vol.129 First Love
スタッフの誰かがインカムで何かを叫んでいる。
だが、その声はもう、誰の耳にも届いていなかった。
SNSのタイムラインが、熱狂と混乱で染まっていく。
「けんたろうが何か始める!」
――日本中の目が、彼の一挙手一投足に注がれていた。
「始まるの?」
「マジで、ここで?」
ステージ脇でスタッフが顔を見合わせる。
MCは笑顔を保ったまま、言葉を探している。
ユージは後ろにさがり、マイクをけんたろうの前に。
今日は、相棒の声を通す番だ。
疾走感のあるシンセサイザーの音が、静寂を破って会場を包み込んだ。
それは、かつての名曲「あなたは知らない」を彷彿とさせる、
胸を締め付けるビート。
だが、あの曲にあったギターの音はなく、シンセサイザーの音色だけが、激しい高揚感の中に切なく哀愁を漂わせる。
イケイケなサウンドにふと忍び寄る、悲しみの香り。
けんたろうの歌声が、そのユーロビートに乗って響き渡る。
青臭くて純粋すぎる想い。
3年前に一人の中学生が抱いた、名前のない恋心。
Aメロ
【近くにいるけれど遠くにいるあなた】
【美人で年上で僕には遠い人】
【そんなあなたを見つめてる】
「うわ...リアルすぎる」
観客席で男子大学生がつぶやく。
隣の友人も頷いた。
「これ、体験談じゃん...」
スタッフの一人が、思わず作業の手を止めた。
こんな生々しい瞬間は滅多に見られない。
控室のモニターを見ていた綾音の目が潤む。
(けんたろうくん...こんな想いを一人で抱えてたのね)
Bメロ
曲調が一変する。
喧騒の毎日の中で、ふと自分の心と向き合う音。
嵐のようなシンセの音が嘘のように止み、ぽつり、ぽつりと、優しいピアノのアルペジオが響き始めた。
【二人きりになると何もできなくて】
【話したくても話せなくて】
【手をつなぎたいけど繫げない】
【こんな僕が嫌になる】
彼の声は、もどかしさと自己嫌悪を帯び、切なく震える。
最前列にいた制服姿の女子高生が、そっと目元を拭う。
「わかる…」
誰にいうでもない、小さな呟き。
会場にいる多くの人々の心の奥底に眠っていた、青臭くも愛おしい記憶の蓋を、容赦なくこじ開けていく。
MCのポッキー田中も、いつものお調子者の表情を完全に忘れて聞き入っていた。
これは、もう番組でも何でもない。
一人の青年の魂の告白だった。
そして、再び激しいビートと共に、シンセサイザーの音が鳴り響く。
曲はクライマックスへと向かう。
ユージは息を置く。
サビ
【何もできない First Love】
【見つめて欲しい First Love】
祈りのように。
叫びのように。
一度はしまい込んだはずの感情。
抑えきれないとばかりに爆発する。
【彼女を好きになれたのはとても幸せさ】
【遠くにいる彼女を見つめてる】
激しさと哀愁が再び交錯し、初恋の甘酸っぱさと、手の届かない存在への切ない想いが、音となり決壊する。
観客も、スタッフも、そしてユージでさえも、けんたろうの魂の叫びに、ただ圧倒されていた。
これは即興曲などではない。
けんたろうの心の奥に、ずっと出口を求めて彷徨い続けていた、初恋の残響そのものだ。
けんたろうの指が鍵盤を離れた時、その手は微かに震えていた。
ユージが肩を叩く。
力任せではない。
ここにいるの合図。
控室のモニターの前で、綾音がほっと息を吐いた。
パフォーマンスが終わった瞬間、ネット上では「#けんたろうの即興曲」がトレンド1位に躍り出た。
「天才すぎる」
「鳥肌が立った」
「俺にもこんな想いがあったな…」
――絶賛の声が嵐のように吹き荒れる。
だが、それ以上に人々の心を掴んだのは、その歌詞に込められた、誰もが経験したことのある、生々しい恋の痛みだった。
やっと音にできた。
それだけで、世界が少し、こちらに寄った気がした。




