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vol.194 太陽と歌姫と一人の商人

 Rogue Soundの社長室は、書類の重さで空気が沈んでいた。

 机の上には、契約書と請求書と、未処理の現実が積み上がっている。

 社長はその山を崩しながら、胃のあたりを押さえた。


 最近、街がうるさい。

 テレビも、配信も、雑誌も、同じ一文字で騒いでいる。

 K。

 匿名の作曲家。

 匿名のくせに、現金は実名で押し寄せてくる。


 そのとき、ノックが鳴った。

 乾いた音だった。

 しかし妙に明るい。


「失礼します!」


 ドアが開く。

 勢いよく飛び込んできたのは、Dream Jumpsのめぐみだった。


「はじめまして、社長さんですよね?」


 めぐみは深く頭を下げる。

 礼儀はある。

 けれど呼吸が走っている。

 階段を駆け上がってきた人間の熱だ。


 彼女は一足飛びにデスクの前まで来ると、バン、と両手を机についた。

 瞳が、あまりにもキラキラしている。

 直視すれば網膜が焼かれそうなほどの、純度100%の期待と熱意。


「め、めぐみちゃん……?」

 

「事務所は?

 マネージャーは?」


 社長が狼狽する。

 綾音がうろたえる。

 太陽の笑みのめぐみ。


「通してたら日が暮れちゃいます!

 私のこの熱は、鮮度が命なんです!

 だから、私が直接届けに来ました!」


 社長は嫌な予感に目を細める。

 この手の熱は、断ると燃える。

 受けるともっと燃える。


「けんたろうくんに会わせてください!」


 めぐみは一歩踏み込む。


「曲を作ってほしいんです!

 Dream Jumpsを、本気で変えたいんです!」


 理屈になっていない。

 だが、その圧倒的な「主人公力」。

 時代の光が、大人の事情をねじ伏せている。


 社長が呆気にとられていると、不意に、部屋の空気が変わった。

 めぐみの発する熱気が、ふっと冷やされるような感覚。

 気温が下がったのではない。

 空気の密度が変わったのだ。


 ドアが静かに開く。

 入ってきた人物を見た途端、社長は背筋を伸ばしてしまった。

 体が勝手に礼儀を選ぶ。


 一条零。

 華美な装飾はない。

 シンプルな装い。

 けれど、ただそこに「居る」だけで、雑然とした社長室が、厳粛な謁見の間へと再構成される。

 空気が澄む。

 言葉を選びたくなる。


 零は、寸分の狂いもない角度で一礼した。

 敬意という名の所作が、完成されたかたちを取る。


「突然の訪問、大変失礼いたします」


 落ち着いたアルトが部屋に落ちる。

 その響きだけで、社長室の埃が目に見えなくなるようだった。


「一条零でございます」


 名乗りは短い。

 しかし短いほど、名前の重さが増す。

 社長が慌てて立ち上がる。


「あ……い、一条様……ご本人が……」


 零は首を横に振る。


「どうか、お構いなく」


 声は柔らかい。

 柔らかいのに、断られる余地がない。


「代理人を立てることも考えましたが、それは礼を失することだと判断いたしました。

 魂の共鳴を願うのに、他者の言葉を介することはできません」


 めぐみが目を丸くする。

 社長は息を止める。


 彼女の視線は常に、人ではなく、音の向こうへ向いている。


「私の新曲も、彼に委ねたいと考えております。

 藤原しずく様の楽曲を拝聴しましたが、いつも通り素晴らしい音でした」


「ですが、彼の音楽の深淵にある『孤独』を、真に理解し、共に奏でることができるのは……私だけです」


 零の言葉は、ビジネスの交渉ではなかった。

 それは、同じ高みに立つ者だけが交わすことのできる、魂の約束の確認だった。


 めぐみが口を挟む。


「零さん、かっこよすぎる!

 でも、私も負けません」


 めぐみは一歩前へ出る。


「私たちは、世界をハッピーにしたいんです!

 けんたろうくんのユーロビートで!

 私たちのキラキラを、ちゃんと本物にしたいんです!」


 社長は二人を見比べる。

 熱。

 静謐。

 どちらも強い。

 強さの種類が違うだけ。


 社長は咳払いをして、仕事の顔を作った。


「お二人の熱意は、よく分かりました。

 ですが、けんたろうは多忙を極めておりまして……

 新規の提供は……」


「お願いします!」


 めぐみが食い下がる。


「条件なら、いくらでも」


 零は、押し込まない。

 ただ、祈りのように一言を置く。


「彼の音は、孤独です」


 零は静かに言った。


「孤独な音は、理解される場所を求めます。

 私は、その場所になれます」


 その瞬間、社長は気づいてしまう。

 これは交渉ではない。

 説得でもない。

 もっと厄介なものだ。

 理解だ。

 理解という名の、絶対的な価値。


 そして価値は、金に換算できる。

 そう思ってしまった時点で、社長の負けだった。


「……分かりました」


 社長は笑顔を貼り付ける。

 悪魔の顔を隠して、天使の口調を選ぶ。


「ただし、今回の案件は特別です。

 印税の取り分は、通常より多くいただきます」


 めぐみは即答した。


「もちろんです。

 後悔しません!」


 零は一拍置く。

 その一拍が、部屋の空気を整える。

 そして静かに頷く。


「構いません。

 正当な対価であるならば」


 社長は書類を揃え、判を押す準備をする。

 紙の上で未来が乾いていく。

 インクが染みる場所に、逃げ道も一緒に染みる。


 ♪ ♪ ♪


 一方その頃。

 都内の高級マンションの一室。


「ん……くしゅん!」


 けんたろうは、盛大なくしゃみをした。

 隣に座るけいとが、心配そうに顔を覗き込む。


「あら、風邪?」


「いや……なんか、急に寒気がして」


 彼は背筋をさすった。

 得体の知れない悪寒。

 まるで、巨大なエネルギーの塊が、自分に向かって猛スピードで接近してくるような予感。


「誰かが、僕の噂でもしてるのかな?」


「ふふ、人気者は辛いわね」


 けいとは優雅に笑っている。

 けんたろうは知らなかった。

 自分の預かり知らぬところで、とんでもない契約が成立し、多忙な日々がさらに加速しようとしていることを。


 嵐は、もう玄関の前まで来ていた。

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