vol.217 1000キロを隔てる「愛」と「無」
綾音の恋心を「完璧なマネージャーとしての振る舞い」の中に徹底的に隠す形に修正しました。
彼女は自分の感情を「職業病」や「弟のような存在」という言葉にすり替えることで、防御線を張ります。
vol.235 天使の記憶と、年上のひと
ミニバンはまだ、東名高速を西へ走り続けていた。
左手に広がる相模湾が、冬の太陽を浴びてキラキラと光っている。
その景色を見た瞬間、僕の胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入った。
「あ……」
見覚えがある。
このガードレール。この海の青さ。
それは、僕が一度すべてを投げ出し、逃げ出した時の記憶と繋がっていた。
あの頃も、僕は限界だった。
精神的に追い詰められ、行き倒れていた僕を拾ってくれた人。
藤原しずくさん。
あの日、彼女は僕にとって、空から降りてきた天使そのものだった。
今、僕はあの時と同じような場所にいるのかもしれない。
逃げ出したくて、でも逃げられなくて、仲間に運ばれている。
(しずくさん……元気かな)
ふと、年末歌合戦での彼女の姿が脳裏をよぎる。
僕が提供した楽曲『ASUKA』。
彼女はその曲を武器に、見事な復活を遂げた。
ステージで力強く歌う彼女は美しかったけれど、僕の記憶の中の彼女は、もっと柔らかくて、甘い匂いがして、母親みたいに僕を包み込んでくれる存在だった。
あんなに一方的に、無償の愛で甘やかされたのは初めてだった。
ただそこにいるだけで「いいんだよ」と肯定してくれる温かさ。
今の僕が一番求めているものが、あの時の記憶の中にあった。
「……僕ね、しずくさんと旅をしてた時、このまま一緒になるのも一つの人生かな、なんて思っちゃったんだ」
窓の外を見つめたまま、僕はポツリと漏らしていた。
独り言のつもりだったけれど、静かな車内では思った以上にはっきりと響いた。
「え?」
運転席のユージが、目を丸くしてバックミラーを見る。
綾音さんも驚いたように振り返った。
僕は慌てて、でも隠さずに続けた。
今のこの穏やかな空気なら、話せる気がしたから。
「あの時、本当に弱ってたから。
しずくさんの優しさが、すごく身に染みたんだ。
何も求めず、ただ可愛がってくれて……救われたんだよ」
ユージは「へぇ……」と意外そうに唸り、綾音さんは優しく微笑んだ。
「けんたろうくんは、放っておけないオーラがありますからね。
しずくさんも、今の私たちみたいに、守ってあげたかったんだと思いますよ」
守る。
その言葉に、僕はふとある事実に気づいた。
「そういえば……僕の周りって、年上の女性ばっかりだ」
指折り数えてみる。
けいとさん。
一条零さん。
藤原しずくさん。
ゆりこさん。
みんな、僕より年上で、それぞれの分野で戦っている強い人たちだ。
僕が彼女たちに惹かれるのか、彼女たちが僕を拾うのか。
ふと気になって、僕は助手席の綾音さんに尋ねた。
「ねえ、綾音さんはどう思う?
年下の男の子って、恋愛対象としてアリ?」
綾音さんもまた、僕より少し年上のお姉さんだ。
いつも僕たちを支えてくれる、しっかり者のマネージャー。
綾音さんは手元のタブレットで地図を確認していた手を止めず、さらりと答えた。
「年齢ですか? 関係ないと思いますよ」
その声は、いつもの冷静なトーンだ。
迷いも、動揺もない。
「その人が、どんなに脆くて、危なっかしくても……。
一生懸命に夢を追っている姿を見たら、支えてあげたいって思うのは自然なことです。
それは恋愛というより……一種の『職業病』みたいなものかもしれませんね」
彼女はそこで言葉を切ると、振り返って困ったように笑った。
「それに、今は手のかかる『弟たち』の世話で手一杯ですから。
これ以上、年下の男の子の面倒を見るのはごめんです」
弟たち。
僕とユージのことだ。
その言葉選びに、僕は妙に納得してしまった。
彼女はあくまでマネージャーとして、僕たちを「手のかかる弟」として見ている。
そこに恋愛感情なんて入り込む隙間はないのだ。
その完璧な笑顔の裏で、彼女がどんな思いで「弟」という線引きをしたのか。
鈍感な僕は、気づく由もなかった。
「おーおー、言われてんぞけんたろう! 俺たちは手のかかる弟だってよ!」
空気を変えるように、ユージが茶化す声を上げた。
ニヤニヤしながら、ミラー越しに僕を見る。
「おい、まさかこの場で浮気宣言か?
けいとちゃんに怒られるぞ?」
「ち、違うよ! ただの一般論だよ!」
僕は慌てて否定した。
顔が熱くなる。
しずくさんへの感謝も、綾音さんへの質問も、他意はない。
僕の心にあるのは、いつだってけいとさんだけだ。
「ま、冗談だけどよ」
ユージはハンドルを握り直しながら、呆れたように、でも優しく笑った。
「お前がいろんな人に愛されるのは事実だ。
けいとちゃんも、しずくさんも、そして……ま、ここにいる俺たちもな。
お前は本当に罪な男だよ、ったく」
罪な男。
その言葉に、僕は複雑な気持ちで窓の外へ視線を戻した。
多くの愛に支えられている。
それは幸福なことだ。
けれど同時に、そのすべての期待に応えなければならないという重圧もまた、僕の肩に乗っている。
綾音さんはもう、前を向いて地図の確認に戻っていた。
助手席の彼女の背中が、頼もしいマネージャーの姿に見える。
タブレットを持つ指先が、ほんの少しだけ白くなるほど強く握られていたことを、後ろの僕は知る由もなかった。
車は高速道路を降り、料金所を通過していく。
僕の青春は、才能と恋、そして絡み合う幾つもの想いを乗せて、冬の道を走り続けていた。




