vol.205 A NEW ERA
夜が明けきらないうちに、僕は曲を完成させた。
指先が、まだ熱い。
コーヒーだけが冷えていく。
五線譜の上には、昨夜の公園の匂いと、夜明けの予感が残る。
タイトルは『A NEW ERA』。
新時代。
僕は帽子を深く被り、黒いマスクを上げて、「K」になる。
業界最大手、エンペラー・レコード。
都心にそびえる自社ビルは、まさに音楽界の「帝国」。
その最上階にある会議室に通された僕は、緊張で喉が渇いていた。
重厚な扉が開く。
そこに、一条零さんがいた。
歌姫の正装。
昨日のパステルカラーとは打って変わり、今日は漆黒のドレス姿。
彼女は僕を見ると、小さく、力強く頷いた。
そして、もう一人。
革張りのソファに深く腰掛けた、一人の男。
白髪交じりの髪をオールバック。
年月で磨かれた刃のような静けさ。
真壁。
伝説のプロデューサー。
かつて『STARLIGHT SYMPHONY』の舞台裏で、僕の即興演奏を止めようとしたらしい。
だけど、最後には認めてくれた人物。
あの時、彼は遠くからしか僕を見ていないし、僕の顔を見ていない。
見ていないのに、僕を宝だと言った。
それが今も怖い。
直接対面するのは、これが初めてだ。
「……初めまして。Kです」
僕は努めて低い声を出した。
真壁はゆっくりと顔を上げた。
その眼光は鋭いが、どこか探るような色が混じる。
「Kさん、いらっしゃい。
零から話は聞いている。
素晴らしい楽曲を提供してくださると」
真壁の声は穏やかだ。
だが、テーブルの上に置かれた彼の手は、わずかに握りしめられていた。
緊張している?
あの伝説の男が?
「……早速、聴かせていただこうか」
僕は鞄からデモ音源を取り出した。
震える指で、ディスクを零さんに渡す。
零さんの所作が丁寧すぎて、奉納に見えた。
彼女がオーディオセットに挿入し、再生ボタンを押した。
静寂。
ピアノが、夜の底に一滴ずつ染み込む。
透明で、冷えすぎてはいない。
零さんの声が入る余白を、最初から空けてある。
真壁の眉が、ほんのわずかに動いた。
遥か未来の広がりを感じるイントロ。
【夜が終わる前 静かに立つ】
シンセサイザーが重なる。
深海から浮上するものの息づかいみたいに、静かで、巨大だ。
ただの神秘ではない。
遠い未来の輪郭が、暗い光として漂っている。
真壁が身を乗り出す。
目がスピーカーに縫い付けられたように動かない。
【誰のためでもなく ただ歌のため】
音が増えるほど、空間が広がる。
会議室の壁が、どこかへ退く。
零さんの呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。
そして。
ドムッ! ドムッ!
空気を切り裂くようなキックドラムと共に、世界が一変する。
哀愁を帯びたユーロビートが、爆発的なエネルギーと共に解き放たれる。
踊らせるための速さではなく、聴かせるための速さ。
哀愁が先に立ち、遅れて高揚が追いついてくる。
悲しみと希望が同じ車線を走る。
【A NEW ERA ここから始まる】
世界が裏返る。
零さんの声を、上へ上へと引き上げる設計。
同時に、地を這う低さが曲の底を支える。
高音の伸びを祈りにし、低音の深みを誓いにするための振れ幅。
この曲は、彼女の音域がなければ成立しない。
真壁の指が、空中で止まった。
リズムを刻もうとして、止まる。
身体が先に反応したのに、理性が追いつかない。
伝説の経験則が、置いていかれている。
【古い自分をほどいて 新しい空を開く】
零さんは目を閉じたまま、わずかに顎を上げた。
まだ歌っていないのに、すでに歌い始めている姿勢。
曲が、彼女の未来を勝手に照らしている。
サビが抜け、もう一度、熱が戻る。
上へ。
下へ。
光へ。
深淵へ。
一条零という存在そのものを、上下に揺らしながら、ひとつに束ねていく。
【A NEW ERA ここから始めよう】
【終わりは合図 始まりが歌 どこまでも届く声】
曲が終わった。
余韻が、会議室の空気を震わせている。
沈黙。
誰も動かない。
動いたら、何かが現実になってしまう気がした。
「……ふぅ」
長い、長い吐息が漏れた。
真壁だった。
彼は額の汗を拭うように手をやり、背もたれに深く体を預けた。
「……参ったな」
独り言のような呟き。
「私の想像力が、あまりにも貧困だったことを思い知らされた」
彼はゆっくりと立ち上がり、僕の前に歩み寄った。
そして、じっと僕の目を見つめた。
「このピアノのタッチ。
メロディの跳躍。
そして何より、音楽に対するこの『祈り』のような姿勢」
真壁は、ふっと笑った。
責めるような笑いではない。
ずっと探していた答えを、ようやく見つけた学者のような笑顔。
「この曲は、零のために作られている」
短い断言。
「……さすが、Synaptic Driveのけんたろうだな」
心臓が大きく跳ねる。
零さんが、驚いて息を呑む気配がした。
彼女は言っていない。
真壁が、音だけで辿り着いたのだ。
「……え」
僕の声が裏返った。
真壁は、「しまった」という顔をした後、楽しそうに目を細めた。
「ああ、すまない。
君の音は、何よりも雄弁でね。
つい、口に出てしまったよ」
彼は僕の肩に、ポンと手を置いた。
「『STARLIGHT SYMPHONY』のあの夜、私が聴いた奇跡と同じ匂いがする。
……安心していい。
零も、君の正体については口を閉ざしていた。
彼女は律儀だ。
だが、プロデューサーの耳を甘く見ないでくれたまえよ」
真壁は悪戯っぽく口角を上げる。
その瞬間、伝説の巨人が、ただの音楽好きの少年に見えた。
「この『A NEW ERA』……零の代表曲になる。
いや、日本の音楽史の新しいページになるだろう。
この音域、このダイナミクス……零以外の誰に歌えるというんだ?」
断言。
その言葉の重みに、僕は身震いした。
零さんが、一歩前に出た。
その顔には、隠しきれない高揚感と、僕への誇らしさが溢れていた。
「真壁さん。
この曲は……私の声のためにあります」
彼女は僕を見た。
その瞳は熱く、潤んでいる。
「けんたろうくん。
ありがとう。
貴方は、私の魂の翻訳者。
……これからの私の歌は、すべて貴方のためにあります」
それは、アーティストとしての契約か。
それとも――
彼女の手が、触れそうで触れない距離で止まる。
真壁の前で、精一杯の自制心。
その距離感が、何よりも雄弁だった。
真壁は、そんな二人を見て、ニヤリと笑った。
「やれやれ。
零がここまで素直なのは珍しい」
彼は愉快そうに笑い、窓の外を指さした。
「エンペラー・レコードが総力を挙げて、この曲を世に送り出す。
覚悟しておきたまえ。
時代が、変わるぞ」
伝説の男の宣言。
最強の歌姫の熱い眼差し。
会議室の窓の外で、雲がゆっくり流れていく。
街は何も知らない顔をしている。
でも、もう戻れない。
新しい時代は、こういう静かな部屋から、静かに、けれど確実に始まっていく。




