vol.207 Kを狂わせるBPM
けいとさんのマンションの前。
夕暮れの風が冷たい。
インターホンのボタンが、世界を終わらせる核ミサイルの発射スイッチに見える。
押した。
プルルル……プルルル……。
長い。
永遠かと思うほど長い呼び出し音。
『……はい』
スピーカーから聞こえた声は、氷のように冷たく、そして澄んでいた。
「あ、あの……けいとさん。
僕だよ、けんたろう……」
『……あら、けんたろうちゃん。
どうしたの?
今、世界で一番お忙しい時期でしょうに』
嫌味だ。
間違いなく嫌味。
まごうことなく嫌味。
教科書に載せたいくらい完璧な嫌味だ。
でも、声のトーンはあくまで上品で、優しい。
それが余計に怖い。
オートロックが解除される音が、断頭台の刃が落ちる音に聞こえた。
エレベーターに乗る。
数字が増えるたびに、寿命が減っていく気がする。
部屋に入ると、紅茶の香りがした。
リビングのソファに、彼女は座っていた。
テレビは消えている。
音楽も流れていない。
完全な静寂。
「……け、けいとさん」
僕の声は、情けないほど震えていた。
彼女はゆっくりとティーカップを置いた。
カチャリ、という陶器の音が、僕の心臓に染みる。
彼女は立ち上がり、音もなく近づいてくる。
美しい。
そして、冷たいほどに無表情だ。
僕は耐えきれず、その場に膝をついた。
プライドなんてものは玄関に置いてきた。
「ごめんなさい……!
本当に、ごめんなさい……」
床のカーペットの模様を見つめながら、必死に謝る。
言い訳はしない。
忙しかったなんて理由は、彼女の前では塵と同じだ。
「どんな罰でも受けます。
何でもします。
だから……嫌いにならないで……」
沈黙。
部屋の空気が重力を持ったみたいに重い。
ふわり。
頭に、温かい感触があった。
けいとさんの手が、僕の髪を優しく撫でている。
「……フフッ」
頭上から、甘く、いじわるな笑い声が降ってきた。
それは、天使のようでもあり、悪魔のようでもあった。
「けんたろうちゃん。
本当に、馬鹿ね」
恐る恐る顔を上げる。
そこには、呆れたような、でもどうしようもなく慈愛に満ちた瞳があった。
怒っている。
でも、許している。
その矛盾した表情が、彼女を最高に魅力的に、そして最高に恐ろしく見せていた。
「どんな罰でも受ける、って言ったわよね?」
彼女の細い指先が、僕の頬をつんと突く。
その仕草は子供っぽくて、でも大人の色香があって。
「その言葉、忘れないでね……」
彼女は微笑んだ。
僕を恐怖の底に突き落とし、同時に天国へ引き上げるような、最強の笑顔で。
外ではまだ、『A NEW ERA』が街を変えているらしい。
でも僕の世界は今、けいとさんの一言で物理法則が書き換わった。
天才K?
そんな肩書き、この部屋ではホコリほどの価値もない。
「さあ、けんたろうちゃん。
座りなさい」
けいとさんは、ソファを優雅に叩いた。
僕は操り人形のように、ぎこちない動作で彼女の隣に腰を下ろす。
距離が近い。
アールグレイの香りの中に、微かに彼女自身の甘い匂いが混ざり、思考回路をショートさせにかかってくる。
「ねぇ、けんたろうちゃん。
最近、随分とモテるようになったみたいね?」
けいとさんは僕の顔を覗き込み、楽しそうに目を細めた。
その瞳は、獲物を前にした猫のそれだ。
「Dream Jumpsのめぐみちゃんとデートしたんですって?
しかも2回目?」
「ち、違うよ!
あれは楽曲の打ち合わせで……」
「それに、あの歌姫、一条零」
僕の弁解を、彼女の甘い声が塗りつぶす。
「あの哲学者の零様が、あなたのために可愛らしいブラウスと短いスカートで現れたんですって?
彼女のあんな姿、滅多に見られないのに……羨ましいわねぇ」
心臓が跳ねた。
なんで知ってるんだ。
ユージか?
綾音さんか?
いや、けいとさんのことだ。
街中のカラスを使ってでも情報は集めるだろう。
「ねぇ、けんたろうちゃん。
あなたのせいで、私、胸が苦しいわ」
けいとさんは僕の手を取り、自分の胸に当てた。
薄い部屋着越しに、柔らかさと温もりが伝わる。
そして、トクトクと脈打つ規則正しいリズム。
「あなたのせいよ。
こんなに私を心配させて……
こんなに私の心をざわつかせて……」
彼女の顔が近づく。
吐息がかかる距離。
僕は完全にフリーズしていた。
数万人の観客の前でも平気だった心臓が、今は早鐘を打って破裂しそうだ。
「だから、私のこの胸の苦しみを、あなたが診察しなさい」
彼女はニヤリと微笑んだ。
「え……し、診察……?」
僕が間の抜けた声を出すと、彼女の眉がピクリと跳ね上がった。
空気が凍る。
「なによ。
分かってるでしょう?」
低い声。
でも、目は笑っていないようで、奥底でとてつもなく楽しんでいる光が見える。
「脱がしてくれなきゃ、どこが苦しいのか、分かるわけないじゃない!」
「えっ……!?」
「触診よ、触診!
早く触って、どこが苦しいのか、確かめなさい!
まさか、こんな簡単なこともできないの?」
理不尽だ。
完全に理不尽な要求だ。
でも、彼女は一歩も引かない。
むしろ、僕の困惑を味わうように身を乗り出してくる。
それは命令でありながら、世界で一番淫らな招待状でもあった。
従わないという選択肢は、僕の辞書から消滅していた。
僕は震える指を伸ばした。
第一ボタンに触れる。
指先が熱い。
一つ、また一つ。
ボタンが外れるたびに、僕の理性が一枚ずつ剥がされていく音がした。
息が浅くなる。
視線が定まらない。
情けないほど、分かりやすく動揺している。
けいとさんは何も言わない。
ただ、僕の手元と顔を交互に眺めている。
その黙って見てる時間が一番残酷だった。
口元がまた、少しだけ上がる。
目が、笑っている。
僕の恥ずかしさを、丁寧に味わってる顔だ。
最後の一つを外した時、僕は酸欠になりかけていた。
目の前には、息をのむほど美しい、僕の恋人。
彼女は表情を引き締め、あえて冷たい視線で見下ろした。
「ほら、早く」
急かされるたび、僕の指がもつれる。
一つ、また一つ。
ボタンが外れ、白い肌が露わになるたびに、部屋の空気が湿度を帯びていく。
僕の理性が一枚ずつ剥がされていく音がした。
彼女は何も言わず、ただじっと僕を見つめている。
その視線が、どんなスポットライトよりも眩しくて、恥ずかしくて、たまらない。
最後の一つを外した時、僕は酸欠になりかけていた。
目の前には、息をのむほど美しい、僕の恋人。
下着姿になってもなお、彼女は女王のように堂々として、僕を見下ろしている。
「触診よ、触診!
早く触って、どこが苦しいのか、確かめなさい!
まさか、こんな簡単なこともできないの?」
簡単なわけがない。
世界で一番難しい。
でも彼女は、それを分かって言ってる。
分かった上で、嬉しそうに言ってる。
けいとさんは、僕の手首を掴み、自分の左胸へと強引に引き寄せた。
素肌に直接、掌が触れる。
滑らかで、柔らかくて、恐ろしいほど熱い。
「次は心音。
聴診器なんていらないわ。
耳を当てて……私の音が、聞こえるでしょう?」
言われるがまま、僕はそっと耳を寄せた。
彼女の胸に、頭を埋める。
彼女の匂いが鼻腔を満たし、世界から他の音が消えた。
ドクン、ドクン、ドクン。
強く、速く、確かなリズム。
僕がどんな名曲を作ろうと、どんなビートを刻もうと、絶対に敵わない音。
命の音だ。
そしてそれは、僕のために鳴っている音だ。
「聞こえる?
けんたろうちゃん」
頭上から降ってくる声は、さっきまでの罵倒が嘘のように甘く、とろけていた。
「これが、あなたを待っていた私の時間よ。
嫉妬も、不安も、好きって気持ちも、全部ここにあるの」
気づけば、僕の体温も沸点に達していた。
恥ずかしさと、申し訳なさと、どうしようもない愛おしさで、全身が熱い。
僕は、彼女の柔らかさと音に包まれて、小さく頷くことしかできない。
ぎゅっ。
けいとさんの腕が、僕の背中に回った。
強く、抱きしめられる。
まるで、迷子が二度と逃げ出さないように捕まえるみたいに。
「あら……けんたろうちゃん、すごい熱」
「けいとさんの、せいだよ……」
「フフッ。人のせいにしないの」
彼女は僕の額にキスを落とした。
甘い地獄。
あるいは、出口のない天国。
僕の青春は、この絶対的な女王様の手のひらの上で、これからも転がされ続けるのだ。
でも、ここ以外に帰る場所なんて、僕には一つもありはしなかった。




