まだ内緒ねって 微笑んだ
こぼれそうな 想いごと
風に隠してた】
会場の空気が変わる。
「盛り上げろ」じゃない。
「聴け」だ。
時間稼ぎのための歌じゃなく、時間を止めるための歌になっている。
客席の誰かがすすり泣く。
スタッフの足音が遠のく。
進行表の赤ペンが、一瞬だけ意味を失う。
この曲は、繋ぎじゃない。
切り札だ。
しかも、けいとさんはそれを「自分の剣」で出した。
Kの曲で勝つんじゃない。
Kが間に合わない夜に、Kを支えるために、自分の歌で立つ。
その事実が、僕の涙をもう一度こじ開けた。
ごめん。
ありがとう。
大好き。
今は、それしか言葉が出ない。
曲が終盤に入る。
けいとの声が、少しだけ震える。
震えは弱さじゃない。
「届いてほしい」という願いそのものだ。
【君が夢を語るたびに
少しだけ寂しくなるのは
きっと未来のどこかで
私がただ 願ってるから】
未来。
——その言葉が、僕の背中を叩いた。
僕は、未来を作ろうとしている。
でも同時に、未来のために「今」を削っている。
けいとさんは、今の僕を見てる。
未来の僕に会いにいくんじゃなくて、今ここで崩れかけてる僕に、手を伸ばしてる。
涙を拭く。
画面の五線譜に戻る。
コード進行を、もう一度組み直す。
美しくしようとするな。
正しく生きようとするな。
今の僕らの速度と、傷口と、息切れを——音にする。
♪ ♪ ♪
JHKホール。
けいとの最後のフレーズが落ちる。
【ふたりの間に降りてきた天使が
「今だけを大事にして」と言った
だから今も
胸の奥で光ってる】
最後のピアノが静かに消える。
余韻が、会場を満たす。
拍手はすぐには来ない。
誰もが、自分の呼吸を探している。
そして、拍手。
割れるような拍手じゃない。
祈りみたいな拍手。
空の上で、僕は泣き止んだ。
泣き止んだというより、涙が「材料」になった。
——あと2曲。
あの人が、地上で歌ってくれている。
ヘリは、東京へ向かって進んでいく。
光の地上と、灰色の空。
僕は僕を削りながら——音を生む。




