vol.222 二つの『素敵』
12月31日。
午後9時10分。
JHKホール。
会場は熱い。
だが、その熱の種類が変わる。
歓声より先に拍手が揃う。
視線が正面に集まる。
次に出てくるものを、観客の身体が感じる。
司会者が少しだけ声のトーンを落とす。
「続いては、演歌界の重鎮。
大河内いさおさんです」
拍手が起きる。
厚い拍手。
若手の出演者たちも、袖で自然に姿勢を正す。
セブ直山の配信が、珍しく落ち着く。
「大河内いさお。
派手さで勝つ人じゃない。
場を整えて、若手が歌いやすくするタイプの重鎮。
この人がいると番組が締まるんだよ」
♪ ♪ ♪
照明が落ち、床面LEDが墨を流したように暗くなる。
白い光の中に、大河内いさおが立つ。
黒紋付に羽織。
余計な飾りはない。
立ち姿だけで舞台の輪郭が締まる。
イントロ。
太鼓が腹を叩き、三味線が乾いた火花を散らす。
曲名は『峠の灯』。
歌い出しの一音で、空気が静まった。
【峠の風は冷たくて 握った夢が痺れたよ】
【負けて覚えた歩き方 それでも足は前を向く】
声は大きいのではない。
深い。
観客の胸へ沈み込んで、姿勢まで変えてしまう。
サビ。
【灯せ灯せよ峠の灯 消えたら迷うこの胸に】
【誰のためでもない命 それでも歌が道になる】
大河内いさおは崩さない。
崩さないことが技術であり、誠実さ。
歌い終えた瞬間、拍手が遅れて爆発する。
拍手の中に、感謝が混ざる。
司会者が近づく。
「大河内さん、圧巻でした」
大河内いさおは、穏やかに頷く。
「若い人らが気持ちよく歌えるように、場をあっためただけや」
謙遜に聞こえるのに、背筋が伸びる言葉。
重鎮は、自分の重さで若手を押し潰さない。
「好きに歌いなさい。
ただし、歌だけは裏切るなよ」
袖で若手が小さく頭を下げる。
慕われる理由が、一瞬で伝わる。
直山が息を吐く。
「こういうのが本物の先輩だよな。
若手に席を譲るんじゃなくて、若手が立ちやすい床を作る」
♪ ♪ ♪
司会者が次を告げる。
「続いては、藤原しずくさんです」
照明が、深い青へ落ちる。
華やぎが引いて、静けさが濡れる。
空気が、冷たくなる。
藤原しずくが現れる。
濃紺の着物。
刺繍は淡い金で、派手に主張しない。
帯は細く締まり、背筋が一本通っている。
髪はまとめられ、うなじの白さが目に刺さる。
扇子は閉じたまま。
指先が静かに揃っている。
しずくは笑わない。
笑わないことが、観客への礼儀。
軽い共感ではなく、同じ深さまで降りて来いと告げている。
直山が息を吸う。
「藤原しずく。
この人の怖さって、悲しい歌でも泣き顔を見せないところなんだよ。
泣くのは聴いた側だけになるんだよ」
曲は『ASUKA』。
イントロが走る。
和の旋律が鋭く、低いビートが床を叩く。
速いのに、冷たい。
激しいのに、凛としている。
会場の視界が、しずくだけに収束する。
しずくの目が、遠い。
客席もカメラも映っていない。
映っているのは、彼女の中にある道だけだ。
【風が吹く この道の 向こう側に 何がある】
【たとえ誰も いなくても 私は行く 明日の方へ】
【涙ひとつ こぼすたび 強くなれると 信じてる】
【赤い花が 咲くように 心燃やして 生きてゆく】
一行ごとに、しずくの過去が透ける。
置き去り。
見下し。
退場宣告。
それでも、立っている。
立って歌っている。
観客は勝手に彼女を孤独にするが、しずくは孤独を燃料に変える。
サビ。
扇子が開く。
所作は優雅で、刃のように正確だ。
【ASUKA! 翔け抜けて 夢を追いかけ どこまでも】
【時代(ときの流れに 逆らって 自分だけの 空を飛べ】
【ASUKA! 舞い上がれ 翼広げて 風になる】
【誰のためでもない命 輝くために ここにいる】
最後のフレーズで、しずくは天を仰ぐ。
泣かない。
揺れない。
扇子を閉じ、一礼する。
袖口が揺れない。
拍手が起きるまでの数秒が長い。
観客が、自分の心拍を確かめている。
そして拍手。
熱い拍手。
ざわつかない。
圧倒された拍手。
直山が掠れ声で叫ぶ。
「今の、反則だろ!
情念で殴ってんのに、最後に立ち姿で敬礼させてくる。
刺さったやつ、今夜眠れねえぞ!」
♪ ♪ ♪
司会者が汗を拭きながら笑う。
「藤原さん、圧巻でした。
さて、ここで皆さんが気になっていることをお聞きします」
空気が再び張る。
「今年は同じ作曲者が大ヒットをした曲がいくつもあります。
作曲者K。
正体は公表されていません。
藤原さん、Kさんはどんな方なのでしょう」
しずくは扇子を口元に当て、目だけで微笑んだ。
その微笑みは、線を引く。
「Kさんは、すてきなひとよ」
たったそれだけ。
なのに、会場の空気が一段重くなる。
言葉が短いほど、隠しているものが多いと誰もが感じてしまう。
「素敵な方。
なるほど。
藤原さんらしい表現ですね」
しずくは微笑みのまま、首を少しだけ傾ける。
それ以上は言わない。
言わないことが、いちばん雄弁だった。
♪ ♪ ♪
司会者が流れを作るように、話題を横へ滑らせた。
「そして今回、そのKさんが楽曲提供したもう一組がいます。
トップバッターで会場を沸かせてくれたDreamJumpsの皆さんにもお伺いします」
カメラがDreamJumpsを抜く。
めぐみが一歩前へ出る。
マイクを持つ手が力強い。
司会者が問いかける。
「今回、DreamJumpsにも楽曲提供したKさんですが、めぐみさんから見てKさんはどんな方ですか」
めぐみは間髪入れずに答えた。
迷いがない。
光の速度だ。
「Kさんはとっても素敵な人です!」
会場がふっと明るくなる。
その言い方は、信じている者の言葉だ。
疑いも、駆け引きもない。
しずくの扇子が、ほんのわずかに止まった。
止まったのは手ではない。
空気だ。
しずくが、ゆっくりめぐみを見る。
笑っている。
だが温度がない。
「そう」
一言だけ。
それだけで、距離ができる。
めぐみも引かない。
笑顔のまま、視線を外さない。
素敵という言葉の中身が、二人で違うのがわかる。
会場がざわつく。
司会者が慌てて笑い、手を叩く。
「おおっと。
お二人とも素敵な方、ということで一致ですね。
素敵が渋滞しています」
直山が配信で叫ぶ。
「一致してねえだろ!
同じ単語で殴り合ってんだよ!
しずくの素敵は、刃物のケース入り。
めぐみの素敵は、太陽直送。
同じ素敵でも温度が違いすぎる!」
しずくは扇子で口元を隠したまま、目だけで微笑む。
めぐみは胸を張って微笑む。
素敵。
この言葉が、今夜いちばん鋭い火花。
「ありがとうございます。
さあ、次のステージへ参りましょう」
♪ ♪ ♪
――その頃。
上空1000メートルの轟音地獄から、彼らは一時的に解放されていた。
ヘリコプターは、中継地点の地方空港の片隅へ着陸していた。
給油のための一時停止。
プロペラの回転が緩まり、やがて完全に止まる。
エンジンの断末魔が消えると、世界は突然、真空パックされたような静寂に包まれた。
耳がキーンとする。
遠くで給油車のポンプ音が聞こえるだけの、無機質な静けさ。
「……」
その沈黙を破ったのは、乾いた打鍵音の連打と、最後のエンターキーを叩く音。
「……できた!」
けんたろうが、PCから顔を上げた。
その声は弾んでいたが、同時に悲鳴のようにも聞こえた。
ユージが弾かれたように顔を上げる。
「マジか!?」
「1曲目!
データ送った!
覚えて!」
けんたろうの様子は、明らかに常軌を逸していた。
顔色は紙のように白く、髪は冷や汗で額に張り付いている。
けれど、その瞳だけが、異常なほどの光を放っていた。
爛々と輝く眼光。
それは壊れたというより、何かに憑依され、人間の限界を超えた領域に踏み込んだ者の目だった。
ユージは慌ててタブレットを開き、送られてきたデータを開く。
ヘッドホンを耳に当てる。
再生ボタンを押す。
そして、息を呑んだ。
「……ッ」
流れてきたのは、予想していたような激しいロックでも、怒りのパンクでもなかった。
美しい。
あまりにも美しく、透明で、そして泣きたくなるほど切ないメロディ。
ピアノの旋律が、雨粒のように繊細に落ちてくる。
そこに重なる歌詞は、今の彼らの状況そのものなのに、不思議と詩的に昇華されていた。
「逃げ出したい」という情けない叫びが、世界中の誰の心にもある「孤独」への共感へと変換されている。
(これをお前が、今、作ったのか……?)
ユージは戦慄した。
相棒の才能の底が見えない。
泥のような恐怖を飲み込んで、宝石のような音楽を吐き出したのだ。
ユージは顔を上げ、けんたろうを見る。
相棒はもう、ユージを見ていなかった。
すでに、次の画面を開いている。
ユージは口元を歪め、ニヤリと笑った。
兄貴分の仮面を捨て、一人のプロの顔になる。
「……上等だ。
任せろよ」
ユージはヘッドホンを強く押し当て、楽譜に没入する。
けんたろうは、ユージの返事を聞いたかどうかも分からないまま、再びキーボードに指を走らせた。
2曲目。
止まれない。
一度止まってしまえば、恐怖に押し潰される。
だから走る。
指先から血が出るほどの勢いで、脳内の音を具現化していく。
プシュー、という給油ノズルの外れる音が響く。
「給油完了!
コンタクト!」
作業員の怒号。
静寂の時間が終わる。
再びエンジンが唸りを上げ、プロペラが風を切り裂き始める。
暴力的な爆音が、機内に戻ってくる。
残り2曲。
東京まで、あと半分。




