vol.142 離れていく心
「けんたろうの心は…けいとから離れているのかもしれない」
かおりの一言が、冷房の温度が一気に下がったかのように、肌の表面からすうっと熱を奪っていく。
「そ、そんなことない!
絶対ないよ!
けんたろうちゃん、いつだってけいとちゃんのこと大好きだって!」
ひなたが慌てて否定する。
声は裏返り、どこか必死だ。
だが、あやはかおりの言葉を肯定するように、冷ややかに頷いた。
「私も、そう感じてた。
最近、連絡も目に見えて減ってたんでしょ?
この歌を聴いて、全部繋がった。
『忘れようとしたあなたへの初恋』。
これ、明確に別の女がいるって宣言してるのと同じじゃない」
『Second Love』。
二番目の恋。
その言葉が、自分の額に押された焼印のようにじりじりと熱を持つ。
これまで必死に築き上げてきたプライドが、薄いガラスのように内側から音を立てて砕け散っていく。
「もしかしてさ…
けんたろうちゃんの心が離れちゃったのって、けいとのせいじゃない?」
ひなたのその言葉に、悪意はなかった。
だからこそ、それは鋭利なガラスの破片となって、けいとの心臓に深々と突き刺さった。
けいとが、弾かれたように顔を上げる。
「ひなた!」
あやが咎める声も、もはや彼女には届かない。
「だって、デビューの時!
けんたろうちゃんとのこと秘密にするって、自分から距離を置いたの、けいとじゃん!
あの時、けんたろうちゃんの気持ち、考えれば……
あれが、今になってこうなってるんじゃないの!?」
図星、だった。
ぐらり、と視界が揺れる。
脳裏に焼き付いて離れない、あの雨の日の喫茶店。
彼の顔。
「住む世界が、変わるの」
そう言ったのは自分だ。
彼の手を振り払ったのも、自分だ。
あの時、傘もささずに立ち尽くしていた彼の孤独が、長い時間をかけて、彼の心を過去へと押し流してしまったというのか。
「かおりちゃん、『First Love』の歌詞だけど……」
さやかが、溺れる者が掴む藁のように尋ねる。
かおりは、目を伏せたまま静かに答えた。
その声は、まるで判決を読み上げる裁判官のようだった。
「『美人で年上で僕には遠い人』。
そして『Second Love』は、『忘れようとしたあなたへの初恋』を抱えながら、今の相手を愛そうとする歌。
…もし、けいとが『Second Love』なら、本当の『初恋』は、一体誰なんだろうね?」
再び訪れる、窒息しそうな沈黙。
その静寂を破ったのは、あやだった。
彼女は、けいとの逃げ道をすべて塞ぐように、まっすぐにその瞳を射抜いた。
「…でもさ、けいと。
あんた、けんたろうちゃんの心を、本当に見てた?
彼の才能や、あんたに向ける愛情だけじゃなくて。
その奥にある、彼の弱さや痛みから、目を逸らしてこなかった?」
その言葉が、とどめだった。
独占したかった。
彼のすべてを。
だが、その光の裏側にある影を、見ようとしてこなかったのは、紛れもない自分自身だ。
ひなたの純粋さ。
あやの正論。
さやかの同情。
かおりの冷徹な真実。
そのすべてが、容赦なく自分を打ちのめす。
その時、これまでずっと黙っていたこはるが、ぽつりと呟いた。
「…なんか、この曲、音が泣いてるみたい…」
ガラス越しに、誰かが小さく助けを呼んでいるみたいな音――
こはるには、そう聴こえた。
誰もがけいとと歌詞の行方に気を取られる中、その小さな声はほとんど誰の耳にも届かなかった。
こはるは、スマホのスピーカーに耐えられないといった様子で、そっと自分の耳を両手で塞いだ。
不安。
自己嫌悪。
そして、彼の心がもう二度と戻らないかもしれないという、身を切るような恐怖。
「Second Love」は、Rogue Soundに記録的な成功をもたらした。
だがその眩い光は、皮肉にも、最も大切な二人の間にだけ存在するはずだった夜空を完全に消し去り、修復不可能なほど暗く、深い亀裂を生み出そうとしていた。
Midnight Verdictの練習室。
誰もが息をすることさえ忘れたかのように、ただ重い沈黙だけが満ちていた。
(違う…)
こはるだけが、心の中で静かに首を振っていた。
(みんなわかってない。
これは、ひとりぼっちの音だ…)




