vol.206 新世界
朝の街が、いつもより少しだけ速かった。
信号のせいじゃない。
空気が、一曲ぶん前へ出ている。
まるで街全体が、これから始まるイントロに向けて息を吸い込んでいるような、そんな奇妙な緊張感。
コンビニの自動ドアが開くたび、漏れ聞こえる音。
タクシーの窓越し、駅の雑踏、すれ違う人のイヤホン漏れ。
すべてが『A NEW ERA』だった。
一条零。
そして、作曲「K」。
渋谷のCDショップに足を運んでみたけれど、そこにはもう「黒い穴」が空いているだけだった。
一条零の新曲コーナー。
漆黒のジャケットが並んでいるはずの棚が、ごっそりとえぐり取られたように空っぽだ。
店員が「完売」の札を貼ろうとしているそばから、また人が押し寄せる。
段ボールから棚に並べる暇すらない。
補充の段ボールが積まれているのに追いつかない。
売れるというより、回収されていくみたいだった。
「マジでないじゃん」
「ダウンロードも鯖落ちしてね?これヤバくね?」
若者たちの声が、耳に痛いほど響く。
スマホを取り出す。
チャートの数字を見た瞬間、喉が渇いた。
更新、なんて生ぬるい言葉じゃ追いつかない。
ランキングの数字が、一段飛ばしどころか、エレベーターで屋上まで突き抜けている。
2位以下の数字が、まるで別の国の通貨みたいに遠く霞んで見えた。
♪ ♪ ♪
ネットは、朝から火事だった。
火をつけたのは零で、燃料は「K」。
ネットの世界は、祭りというより暴動。
匿名掲示板、SNS。
どこを見ても「K」の文字が踊り狂う。
【掲示板:音楽総合スレ】
『【速報】一条零の新曲、初動で歴代記録更新www』
『二位との差、事故レベル』
『黒ジャケ消えた。ガチで消えた。』
『耳が新時代に矯正される』
『A NEW ERA、イントロで呼吸の仕方変わるんだが』
『零様が歌ってないのに、歌ってる姿勢が見えるの何?』
『てか作曲K、またお前かよ』
『Kに曲作ってもらえたら人生勝ちだろ』
『事務所がK囲いに行く未来見える』
『匿名っていうけど、いつまで守れる?』
『これ聴くと耳のスペック上がるわ』
『黒ジャケ難民、救済求む。店舗ハシゴしても全滅』
『イントロで呼吸止まって、サビで蘇生した』
SNSのトレンドは、もはや短歌の集積だ。
「#A_NEW_ERA」
「#零様しか歌えない」
「#作曲K」
「#黒ジャケ難民」
「#イントロで落ちてサビで蘇生」
称賛の嵐。
でも、僕が一番冷や汗をかいたのは、やっぱり「あいつら」の反応だ。
DTM板の住人たち。
音作りオタクたちのスレ。
彼らの分析は、いつだって解剖医みたいに鋭いから怖い。
【DTM・作曲家スレ】
『【DTM】A NEW ERAの音作り考察スレ【零】』
『イントロのシンセ、倍音の出し方が尋常じゃない。厚いんじゃなくて奥行きがある』
『キック、前に出てるのに邪魔しない。低域の整理が異常にうまい』
『サビで空気が反転する感じ、転調っていうより照明が変わるやつ。あれどうやってる?』
『音数多いのに聴き疲れしない。定位と残響の設計が職人』
『これ、零のレンジ前提でメロ組んでる。普通の歌い手だと上が薄いか下が潰れる』
『結論:歌えるの零しかいない。ユーロなのに聴かせる成立させてるの狂ってる』
『K=同一人物だろ。ASUKAとMagicと今回、ピアノの触り方が同じ匂いする』
『匂いって何だよw』
『匂いは匂いだ。譜割りの癖。間。祈り方。』
『A NEW ERAのステム解析したけど、吐きそう』
『何があった?』
『キック(バスドラム)とベースの処理が変態的。これ、料理で言えば「激辛なのに甘い」みたいな矛盾を成立させてるぞ』
『わかる。低音が前に出てるのに、ボーカルの邪魔を一切してない。ミリ秒単位で位相ズラしてるだろ』
『転調もおかしい。理論上は濁るはずのコード進行なのに、なんでこんなに綺麗に響くんだ?まるで泥水を濾過して聖水に変えるみたいな手品だ』
『結論:K=未来人説』
正解。
いや、未来人じゃないけど。
僕はこっそり息を吐いた。
位相をズラす、なんて専門的な話はともかく、「矛盾を成立させている」と気づかれたのは嬉しい。
あれは苦労したんだ。
激しいビートの中で、一条零の声だけが聖母のように浮き上がるバランス。
昼のニュースサイトは、整っているぶん逃げ場がない。
『一条零「A NEW ERA」オリコン初登場1位。初動売上、歴代女性ソロ記録を大幅更新』
『作曲「K」三度目の快挙、業界騒然』
『黒いジャケット、各店で品薄続く』
だが、そんな浮かれた気分に冷水を浴びせるような記事が、一つだけあった。
ニュースサイトの片隅。
『……熱狂の裏で、一つの奇妙な事実に気づく者は少ないだろう。Kの楽曲に見られる独特の転調とコード進行。それは、近年頭角を現したある若きプロデューサーの傾向と一致している。才能は隠せない。あるいは、彼自身が隠すことをやめようとしているのかもしれない』(音楽評論家・佐野美月)
♪ ♪ ♪
そんな僕の恐怖など知る由もなく、別のベクトルで発狂している男がいた。
都内某所、酸素よりも情報の密度が高い六畳一間。
興奮という概念が服を着た男・YouTuber・セブ直山。
「聴いたかオマエらァァァ!!」
手には、奇跡的に入手したらしい漆黒のCD。
「一条零の『A NEW ERA』!!
ランキング?
更新じゃねぇ!
ぶっ壊して、建て直して、皇帝になってる!!
俺はな、震えたよ!
武者震いだよ!
この曲、構成がイカれてる!
ジェットコースターなんてもんじゃない、フリーフォールからの宇宙ロケットだ!」
彼はヘッドホンを叩きつけるように外すと、カメラに顔を近づけた。
唾が飛んできそうな距離感。
「低音で這うようなバースから、サビで一気にハイキーへ飛ぶ!
普通の歌手なら喉がちぎれるぞ!
これは作曲じゃねぇ!
Kからの挑戦状だ!
『お前にこれが歌えるか?』って突きつけて、零様が『余裕よ』って微笑んでる図が見える!
見えるぞ俺には!」
コメント欄が滝みたいに流れる。
『黒ジャケ難民救済して』
『零様の高音が天井突き破った』
『低音が床抜けた』
『作曲K、国家機密にしろ』
『Kに曲頼むにはまず徳を積む必要ある』
『直山落ち着けw』
『K=ドS説』
『零様しか勝たん』
『結論:地球が狭い』
直山は画面へ指を突きつけた。
「で、作曲が『K』だろ!?
おいおい、またKかよ!!
『Magic of Dream』の光!
『ASUKA』の影!
で、今度は零の王冠だ!!」
そして、叫ばずにいられない顔で叫ぶ。
「こんなの、零様しか歌えねーじゃねーか!!
Kって奴、完全に零のスペック理解して限界ギリギリの譜面書いてやがる!
これは作曲じゃねぇ、挑戦状だ!!」
♪ ♪ ♪
Rogue Soundのスタジオ。
機材の熱と、コーヒーの匂いが充満する狭い部屋。
僕はキーボードの前で固まっていた。
「おい、けんたろう」
不意に、ユージがギターを置く。
彼は椅子を逆にまたぐと、いつもの「兄貴モード」の顔で僕を見た。
「……お前、けいとちゃんはちゃんとフォローしてるか?」
ギクリとした。
心臓が嫌な音を立てた。
Kの正体バレとか、チャート1位とか、そんな社会的ニュースが一瞬で吹き飛ぶほど、個人的で深刻な恐怖。
「え……あ、うん。
だ、大丈夫だよ……たぶん……」
「たぶん、じゃねえよ」
ユージは深くため息をついた。
その顔には、数々の修羅場をくぐり抜けてきた男特有の哀愁がある。
「いいか、よく聞け。
女の勘をナメるなよ。
特にけいとちゃんクラスになると、勘っていうか、もう予知能力だからな。
スタンド能力に近い」
「ス、スタンド……」
「お前が忙しさにかまけて連絡を絶ってる間、彼女はどうしてると思う?
怒ってる?
違うな。寂しがってる?
それも甘い。
……静かに『待ってる』んだよ。
笑顔でな。
それが一番怖いんだ」
ユージの言葉が、ボディブローのように効いてくる。
「今すぐ会いに行け。
Kである前に、男だろ!
チャート1位より大事なもん失ったら、どんな名曲書いても虚しいだけだぞ」
外ではまだ、『A NEW ERA』が街を変えている。
天才K?
僕はスマホの電源を落とした。
僕は、ユージの言葉にただ小さく頷いた。
僕の世界は、けいとさんの一言で音が決まる。
そして怖いから。
そして、たぶん――それが、僕の新時代だった。




