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vol.212 さざなみ

 レコーディングブースのガラス越しに、ユージが歌っている。

 ヘッドフォンから流れる歌声は、温かくて、少し掠れていて、完璧だった。


【……眠る君の あどけない横顔

 月明かりが 青く縁どる

 世界中が 夢を見る時間

 僕だけが 夜の淵にいる……】


 静かなピアノのイントロ。

 ユージの声がスタジオの空気を震わせる。

 ミキサー卓の前に座る綾音さんが、小さく息を呑んだ。

 モニターを見つめる彼女の横顔は、感動で紅潮している。


【……寄せては返す 築き上げた 砂の城を

 音もなく 崩して さらっていく

 君を守る その強ささえ

 波が削って 透明にする

 僕はここで 笑えているかな

 満ちてゆく 静寂しじまの中で】


 ユージが感情を込めて歌い上げるサビ。

 「透明にする」というフレーズで、彼の声が微かに震えた。

 計算ではない、魂の共鳴。

 歌い終わったユージは、ヘッドフォンを外す。

 呆然とした顔でマイクを見つめている。


「……しんみりくるな。

 これ、ほんとに俺が歌っていいのかよ」


 珍しく弱気な、でも確かな手応えを感じている声。

 綾音さんも大きく頷く。


「すごい……。

 ユージくんの声質、バラードだとこんなに艶が出るんですね。

 これは売れます!

 間違いなく」


 二人は興奮していた。

 新しい武器を手に入れた戦士のように、目が輝いている。

 綾音さんが勢いよく振り返り、僕の方を見た。


「けんたろうくん!

 最高です!

 これでSynaptic Driveは……」


 言葉が、途切れた。

 綾音さんの笑顔が、ふっと凍りついたように止まる。

 彼女は僕の顔をじっと見つめ、何か言おうとした。

 でも、口をつぐんだ。

 その瞳には、おびえたような色が浮かんでいた。


 ――僕、今、どんな顔をしてるんだろう。


 『僕はここで 笑えているかな』

 さっきユージが歌った歌詞が、頭の中でリフレインする。


 内心ではただ一つの感情しかなかった。

 (終わった……やっと終わった……)

 (これでしばらく、何も作らなくていい……)


 喜びではない。

 達成感ですらない。

 重い荷物をようやく下ろせたという、逃避的な安堵。

 ユージたちが喜んでいる声。

 分厚いアクリル板の向こう側から聞こえてくるように遠い。

 僕はうまく笑えているつもりで、口角を持ち上げた。


「……よかった。

 気に入ってもらえて」


 僕の声を聞いて、綾音さんはハッとしたように視線を逸らした。

 まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。


 ♪ ♪ ♪


 『さざなみ』のリリースは、予想通り……いや、予想以上の反響を呼んだ。

 BPM160のユーロビートから、BPM70のピアノバラードへ。

 その急激な転換は、リスナーを驚かせ、そして魅了した。


 夜、部屋で動画サイトを開く。

 いつものように、二人のYouTuberが反応していた。


 まずは『セブ・直山』。

 サムネイルの彼は、いつものような暑苦しい笑顔ではない。

 目が腫れている。

 再生ボタンを押すと、鼻をすする音が聞こえた。


「おい……なんだよこれ……」


 直山は、テーブルに突っ伏して泣いていた。


「Synaptic Driveって、こんな顔持ってたのかよ。

 反則だろ……。

 歌詞見たか?

 『足元をすくって連れていく』って……

 これ、ただのラブソングじゃねえよ。

 波にさらわれて、もう二度と戻ってこない人の歌に聞こえるんだよ!

 『水底なら軽くなるかな』って、なんでそんなこと言うんだよ!

 悲しすぎるだろ!

 なんでこんな寂しい音が作れんだよ、けんたろう!」


 画面の中の直山が、涙でぐしゃぐしゃになった顔で叫ぶ。

 心臓が冷えた。

 直感型の彼は、時々鋭すぎて怖い。

 僕は逃げるように動画を閉じた。


 次に、『ザッツ小泉』の動画。

 こちらは対照的に、冷徹なまでの分析動画だった。


「K氏が、ぷっつりと姿を消しました。

 メディアへの露出も、楽曲提供の噂も、ピタリと止みました」


 小泉は眼鏡の位置を直しながら、淡々と語る。


「その直後に、Synaptic Driveが新境地を発表。

 ……あまりにも鮮やかすぎるバトンタッチです。

 まるで、K氏がその魂をけんたろう氏に譲渡したかのようです。

 あるいは――」


 彼はカメラを真っ直ぐに見据えた。


「最初から、一人だったのか」


 コメント欄が加速する。

 『確定演出きた』

 『K=けんたろう、もう隠す気ないだろ』

 『天才すぎる』

 ネット上の「疑惑」が、強固な「確信」へと変わっていくのが目に見えて分かった。


 さらに、ニュースサイトの記事が目に止まる。

 

『Synaptic Driveの新曲は、若さ特有の疾走感を捨て、成熟した大人の哀愁を纏っている。これは単なる方向転換ではない。作曲者であるけんたろう氏の、内面の劇的な変化、あるいは喪失を感じざるを得ない』(佐野美月)


 プロたちは気づき始めている。

 この曲が、ポジティブな進化だけではないことに。


 ♪ ♪ ♪


 ブー、ブー。

 枕元のスマホが震えた。

 画面に表示された名前を見て、胃が縮こまる。

 『けいと』。


 通話ボタンを押して、耳に当てる。


「……もしもし」


 努めて明るい声を出そうとしたが、カスカスだった。


「けんたろうちゃん」


 けいとさんの声は、低かった。

 いつもの女王様のような響きはない。


「聴いたわよ、新曲。

 ……バラードなんて、初めてじゃない?」


「あ、うん。

 どうだった?」


「とってもよかった。

 ユージの声も艶があったし。

 ……でも、曲が寂しすぎるわよ」


「え……」


「あの歌詞も、メロディも。

 まるで、どこか遠くに行っちゃいそうな音。

 私はね、けんたろうちゃんの作る、もっとイケイケで強気な音が好きなんだから。

 あんな泣きそうな音、らしくないわよ」


 心配してくれている。

 彼女の直感が、僕の不調を嗅ぎ取っている。

 僕は慌てて仮面を被り直す。


「そうかなあ?

 ちょっと新しい挑戦で、大人っぽい雰囲気にしたかったんだよ。

 次はもっと明るいの作ろうかな」


「……本当に?

 無理してない?」


「してないよ。

 創作の幅を広げただけだって」


 嘘を重ねるたびに、舌が乾く。

 けいとさんはしばらく沈黙した後、ふっと息を吐いた。


「……そう。

 まあ、いいわ。

 また、お泊りにいらっしゃい。

 美味しいものでも作ってあげるから。

 ちゃんと食べて、ちゃんと寝るのよ」


 その言葉に、冷え切っていた指先に、ほんの少し血が通った気がした。


「……うん、ありがとう」


 通話を切る。

 完全に闇が晴れたわけじゃない。

 でも、繋ぎ止めてくれる声がある。

 それだけで、呼吸が少し楽になった。


 ♪ ♪ ♪


 通話を終えた手が震えて、スマホを取り落としそうになった。


 部屋が静かすぎる。

 自分の呼吸音だけが、やけに大きく聞こえる。

 吸っても吸っても、酸素が入ってこない気がする。


 ネットを見れば、「Kの正体判明か!?」と祭りのように盛り上がっている。

 称賛、驚愕、期待。

 でも、誰も僕が「必死で息継ぎをしている」ことには気づかない。

 みんな、僕が次々に新しい音楽を生み出す魔法使いだと思っている。


(作らなきゃ……)


 強迫観念が頭をもたげる。

 音楽を紡ぎ続けなければ、僕には価値がないんじゃないか。

 Kという虚像も、Synaptic Driveという看板も。

 僕が新しい音を出し続けなければ消えてしまう。


 『輪郭が 溶けてなくなるまで』

 『僕が僕で なくなる日まで』


 自分で書いた歌詞が、呪いのように耳にこびりついている。

 怖い。

 静寂が怖い。

 でも、音楽を聴くのも怖い。


 僕はベッドに潜り込み、布団を頭までかぶった。

 外界の音を遮断しても、耳の奥で『さざなみ』のピアノが鳴り止まない。


 暗闇の中で、僕はゆっくりと深海へ沈んでいく。

 そこは冷たくて、息苦しくて、でも妙に安心できる場所だった。

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