vol.218 ユージが折れた日
12月31日。
福岡ドーム。
楽屋の空気は、鉛のように重かった。
スマホの画面には、昨日の僕の失言――「まだ1曲もできていません」という告白が、ネットニュースのトップを飾っている。
『SynapticDrive、放送事故確定か?』
『無謀すぎる挑戦の末路』
コメント欄は、面白がる声と、心配する声と、呆れる声で溢れかえっていた。
「……けんたろうくん、ユージくん」
綾音さんが、事務的な声で告げる。その声には、もう焦りすらなく、どこか諦めのような色が混じっていた。
「ライブ終了後、即移動です。
汗を拭く暇もありません。
ドームの駐車場から車でヘリポートへ。
そこからヘリで東京・JHKホールの屋上へ直行します。
リハなし。
ぶっつけ本番。
……とにかく、あなたたちを東京に送り届ける。
私の仕事はそれだけです」
彼女はもう、新曲ができることなんて期待していないのだろう。
ただ、この無謀なスケジュールを物理的にこなすことだけを考えている。
「はい」と答える僕の声は、情けないほど震えていた。
胃が痛い。
内臓が雑巾絞りされているようだ。
アイデア?
枯渇している。
一滴も残っていない。
今の僕にあるのは、逃げ出したいという恐怖だけ。
そのとき、楽屋のドアが開き、メディアの取材陣がなだれ込んできた。
ツアーファイナル直前の囲み取材。
カメラのフラッシュが焚かれる。
「ユージさん!
ネットは大騒ぎですが、本当に新曲3曲、間に合うんですか!?」
マイクを突きつけられたユージ。
いつもなら「当たり前だろ!伝説見せてやるよ!」と吠えて、記者を煙に巻くところだ。
しかし、今日の彼は違った。
「あー……まあ……」
ユージは視線を泳がせ、ポリポリと頬をかいた。
「ノリで言っちゃったのはあるけど……なんとかなるんじゃないのか?
……うん、たぶん」
弱い。
圧倒的に弱い。
記者たちが「おや?」という顔でニヤニヤし始める。
天下の暴君・ユージが、明らかに自信を喪失している。
彼はチラリと僕を見た。
その目には、いつもの覇気はなく、申し訳なさと後悔の色が滲んでいた。
自分の大風呂敷のせいで、相棒を追い詰めている――その自覚が、彼から言葉を奪っていた。
その弱々しい姿を見て、僕の胸に鋭い痛みが走った。
♪ ♪ ♪
午後4時。開演。
数万人の歓声が、物理的な衝撃波となってステージを揺らす。
福岡のファンは熱い。
ツアーファイナルという高揚感が、会場の空気を沸騰させている。
僕たちは、追いつめられた獣のように演奏した。
『さざなみ』で会場が青く染まり、涙を流すファンが見える。
『FIRE ON THE MERCURY』では、ドーム全体が炎のように燃え上がった。
ユージの歌声は力強く、僕の指も熱を帯びていた。
最高だ。
これだけでいいじゃないか。
この最高のライブだけで、もう十分じゃないか。
そんな甘い誘惑が頭をよぎる。
そして、アンコール。
MCのマイクを握った僕に、客席から容赦ない声が飛んだ。
「けんたろうー!!新曲はー!?」
「できたのー!?」
「3曲やるんやろー!?」
数万人の期待が、僕一人に突き刺さる。
隣のユージが、身を縮こまらせているのが気配で分かった。
僕は震える手でマイクを握り直し、深呼吸した。
「新曲は……!」
ドームが静まり返る。
「……まだ、できていません……」
マイクを通した声は、かき消された。
一拍の沈黙。
そして。
「ええええーーー!!??」
ブーイングとも、爆笑ともつかない轟音がドームを包んだ。
「マジかよ!」「今から!?」「頑張れ!」
その声援すら、今の僕には重すぎた。
♪ ♪ ♪
終演直後のステージ裏。
僕たちは走っていた。
「急げ急げ!」と怒号が飛ぶ。
通路の角を曲がったところで、ユージが突然、足を止めた。
僕の腕を掴む。
その手は、驚くほど優しく、そして冷たかった。
「……おい、けんたろう」
ユージの顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
まるで、全てを受け入れた顔。
「もういい」
「え?」
「無理だ。
今から移動して、ヘリの中で3曲?
できるわけねえ。
俺が悪かった。
調子に乗ってた」
ユージは僕の肩に手を置き、静かに言った。
「年末歌合戦。
『さざなみ』でいこう」
「……え?」
「あとは俺がやる。
全国民の前で土下座でも何でもしてやる。
『俺がバカでした。曲なんてできてません』って言ってやる。
全部俺のせいだ」
ユージは、寂しげに笑った。
「けんたろう、お前はいつも通りでいい。
恥をかくのは俺だけでいいんだ。
お前をこれ以上、追い詰めたくないんだ」
それは、彼なりの最大の誠意であり、愛だった。
兄貴分であるユージが、僕を守るために、自ら泥をかぶろうとしている。
「謝罪」という安全な逃げ道。
それに乗れば、この胃の痛みから解放される。
楽になれる。
でも。
僕は見てしまった。
怖いもの知らずのユージ。
どんな場面でも強かったユージ。
僕のために「敗北」を選ぼうとしている姿。
その優しさが、僕の心臓をえぐる。
――逃げたい。
恐怖が叫ぶ。
――止まれない。
焦燥が叫ぶ。
――壊して進め。
衝動が、理性を食い破る。
僕の中で、何かがパチンと弾けた。
恐怖は消えない。
ただ、恐怖より先に——許せない。
ユージにそんな顔をさせる、自分の無力さが許せない。
「……嫌だ」
僕はユージの手を振りほどいた。
「は?」
「謝罪なんて見たくない。
ファンだって、ユージの土下座なんか見たくないよ!」
僕は叫んでいた。
恐怖で震えていたはずの身体が、ドス黒い熱を帯びて燃え上がっている。
「曲なら……作る。
僕が作る!
恥なんてかかせない!」
ユージが呆気にとられた顔をしている。
僕はPCが入ったバッグを背負い直し、出口へ向かって走り出した。
もう、後戻りはできない。
自分の魂を切り売りする覚悟は決まった。
逃げ出したい心。
暴走する焦り。
崩壊していく理屈。
全部、曲にしてやる。
「行くぞ!
ヘリの中で3曲、ひねり出す!」
背後で、ユージが「……ハッ」と短く笑う気配がした。
「……上等だ、コラァ!!」
復活した野獣の足音が、僕を追い抜いていく。
屋上に出ると、爆音が鼓膜を叩いた。
回転するプロペラが風を巻き起こしている。
眼下には、福岡の美しい夜景。
あれが、東京まで続く滑走路だ。
僕たちはヘリコプターに乗り込む。
ヘッドセットをつける。
機体がふわりと浮き上がる。
地面が遠ざかる。
僕は膝の上でノートPCを開く。
バッテリー残量は100%。
僕は何%?
移動時間、約4時間。
高度1000メートル。
逃げ場のない空。
僕の「魂を削る作業」が始まった。




