vol.203 パステルカラーの定理、脚線美による証明
デート当日。
空は、僕の胃の痛みをあざ笑うかのように晴れ渡っている。
けいとさんの「頑張ってね」という言葉が、耳の奥でリフレインする。
社長の命令。
ユージの不安。
そして、一条零の「必然」という名の強制力。
逃げ道を塞がれた僕は、待ち合わせ場所である表参道のカフェの前に立っていた。
約束の時間より15分も早い。
緊張で、じっとしていられなかったのだ。
行き交うカップルたちが、まるで別世界の住人のように眩しい。
(どんな服で来るんだろう……)
想像してみる。
以前、彼女のプライベートスタジオで、二人きりになった時のことを思い出す。
あの時、彼女は僕の音楽の前で「心の鎧」を脱ぎ捨て、無邪気な少女のような素顔を見せてくれた。
「私にもチャンスあるかな?」なんて、冗談めかして笑っていたけれど。
でも、ここは公衆の面前だ。
きっといつもの、あの圧倒的なオーラを纏った「一条零」として現れるに違いない。
そう思っていた。
「……けんたろうくん」
声をかけられ、僕は振り返った。
そして、時が止まった。
「え……零、さん……?」
そこにいたのは、僕の知っている「一条零」ではなかった。
いや、顔は彼女だ。
この世の造形美を極めたような、完璧な美貌。
だが、服装が。
パステルピンクのブラウス。
ふんわりとしたシフォンの袖。
そして何より、スカートだ。
白のフレアスカート。
その丈が、ありえないほど短い。
(めぐみちゃんより、短い……!?)
彼女の白く、すらりと伸びた脚線美が、惜しげもなく陽光に晒されている。
(めぐみちゃんといい、零さんといい、なんでみんなこんなに短いんだ??)
脳がバグる。
絶対的歌姫が。
音楽の求道者が。
なぜ、原宿のティーンエイジャーのような格好をしている?
以前、彼女の素顔に触れた時、「可愛らしい人だ」とは思った。
けれど、これは次元が違う。
これは、「素顔」ではない。
明確な「武装」。
「可愛さ」という名の、戦略兵器だ。
零さんは、僕の驚愕を見て、フッと小さく微笑んだ。
その笑みには、いつもの冷たさがない。
代わりに、少女のような「悪戯心」と、微かな「羞恥」が滲んでいる。
「お待たせ」
声色が、少し高い。
甘い。
角砂糖を一つ溶かしたような。
「あ……いえ……零さん……」
言葉が出ない。
僕の視線は、本能的に彼女の太ももへと吸い寄せられてしまう。
健康的で、かつ陶器のように滑らかな白さ。
見てはいけない。
でも、見ずにはいられない。
そんな背徳感。
心臓がもたない。
「行きましょうか。
席は予約してあるの」
彼女が歩き出す。
スカートの裾が、ひらりと舞う。
その動きがあまりにも軽やかで、かつ無防備で。
僕は慌てて視線を逸らし、彼女の後ろを追う。
♪ ♪ ♪
カフェの店内。
アンティーク調の落ち着いた空間。
僕たちは向かい合って座る。
コーヒーの香りが漂う中、零さんはじっと僕を見つめる。
その瞳は、さっきまでの「可愛らしい少女」から、一瞬で「探求者」の色に戻る。
「けんたろうくん。今日は感謝します。
貴方とこうして、時間という不可逆なリソースを共有できることは、私にとって非常に貴重な経験則となるでしょう」
出た。
哲学語り。
服装はパステルカラーなのに、口から出るのは「リソース」だの「経験則」だの。
このギャップに、脳の処理が追いつかない。
「あなたの音楽について、もっと深く解析したいの。
何があなたの創造性の源泉となっているのか。
そして、あなたの魂が、根源的に求めている『解』は何なのか」
彼女は真剣だった。
僕の目を見つめ、瞬きさえ惜しむように問いかけてくる。
かつて、僕の音楽の深い部分を、誰よりも正確に理解してくれた彼女。
僕がけいとさんを追いかけていることさえ、見抜いた彼女。
「えっと……僕はただ、その時に感じたことを音にしてるだけで……」
「それが興味深い。
言語化されない情動を、論理的な旋律へと変換するプロセス。
そこに、貴方という人間のシンギュラリティ(特異性)がある」
難しい言葉。
けれど、その芯にあるのは純粋な好奇心と、敬意。
彼女は僕の才能に恋をしている。
……いや、それだけだろうか?
零さんが、コーヒーカップを持ち上げる。
その手が、ほんのわずかに震えているのが見えた。
カチャリ、とソーサーに置く音が、普段より少しだけ大きい気がする。
(緊張してる……?)
あの絶対王者が。
僕と二人きりで話すことに、緊張している?
「……あの、零さん」
「……」
彼女の手が止まる。
静かな視線が僕を射抜く。
「その……今日の服、すごく似合ってます」
言ってしまった。
言わなきゃいけない気がした。
零さんの頬が、パステルピンクのブラウスと同じくらい赤く染まる。
彼女は口元をカップで隠し、視線をわずかに逸らす。
「……そう。
ありがとう。
これは、TPOを考慮した結果。
このような場所でのデータ収集には、周囲に溶け込む『擬態』が必要だと判断したの」
嘘だ。
どう見ても溶け込んでいない。
浮いている。
美しすぎて、可愛すぎて、浮いている。
それに、あの短いスカートは「擬態」にしては攻撃力が高すぎる。
(もしかして……めぐみちゃんと張り合ったりしてないよな?)
以前言っていた「チャンスあるかな?」という言葉。
そして、前回の「なぜ私ではないのか」という論理的嫉妬。
それらが一本の線で繋がるような、繋がらないような。
「……ありがとう。
貴方にそう評価されることは、私にとって……有意義なデータです」
彼女は小さくささやいた。
「有意義なデータ」。
それが「嬉しい」という意味であることを、僕はなんとなく理解してしまった。
僕の中で、イメージが更新されていく。
冷徹な哲学者。
ミステリアスな歌姫。
そんな仮面の下に隠された、不器用で、いじらしい素顔。
でも、困ったことがある。
スカートだ。
テーブルの下で、彼女が緊張を隠すように脚を組み替えるたびに、白い布地が衣擦れの音を立てる。
そのたびに、僕の視線は無意識にテーブルの下へと引っ張られそうになる。
(見るな、けんたろう!
見たら終わるぞ!)
僕は必死に理性を総動員して、視線を彼女の顔に固定する。
しかし、彼女の顔を見れば見たで、その染まった頬の甘い雰囲気に酔いそうになる。
逃げ場がない。
哲学的で高尚な会話と、本能的な視覚的誘惑。
そして、隠しきれない彼女の好意。
楽しい。
正直、男として、こんな美人に好意を向けられて嬉しくないはずがない。
(ああ、いけない……)
ふいに、罪悪感が胸を刺す。
この楽しさは、けいとさんへの裏切りだ。
僕の孤独を理解してくれるのが、恋人ではなく、この歌姫であるという事実。
それが、甘い毒のように僕をむしばんでいく。
「どうしたの?
顔が赤いわよ」
零さんが小首を傾げる。
その仕草があざとい。
確信犯なのか、天然なのか。
「な、なんでもないです……!
コーヒーが熱くて……!」
僕は温くなったアイスコーヒーを一気に飲み干した。
舌が冷えて、ようやく心臓の音が少し遅くなる。
零さんは変わらない。
完璧なまま。
ただ、完璧の縁だけが少し柔らかくなっている。
柔らかさの理由を、彼女は哲学で隠す。
隠したまま、短い裾で近づいてくる。
このデートがどうなるのか、全く見当がつかない。
哲学者でありながら、恋する乙女の一面をちらつかせる一条零。
僕の足が、底なしの沼に向かっている感覚。
僕の青春は、また一歩だけ、厄介な場所へ踏み出している。
踏み出したことに気づかないふりをしながら。




