vol.16 あなたは知らない
けいとさんの家を飛び出した僕。
走るのをやめた。
もう、どこへも急ぐ必要なんてなかった。
夜の道は、冷たく、長い。
アスファルトが、どこまでも黒く伸びている。
大きな通りの端っこ。
ガードレールと植え込みのあいだを、ひたすら前に進む。
対向車のヘッドライトが、一定の間隔で僕の体を白く照らす。
そしてすぐに闇の中へ押し戻す。
胸の中は、静かじゃなかった。
後悔。
自責。
けいとさんの、あんな顔を見たくなかった。
僕がさせた顔だ。
僕が、彼女を壊した。
届かない、届かせられない。
自分の情けなさ。
勝手に期待して、勝手に傷ついている自分への苛立ち。
いろんな感情が、言葉になりきれないまま、ぐちゃぐちゃに渦を巻いていた。
歩いても、歩いても、何も変わらない。
コンビニの灯り。
深夜まで開いているファミレス。
ガラス越しに見える人影だけが、別の世界の住人みたいだった。
車の走行音が、耳元で轟音となって過ぎ去る。
ノイズが、頭の中で鳴り止まないメロディと混ざり合う。
叫び声なのか、すすり泣きなのか。
判別できない歪んだ音の羅列。
それだけが、心臓を内側から直接叩き続けていた。
いつの間にか自宅に帰るころ、足の感覚はあまり残っていなかった。
靴を脱ぐのもそこそこに、僕はまっすぐ鍵盤の前に座った。
何も考えない。
いや、考える余裕なんて、最初から残っていなかった。
考えたら、自分でなくなってしまいそうな気がして。
胸のざらつきが、指先に流れ込んでいく。
鍵盤に触れた瞬間、眠っていた何かが、いきなり目を覚ます。
コードを探すというより、ぶつける。
旋律を紡ぐというより、こぼす。
メトロノームも立ち上げない。
譜面ソフトも開かない。
ただ、音だけを頼りに、暗闇の中を手探りで進んでいく。
気づけば、夜が、窓の外から少しずつ色を失いはじめていた。
一晩。
そこに音楽的な計算なんてない。
ただ、吐き出したかった。
曲と言うより叫び。
青臭くて、無様で、どうしようもない僕の「慟哭」そのもの。
イントロは、聴く人の神経を逆なでするような、NOIZYなオープニングで幕を開ける。
ざらついたシンセのリフが、しつこいくらい繰り返される。
その暴れ方の中に、どうしようもない寂しさと哀しみが、かすかに混ざっていた。
脳内で鳴っていたユージのギターが、そこに乗る。
それは旋律ではなく、悲鳴だった。
Aメロ、Bメロと進むほどに、曲は熱を帯びていく。
理屈より先に、胸を殴ってくるような高揚感。
遠回しな言い換えを全部、途中で投げ出してしまったみたいな、真っ直ぐな感情。
僕は泣く
あなたに会えなくて
一筋の涙がこぼれる
あなたの笑顔が忘れられない
君に恋しているからさ
あなたは知らない
僕が泣いているのを
あなたを思う心
少しだけでいい 伝えたい
サビで爆発する音圧は、けいとさんへの愛であり、届かない絶望であり、僕自身の弱さへの怒り。
サビに乗せた言葉は、きれいでも、賢くもなかった。
けいとさんへの抑えきれない愛。
伝わらないことへのやるせなさ。
その全部を、うまく隠せずに晒してしまったみたいな、拙いラブレター。
今の僕には、それしか書けなかった。
翌日。
眠ったのかどうかも曖昧なまま、Rogue Soundの事務所にデモを持って行った。
ドアを開けるなり、ユージと綾音さん、そして社長の視線が、一斉にこちらへ向く。
「けんたろう、お前……顔色が悪いぞ。
一晩中、起きてたのか?」
ユージの声が遠い。
僕は何も言わず、USBメモリを差し出す。
再生ボタンが押される。
スピーカーから、あのNOIZYなイントロが流れ出した瞬間、事務所の空気が変わる。
狂気じみたイントロ。
頭の中で鳴っていた、叫ぶようなギターの鳴き声。
社長と綾音さんが、呆然としたまま互いの顔を見る。
言葉が、見つからないときの表情だった。
サビに入ると、二人の顔に浮かんだものは、驚きと……ほんの少しの恐れにも見えた。
曲が終わる。
重い静寂が、部屋の隅々にまで広がる。
最初に音を立てたのは、椅子のきしむ小さな音だった。
社長が背もたれに深くもたれたまま、天井を仰ぐ。
「……信じられん」
絞り出すような声だった。
「一晩で……こんな、人の心を素手でえぐるような代物を生み出すなんて。
お前は……一体何者なんだ、けんたろう」
社長の視線が、まっすぐこちらに向けられる。
何かを測るような目つきじゃない。
ただ、純粋に「分からない」と言っている目だった。
隣で、綾音さんが、そっと目元を拭う。
言葉もなく、涙だけが頬を伝っていた。
ユージが、突然立ち上がった。
歩み寄って、僕の肩を強く掴む。
その瞳は、興奮と、何かを確信したような光でいっぱいだった。
「けんたろう……これ、お前が歌うんだ」
「ええええ??」
自分の声じゃないみたいだった。
僕が歌う?
そんなこと、一度だって考えたことはない。
僕は作曲家で、プロデューサーで。
歌うのは、ユージの役目。
そういう線引きが、いつの間にか当たり前になっていた。
「ああ、そうだ。
お前が歌うんだよ」
ユージは、ためらいなく言う。
「この曲は、俺じゃ歌えねぇ。
これは、お前の魂の叫びだろ?
お前しか歌えない。
これは、けんたろう……お前自身のソロ曲だ!」
社長も、綾音さんも、静かに、しかしはっきりと頷いていた。
(僕が、歌う……?)
背筋に冷たいものが走る。
それは恐怖だった。
(僕が歌えば、彼女はもう戻れなくなるかもしれない――)
喉が、急に乾いた。
手のひらに、じっとり汗がにじむ。
逃げ出したい。
でも、それ以上に、目を逸らしたくなかった。
冗談じゃない。
この歌は、けいとさんへのラブレターだ。
言い訳も、隠れ蓑もない、丸裸の気持ちだ。
それを僕が歌えば、きっとどこかで気づかれてしまう。
彼女を、また追い詰めてしまうかもしれない。
そもそも、この曲を世に出していいのか。
まして、自分で歌っていいのか。
(でも――)
心臓が、胸の内側を叩く。
答えを急かすみたいに。
(このままじゃ、届かない。
あの人に、この気持ちは伝わらない。
僕自身の声でなければ、この叫びは、本当の意味で彼女の心には届かないんじゃないか?)
恐怖と衝動。
ふたつの波が、頭の中でぶつかり合う。
体の芯が、ぐらぐらと揺れた。
窓の外では、朝の光が、ビルの隙間からそっと差し込みはじめていた。
この歌が、いつか彼女の耳に届く日が来るのだろうか。
そのとき、彼女はどんな顔をするのだろう。
――まだ、誰も知らない。




