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vol.201 恋する哲学者は、歌姫

 テレビの中で僕の曲を巡って火花が散った、その翌日。

 僕はRogue Soundの会議室にいた。

 といっても、薄汚れた壁紙と、ガタつくパイプ椅子があるだけの狭い部屋。


「けんたろう、これでマジで売れっ子だな!」


 話していたのは、Synaptic Driveの今後と、僕の匿名性について。

 そして、作曲家Kとしての名前をどうするか。

 守れなかったら、何が壊れるのか。


「印税だ印税!

 焼肉か?

 それとも寿司か?

 豪遊だぜ、豪遊!」


 彼の瞳には、¥マークが浮かんでいるように見える。

 昨夜のしずくさんとめぐみちゃんの激闘など、彼にとっては「売上の起爆剤」でしかないらしい。

 ある意味、たくましい。


「ちょっと、ユージくん。

 声が大きいわよ」


 綾音さんがため息をつく。

 彼女の目の下には、うっすらとクマがあった。

 僕の正体「K」の匿名性を守るため、裏で各所と調整してくれている。


「でもさ、綾音ちゃん。

 もうバレるのも時間の問題じゃね?

 ネットじゃ特定班が動いてるし……」


 ユージが言いかけた、その時。


 空気が、変わる。


 コン、コン。


 ドアを叩く音がした。

 強すぎず、弱すぎず。

 メトロノームで計ったかのような、完璧なリズム。


 僕らが返事をする間もなく、ドアノブが回される。

 音もなく扉が開く。

 そこには……静寂。


「……失礼いたします」


 一条零。


 完璧に着こなされたシンプルなドレス。

 髪の一本一本まで計算されたかのようなシルエット。

 彼女は部屋に入ると、音もなくドアを閉め、深々と礼をする。

 その角度は、分度器で測ったように正確な45度。


 美しい。

 その美しさは美術館の絵画。

 体温を感じさせない。


「ひっ……!」


 綾音さんが、小さな悲鳴を上げて椅子ごと後ずさる。

 業界の人間なら誰もが知っている、「絶対王者」に対する畏怖。

 それが、生物としての本能を刺激する。


「……零、様……!?」


 僕もユージも、石になったように動けない。

 なぜ、彼女がここに?


 零さんは顔を上げると、無機質な瞳で僕ら三人を一瞥する。

 感情の色が見えない。

 事象を観察する科学者の目。


 彼女はゆっくりと、部屋の中央に進み出る。

 足音すらしない。

 彼女は直立不動のまま、静かに口を開いた。


「事前の連絡もなしに訪問した非礼、お詫び申し上げます。

 Synaptic Driveのスーパープロデューサー、けんたろうくん。

 そして、その創造性を支えるユージ様と、佐久良マネージャー」


 完璧な礼節。

 名前を呼ばれただけで、心臓が跳ね上がる。

 まるで王族の謁見。


「本日は、一つ確認したい事項があり、参りました」


 決して揺らぐことのない、零の視線。


「あなた方に問いたい。

 先日発表されたDream Jumpsの楽曲、『Magic of Dream』について。

 あなた方は、あれをどのように定義し、評価していますか?」


 心臓がひやりとする。

 僕が「K」だなんて、彼女はとっくにお見通しである。


 ユージが助けを求めるように僕を見る。

 僕は脂汗を流しながら、口を開こうとした。

 だが、零さんがそれを制する。

 彼女の手が、指揮者のように優雅に宙を切った。


「回答の前に、私の見解を提示させていただきましょう」


 彼女は、誰もいない空間に視線を移す。

 独り言のように。

 しかし朗々と語り始める。


「あの楽曲は、単なるアイドルのポップソングという既存の枠組みでは説明がつきません。人間の根源的欲求である『夢』──すなわち、不確定な未来への渇望という抽象概念を、聴覚情報として再構築し、具現化したものだと、私は認識しています」


 部屋の空気が、哲学の講義室に変わる。

 誰も口を挟めない。


「あの、光の粒子を連想させるシンセサイザーの導入部は、混沌とした現実世界に差し込む、一筋の理性の光です。そして、攻撃的なまでにダンサブルなビートは、停滞を拒絶し、現実に抗うための生命力のメタファーとして機能しています」


 彼女の言葉は難解だ。

 しかし、その声には熱がこもっている。

 氷の下で流れるマグマのような、静かな熱狂。


「聴く者全てに、無条件の肯定と高揚感を喚起させる、普遍的な真理を、ユーロビートという極めて世俗的な器に盛り込んだ、奇跡的な矛盾と言えましょう。……見事です」


 ユージが口をあんぐりと開けている。

 綾音さんは、震える手でメモを取っている。

 褒められている。

 それは間違いない。

 けれど、その褒め言葉が重すぎて、素直に喜べない。


 零さんは一通り語り終えると、ふっと視線を戻した。

 僕に、戻した。


 その完璧な仮面の下に、一瞬だけ、違う色が走る。

 寂しさ?

 あるいは、理解不能に対する苛立ち?


「けんたろうくん」


 名前を呼ばれた。

 今度は、さっきよりも低いトーンで。


「はい」


 裏返った声が出た。


 零さんは一歩、僕に近づく。

 その一歩が、断崖絶壁への一歩に感じる。

 彼女の手が、胸元で小さく握りしめられている。

 完璧な所作の中で、唯一の綻び。


「あなたは先日。

 Dream Jumpsのめぐみ氏と接触したという情報が入っております」


 時が止まる。

 心臓どころか、呼吸も、血流も、すべての生命活動が停止した気がした。


 なぜ、知っている?


「え……あ……」


 言葉が出てこない。

 喉が干からびて、張り付いている。


「デート、でございましたか?」


 直球。

 逃げ場のない問い。


「ち、違います!」


 僕は必死に首を横に振った。

 ここで肯定したら、何が起きるかわからない。


「デート、というよりは……が、楽曲提供の……打ち合わせ、で……」


 苦し紛れの言い訳。

 しかし、零さんは表情一つ変えなかった。

 ただ、その瞳の奥の冷たい光が、一層鋭くなっただけだ。


「打ち合わせ?」


 彼女は首を傾げた。

 その角度すら、黄金比のように美しい。


「それは実に、興味深い詭弁ですね」


 詭弁。

 彼女は僕の言葉を切り捨てた。


「貴方は、めぐみ氏と二人きりの空間を共有し、魂のやり取りを行った。世間一般の定義では、それを『デート』と呼びます。しかし、貴方はそれを『打ち合わせ』と定義し直した」


 彼女はさらに一歩、近づく。

 香りがする。

 古い図書館のような、静謐で知的な香り。


「ならば、矛盾が生じます」


 彼女の論理が、僕を追い詰める。


「貴方が『打ち合わせ』という名目で、他者と魂の交感を行うのであれば……なぜ、私とは行わないのですか?」


 息が詰まる。


「私は、貴方の音楽を、構造的にも、感覚的にも、最も深く理解している。貴方の魂が紡ぐ旋律を、最も純粋な形で、ノイズなしに受け止めることができる唯一のレセプター(受容体)であると自負しております」


 それは、告白だった。

 あまりにも難解で、あまりにも不器用な、愛の告白。

 デートかどうかなど、彼女にはどうでもいいのだ。

 「なぜ私ではないのか」という一点のみが、彼女の哲学を揺さぶる。


「その私との関係性は、貴方にとって一体、どのような定義付けがなされるのか。

 ……合理的かつ明確な回答を要求します」


 沈黙。

 会議室の空気が、限界まで張り詰める。


「ええええーーっ!」


 破裂音がした。

 ユージだ。


「な、何言ってんだよ、零様!?」


 彼はあまりの衝撃に、パイプ椅子のバランスを崩した。

 ガシャーン、という派手な音と共に、無様に床へ転がる。


「あ、あの零様が……まさか……」


 綾音さんは、信じられないものを見る目で、口元を手で覆っていた。

 普段、感情を表に出さない「絶対的歌姫」が、今、なりふり構わず一人の男に詰め寄っている。

 その事実は、天変地異よりも衝撃的だった。


 僕は、ただ立ち尽くすしかない。

 冷や汗が背中を伝う。


 昨日のテレビの中の戦争。

 そして今、目の前で突きつけられた哲学的な刃。


 僕の音楽は、いつからこんなに危険なものになったんだろう。


 けんたろうを巡る女たちの戦い。

 それはステージの上だけでは終わらない。

 この薄汚れた会議室でも、新たな、そして最も難解な火蓋が切って落されたのだ。


「回答をお願いします」


 零さんが繰り返す。

 その目は、答えを聞くまでは決して逃がさないという、鋼の意志で輝く。


 僕の青春は、カオスを通り越して、もはや解決不能な哲学的命題になりつつあった。

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