vol.204 歌姫の現象、新世界の輪郭
焙煎された豆。
微かな砂糖の甘さ。
使い込まれたカフェのテーブル。
目の前に、絶対的歌姫。
一条零。
音楽界の至宝。
ここでは、まるで迷い込んだ異邦人。
普段の彼女は、黒や白のモードな服に身を包み、鋭利な刃物のような美しさを放つ。
しかし今日は、淡い桃色のブラウスに、膝上の白いスカート。
一歩進みたい乙女を纏ったような装い。
決意をそっと編み込んでいるかもしれない。
テーブルの下から伸びる、白くなめらかな脚。
その無防備さが、僕の視線を困らせる。
見てはいけない。
強烈な引力を持つ、その白さ。
視界の隅が強い。
「……違和感が、あるかしら」
ふと、零さんがつぶやく。
フォークを持った手が、空中で止まっている。
「え?」
「この装飾。
本日の気候条件と、この場所の平均的な色彩分布に合わせて選択したのだけれど」
彼女は視線をわずかに伏せた。
その長いまつ毛が、頬に影を落とす。
「貴方の視線が定まらないのは、私の選択に……論理的な誤謬があったから?」
違う。
逆。
似合いすぎてる。
直視できない。
「そんなことないです……
すごく……その、可愛いと思います」
月並みな言葉しか出ない自分が恨めしい。
零さんは、ぱちくりと目を瞬かせた。
そして、ふいっと顔を背ける。
「……主観的な評価、感謝するわ」
耳の先が、ブラウスと同じ色に染まっていた。
いじらしい。
この最強の歌姫が、ただの褒め言葉一つで動揺している。
空気が甘くなりすぎる前に、彼女は咳払いを一つして、話題を切り替えた。
彼女にとっての安全地帯、「音楽」の話へ。
「ところで、けんたろうくん。
先日の楽曲について、思考を整理してきたの」
彼女の瞳の色が変わる。
少女の羞恥が消え、求道者の鋭い光が宿る。
「貴方の旋律には、ある種の『救済』が含まれているわ」
「救済?」
「ええ。
既存の音楽は、感情をなぞることに終始しがち。
けれど貴方の音は、感情の源泉、魂の深淵にまで手を伸ばし、そこにある混沌を光の元へと引きずり出す」
彼女は熱っぽく語る。
その言葉の一つ一つが、重く、深く、詩のように響く。
「それは、調和への渇望。
音と音がぶつかり合い、矛盾を抱えながらも、より高い次元で融合しようとする意志。
貴方の音楽は、聴く者に『生きよ』と命じているに等しい」
彼女は身を乗り出した。
彼女が見ているのは、僕を通して見える「音楽の真理」だ。
「汚れなき純度。
何者にも媚びず、ただ天に向かって伸びていく大樹のような生命力。
……私は、その輝きに魅せられている」
魅せられている。
その言葉が、胸に突き刺さる。
彼女は僕を愛しているのだろうか。
それとも、僕の才能という「器」を愛しているだけなのだろうか。
あいまいな境界線。
僕は眩暈にも似た感覚を覚える。
ふと、彼女の熱が引く。
魔法が解けたように、彼女は肩の力を抜いた。
そして、再び視線を伏せた。
「……でも、時々、不安になるの」
小さな声。
「私の感性は……古びていないかしら」
意外な言葉。
常に時代の最先端を行く彼女が、そんなことを考えているなんて。
「私は、貴方より長く生きている。
見てきた景色も、積み重ねてきた時間も違う。
その断絶が……貴方との共鳴を妨げるノイズになるのではないかと」
彼女は、僕の目をそっと覗き込む。
上目遣いのその瞳には、先ほどの哲学者の威厳はない。
ただの、自信のない一人の女性。
「けんたろうくんは……年上の女性は、どう思う?」
心臓が跳ねる。
なぜそんな。
「え……あ、ええっと……」
僕はしどろもどろになる。
気の利いたセリフなんて出てこない。
「と、年上が好きとか……
そういうのはなくて……
一緒にいて、楽しい人がいいなって……」
0点の回答。
自分でも頭を抱えたくなる。
苦し紛れ。
「……そう。
新しい発見、ね」
彼女は少しだけ安心したように微笑んだ。
夕暮れ時の空は、その笑顔のように、どこか切なく、美しかった。
♪ ♪ ♪
カフェを出ると、空は茜色に燃えている。
僕たちは近くの公園まで歩いた。
ベンチに二人で座る。
沈黙が心地よい。
「私はね」
夕日を見つめる零。
「けんたろうくんの音楽が好きよ」
零さんは、夕日の方を向いたまま言った。
声は小さいのに、言葉だけがはっきり残る。
「初めて聴いたとき、心が雷に打たれたみたいだった。
こんなにも澄んでいて、こんなにも力強い音を作る人がいるのかと。
……私は、あれを尊敬している」
零さんは一度だけ僕を見て、すぐに視線を逸らした。
照れを隠すというより、温度を隠している。
「あなたの曲は、私の歌を違う場所へ連れて行った。
私の人生の、光の角度を変えたのよ」
風に乗って消えてしまいそうなほど、儚い声。
「だから私は、あなたの音が生まれる場所に、できるだけ長くいたい。
それが許されるなら、と思ってしまうの」
謙虚。
強烈なエゴイズム。
次元を超えた執着。
僕の音楽と心中するとでもいうのか。
ドクン、と脈が打つ。
すべてが、音になる。
彼女は言った。
「古びていないか」と。
積み重ねてきた重み。
今ここにある少女のような未熟さ。
完成された「絶対王者」の仮面。
未完成な「一人の女性」。
彼女の横顔。
夕日に照らされた、パステルカラーのブラウス。
哲学者の知性と、少女の恥じらい。
矛盾。
すべてが、音になる。
夕日が沈み、一番星が光る。
終わりと、始まり。
激しく、もっと高らかな、夜明けの音。
「……あっ」
僕は息を飲んだ。
降りてきた。
今までとは違う。
これは、時代を変える音だ。
「けんたろうくん?」
零さんが怪訝そうに僕を見る。
僕は返事もせず、鞄からメモ帳をもぎ取った。
「……零さん、ちょっと待ってください!」
書かなければ。
この光が消える前に。
ボールペンが紙の上を走る。
メロディラインが、コード進行が、怒涛のように溢れ出す。
古い常識を壊し、新しい時代を切り拓く歌。
最強の歌姫、一条零に捧げる、最強のアンセム。
零さんは隣に座らない。
半歩だけ離れた場所で立ち止まり、僕の手元を見守る。
近づきすぎない。
でも離れない。
その距離が、いじらしい。
僕の手は止まらない。
隣に彼女がいることも忘れて、僕は無我夢中でペンを動かし続けた。
ふと、視線を感じた。
手を止めずに横目で確認する。
零さんが、僕の手元を覗き込んでいた。
怒っているわけではない。
呆れているわけでもない。
「けんたろうくん、いつもこうやって曲を書いてるのかな?」
彼女は、慈愛に満ちた瞳で、僕が音楽を生み出す様を見守っていた。
まるで、祈りを捧げる聖女。
その視線に背中を押され、僕のペンはさらに加速する。
夕闇が迫る公園で、世界を変える一曲が、今まさに生まれようとしていた。




