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vol.202 哲学者の求愛演説、悪魔の慈悲深い沈黙

 Rogue Soundの会議室は、真空状態にあった。


 酸素がないわけではない。

 一条零という絶対王者の「圧」によって、呼吸をする権利を奪われている。


 ユージは、パイプ椅子から転げ落ちたまま、亀のように固まっている。

 綾音さんは、口元を押さえたまま、まるで宗教画に描かれる信者のように零さんを見つめている。


 そして僕は、思考停止している。


「けんたろうくん」


 零さんの声が、鼓膜ではなく、脳に直接響く。


 彼女は、僕の混乱など意に介さない。

 その瞳は、会議室の薄汚れた天井ではなく、遥か彼方の宇宙の真理を見通しているようだ。


「先ほどの定義を再確認します」


 その一言で、空気が切り替わる。

 矛盾が消える。

 彼女の論理は、相手の否定すら材料にする。


「貴方がめぐみと行った行為を、あくまで『打ち合わせ』と定義するのであれば……私が貴方に提案する『デート』は、より高次元な概念であると言えましょう」


 高次元。

 デートに次元の話が出てくるとは思わなかった。


「それは、単なる時間の共有や、世俗的な娯楽の消費には留まりません」


 彼女は一歩、踏み出す。

 その一歩で、世界のルールが書き換わる気がする。


「互いの精神的深淵を探求し、感性の触手を絡ませ合い、音楽的インスピレーションを極限まで高め合う……いわば、知的なシンフォニーです」


 交響。

 彼女にとって、デートは演奏なのだ。


「私と貴方の対話は、既存の認識を解体し、新たな創造の領域へと誘うでしょう。

 私は、貴方の音楽に対する情熱、そしてその旋律の裏側に潜む、誰にも触れさせない孤独を理解しています」


 ドキリとした。

 孤独。

 図星だ。

 彼女は、僕の楽譜の余白にあるものまで読み取っている。


「それ故に」


 零さんは、胸の前で手を組んだ。

 祈るように。

 あるいは、何かを封じ込めるように。


「私と貴方の間に築かれる関係性は、表面的な恋愛感情を超越した、普遍的な真理に基づくものとなるはずです」


 彼女の演説は続く。

 難解な言葉の羅列。

 けれど、その芯にあるのは、「貴方が欲しい」という、痛いほど純粋な渇望だ。


 僕の頭は、処理能力の限界を超えていた。

「は、はい……」

「へぇ……」

 壊れたロボットのように、無意味な相槌を打つことしかできない。


 足元で、ユージが目を白黒させているのが視界の端に見える。

 綾音さんが、「あの零様が……こんなに感情的に……」と、うわ言のように呟いている。


 歴史的瞬間だ。

 音楽界の至宝が、一人の男に求愛している。

 哲学という名のドレスをまとって。


「貴方にとって、この機会は、己の音楽的探求を深化させる、またとない貴重な時間となるはずです。

 私の存在が、貴方の創造性に新たな刺激を与え、未開の領域へといざなうことをお約束します」


 彼女は、最後に僕の目を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳には、拒絶を許さない強い光が宿っていた。


「故に、私と貴方の『デート』は、避けられない必然なのです」


 必然。

 運命ですらない、物理法則のような決定事項。


 僕に、選択権など最初からなかったのだ。

 重力に逆らえないのと同じように、彼女の論理に逆らうことは許されない。


「わ、分かりました……」


 僕の口から出たのは、降伏宣言だった。

 蚊の鳴くような、情けない声。


 すると、零さんの表情がふわりと緩んだ。

 氷河が溶け、そこに春の花が咲いたような、見たこともない笑顔。


「……感謝します。

 では、詳細は追って連絡いたします」


 彼女は満足げにうなずくと、完璧な角度で一礼し、風のように去っていった。

 後に残されたのは、彼女の残り香と、虚脱した僕ら三人だけ。


 ♪ ♪ ♪


 会議室のドアが閉まる音。

 それが合図だった。


 僕は、その場にへたり込んだ。

 膝が笑っている。

 いや、全身の関節が恐怖で緩んでいる。


「けんたろう……」


 床から、ユージの亡霊のような声がした。


「お前、マジでヤバい状況になってるぞ……」


 彼は震える手で、自分の顔を覆った。


「あれは、ガチだ。

 ガチ恋だ。

 しかも、一番厄介なタイプの……」


「ユージ……どうしよう……」


 僕は頭を抱えた。

 零さんとのデートが決まってしまった。

 いや、「高次元の知的交響」が決まってしまった。


 そして、その事実が意味すること。


「また……けいとさんに電話しなきゃいけない……」


 絶望。

 めぐみちゃんの時でさえ、心臓が口から出るほど怖かった。

 今度は、一条零だ。

 けいとさんのライバルであり、頂点に立つ歌姫。


 スマートフォンの画面が、処刑台のスイッチに見える。


 意を決して、僕は発信ボタンを押した。

 コール音が鳴る。

 一回。

 二回。

 その音が、カウントダウンのように響く。


『もしもし?』


 出た。

 けいとさんの声だ。

 いつも通り、穏やかで、優しい声。

 けれど、その背後には絶対零度の冷気が潜んでいる。


「あ、あの、けいとさん……?

 僕だよ……」


 声が上ずった。

 喉がひきつる。


『あら、けんたろうちゃん。

 どうしたの?

 また何かあったの?』


「また」。

 その二文字が重い。

 彼女はすべてを察している。

 あるいは、予知しているのかもしれない。


 僕は深呼吸をした。

 肺の中の空気を全部入れ替えても、恐怖は消えない。


 僕は、かくかくしかじかと説明した。

 一条零さんがRogue Soundに現れたこと。

 哲学的な演説をぶつけられたこと。

 そして、「必然」という名のデートを要求され、断りきれなかったこと。


 言い訳だ。

 全部、言い訳に過ぎない。

 でも、言わずにはいられなかった。

 僕は必死に、これも仕事の一環であること、そして何よりも、けいとさんを一番大切に思っていることを伝えた。


「……と、いうわけで、けいとさん、本当にごめんなさい……!」


 僕は、受話器を握りしめながら、会議室の床に頭を擦り付けんばかりに謝罪した。


「僕、嫌なんだけど、断れなくて……本当に、ごめんなさい……」


 涙目だった。

 情けないけれど、怖くて、申し訳なくて、どうしようもなかった。


 電話の向こうで、沈黙が落ちた。

 数秒。

 その数秒が、永遠に感じられた。

 心臓の音がうるさい。


『……そう。

 分かったわ』


 返事は、前回同様シンプルだった。

 怒鳴られることも、罵られることもない。

 ただ、肯定だけが返ってくる。


 しかし、その声の「温度」が違う。

 前回よりもさらに低く、そして深く。

 底知れない感情のマグマが、地殻のすぐ下で渦巻いているような気配。


『フフフ……』


 笑い声。

 乾いた、それでいて艶やかな笑い。


『けんたろうちゃん。

 頑張ってね。

 あんまり無理しないように』


 その言葉は、優しさでコーティングされた毒針のようだった。

 あるいは、死刑囚に振る舞われる最後の晩餐のような慈悲。


『じゃあね』


 プツン。

 通話が切れた。


 僕の耳元には、彼女の不気味な笑い声が残響としてこびりついていた。

 悪魔の囁き。

 あるいは、聖母の裁き。


 僕はスマートフォンの画面を見つめたまま、完全に脱力した。

 画面が暗くなり、そこに映った自分の顔は、死人のように青白い。


 けいとさんの真意は全く読めない。

 怒っているのか、呆れているのか、それとも楽しんでいるのか。

 しかし、それが僕にとって「良いこと」ではないことだけは、細胞レベルで理解できた。


「はぁ……」


 ユージが、僕の顔を見て深いため息をついた。

 その溜息が、僕の未来を暗示しているようだった。


 けんたろうを巡る女たちの戦い。

 それは、哲学的な高次元へと移行し、同時に泥沼の様相を呈し始めた。


 僕の私生活は、完全に崩壊寸前。

 果たして僕は、この修羅場を生き延び、けいとさんとの愛を守り抜くことができるのだろうか。

 僕の青春は、一体どこまでカオスになるのだろうか。

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